唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳112 河間王/趙郡王李孝恭

2024-08-24 10:37:57 | Weblog

河間王孝恭

高祖從父兄子。祖蔚は周朔州總管.贈蔡王.父の安は隋領軍大將軍。贈西平王。襄武郡王琛の弟。

沈敏で識量があった。

長安陥落後
左光禄大夫

義寧元年十二月
趙郡公左光祿大夫として招慰山南。
朱粲を破り、金川より巴蜀に入り、三十餘州を歸附させた。

武德二年
信州總管

三年三月
蠻酋冉肇則が信州に侵攻し、孝恭・李靖はこれを破り、開、通二州を回復した。

蕭銑の東平王闍提を破り殺した。

趙郡王に進んだ。

四年二月
信州を夔州とし總管となった。舟艦を作り水戰を訓練して蕭銑征討を始めた。
孝恭は軍事には通じていなかったので、李靖を行軍總管兼長史とし軍事を任せた。
巴蜀酋長の子弟を招集任用し、実は人質とした。

六月
廬江王瑗・田世康・周法明とともに蕭銑を討った。

九月
荊湘道行軍總管、李靖は攝行軍長史とし十二總管軍を率いて夔州より洪水の中江を降った。

十月
蕭銑は大水に油断しており、荊門・宜都二鎮を抜き夷陵に進んだ。
銑將文士弘を清江・百裡洲に連破した。
銑江州總管蓋彥舉が五州を以って降った。
銑は不利とみて徹底抗戦せずに降った[のち殺された]。孝恭は江陵を掠奪しなかった。
銑が降って数日、援兵十餘萬が来たが降伏を聞き降った。

銑の交州總管丘和長史高士廉は銑が敗れたことを聞き降った。

荊州總管となり、李靖は上柱國永康縣公として嶺南を安撫させた。
屯田を置き、銅冶を開いて振興した。

十一月
銑桂州總管李襲志が所部諸州とともに來降した。

五年四月
夔州總管より荊州大總管?。

六年
襄州道行臺尚書左仆射に遷った。

八月
輔公祏が丹陽で反したので、行軍元帥として李靖・黄君漢・李世勣とともに討った。

七年正月
輔公祏軍を樅陽で破った。

二月
鵲頭鎮を抜いた。

輔公祏の反に杜伏威が連座したと誣告して除名し妻子を籍沒させた。

三月
輔公祏を大破して捕らえた。

公祏の乱に坐しなかった者の財産を奪い、抗議した趙州都督闞棱を殺した。

東南道行台左/右僕射、ついで行台を廃して楊州大都督。

功を誇り石頭に築城し豪邸を構えた。
しかし告発され解任された。太宗のいつもの功將への嫉妬による。

九年
宗正卿。

九年十月
食實封一千二百戸

貞觀初
禮部尚書?。

坐事免

梁/涼?州都督

五年正月
朝集使として太宗に封禪の実施を願い出る。太宗は許可しなかった。茶番である。

十一年
光禄大夫晉州刺史

十一年六月
趙郡王より河間郡王となり、世襲觀州刺史。

十三年七月
禮部尚書として築壇于河上。

性は奢豪で遊宴を好み、歌姬舞女百有余人をもったが、寬恕退讓で傲慢なところはなかった。

十四年十月
卒 50才.贈司空.揚州都督.陪葬獻陵.謚曰元。

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唐初功臣傳111 長樂王李幼良

2024-08-23 10:35:33 | Weblog

長樂王幼良

叔良弟。

性粗暴で専殺し処罰された。

武德元年六月
長樂郡王。

九年
涼州都督となるが、部民が横暴であり評判が悪かった。

三月
突厥の侵攻を撃退した。

貞觀元年四/五月
羌胡と互市し、叛意を疑われた。太宗は中書令宇文士を急行させ厳しく取り調べさせた。
幼良と部民は懼れて突厥に逃げるか、河西で自立するかを迷った。
告発する者がいて誅殺された。太宗による自党でない皇族の粛清かもしれない。

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唐初功臣傳110 長平王李叔良

2024-08-22 10:32:25 | Weblog

長平王颖 字叔良

高祖從父弟也。父禕は隋上儀同三司.武德初贈郇王。

義寧中
左光祿大夫封長平郡公。

武德元年六月
刑部侍郎.長平郡王。

九月
劉感を助けて鎮涇州、薛仁果に包囲されたが固守。

四年六月
五將を率いて突厥を擊つが、負傷し歸途に卒した。
贈左翊衛大將軍.靈州總管.謚曰肅。

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唐初功臣傳109 襄邑王李神符

2024-08-21 10:31:21 | Weblog

襄邑王神符 字神符

神通の弟。

李淵の反乱後、長安に留まり捕らえられる。

義寧元年
光禄大夫安吉郡公食邑二千戸.大府少卿。

武德元年六月
襄邑郡王食邑三千戸。

京兆治中/雍州司馬となった。

平道将軍.出鎮岐州.

