唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十四年(819年.弘仁九年)

2006-11-02 19:06:53 | Weblog
武寧軍李愬や宣武軍韓弘などの攻撃に加え、魏博節度使田弘正は全軍を率いて李師道を伐った。
ついに二月淄青将劉悟は李師道を殺して降り、淄青十二州は朝廷の支配下になり、淄青・天平・沂海の三鎭に分割された。
半独立の宣武軍節度使韓弘も懼れて汴宋亳穎四州を献じて入朝した。
これにより友好的な魏博・幽州節度使を除き唐の威令が届くことになり、藩鎭から支州を分離して弱体化させる政策も実施されることになった。
政界では佞臣皇甫鎛が寵遇をうけ、功臣裴度は河東節度使として出され、崔羣もまた失脚した。
憲宗はいよいよ道教にこり、仙薬の影響により精神状態がおかしくなっていった。
北辺では吐蕃がしばしば来寇したが大きな損害はなく、かえって憲宗は吐蕃を討伐し隴右回復を考えるようになっていった。
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元和十三年(818年.弘仁八年)

2006-11-02 17:52:03 | Weblog
淮西平定により形勢は全面的に朝廷有利に傾いた。
三月河北の横海節度使程權は滄景二州を献じてきた。
四月成徳王承宗も形勢不利と見て、魏博の田弘正のとりなしによって徳棣二州を獻じて帰服した。
そして滄景徳棣の四州をもって河北に新横海節度使が置かれた。
そして七月降り遅れて最後に残った淄青節度使李師道討伐が始まった。
中央政界では財政に明るい皇甫鎛や程异が、九月に官僚世論の反対を押し切って宰相に登用された。
気が緩んだ憲宗皇帝はしだいに山人柳泌などの道教に凝り、仙薬探しなどを始めた。

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