三年~四年
稷州刺史

四年
并州総管

五年八月
突厥を汾東で破った。

右光禄大夫検校兵部尚書兼大府卿

八年
檢校揚州大都督となった。
州府を北岸に移した。

貞觀元年
將作大匠兼散騎常侍

三年
復宗正卿

足疾辭.光禄大夫。

二十三年
開府儀同三司

永徽二年五/六月
卒.73才.贈司空.荊州都督.陪葬獻陵.謚曰恭。

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唐初功臣傳リンク

2024-08-20 17:34:11 | Weblog
唐初功臣傳
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唐初功臣傳108 膠東郡王李道彥

2024-08-20 10:26:43 | Weblog

膠東郡王道彥

淮安王神通の子で孝行であった。

父神通が李淵の反乱に応じて起兵したのに従う。

義寧1.9
長安が陥落すると朝請大夫。

高祖即位後
義興郡公

膠東郡王.隴州刺史となった。

武德九年
皇族整理により膠東郡王から郡公に降爵された。

貞觀初
相州都督

岷州都督となるが丁父憂、帰服してまた岷州都督。

党項所部を帰服させた。

貞觀二年正月
岷州都督として吐谷渾の侵攻を撃退した。

貞觀八年十二月
岷州都督膠東郡公から赤水道行軍總管となり吐谷渾を討った。

九年七月
大総管李靖は吐谷渾を討つため、黨項羌酋長拓跋赤辭と結んでおり、赤辭は同盟を信用していた。
ところが赤水道行軍總管道彥は赤辭が油断しているのをみて襲い、その牛羊數千頭を奪った。
黨項羌は激怒し、赤辭は道彥・樊興軍を大破し潰滅させた
道彥は敗戦の責任を問われ邊地へ流された。

久しくして媯州/涼州都督?

貞觀十二年十一月
交州都督?として明州山獠を討った[廣寧縣公道興の誤り]。

卒.贈禮部尚書.

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唐初功臣傳107 淮安王李神通

2024-08-19 10:24:22 | Weblog

淮安王李壽 字神通。

高祖從父弟。

父亮は隋の海州刺史であった。高祖即位後贈鄭王。

隋末長安にいたが、高祖が反したため追捕をうけ逃走。

史萬寶や何潘仁等と結び起兵して、平陽公主[高祖女]を擁立して關中道行軍總管を自称した。

長安が陥ると光禄大夫.鄭國公.宗正卿から右翊衛大将軍上柱国。

武德元年六月
鄭國公から永康郡王に遷り、すぐ淮安郡王。

十月
右翊衛大將軍山東道安撫大使諸軍受節度となり、河北の平定に赴いた、黄門侍郎崔民幹が副となった。

二年正月
宇文化及を魏縣に破り、化及が逃亡した聊城に迫った。

閏二月
化及を聊城に攻めた。化及は糧が盡きたため降ろうとしたが、神通は「將士は掠奪を求めているし、逆賊は誅して国威を示さないといけない」と許さなかった。
民幹は「背後に竇建德が迫っています、このままでは敗北します、掠奪などに拘っている場合ではありません」と諫めたがきかなかった。
きもなく化及軍は体勢をを立て直し、神通は攻めたが勝てなかった。
そして建德軍が迫り撤退するしかなかった。

八月
竇建德が大軍をもって洺州に迫り、神通は相州へ退いた。
建德は洺州を陥し相州に迫った。

九月
竇建德は趙州を陥し、總管張志昂・張道源を捕らえた。

十/十一月
竇建德は黎陽を陥し、神通や李世勣を捕らえた。建徳は神通を下博に安置した。

四年五月
竇建德が敗北し、神通は解放されて山東道台右僕射.慰撫山東使に復し、建徳麾下の三十餘州を平定した。

九月
劉黒闥が反し、神通は關内兵を率いて、幽州李藝軍と合同した。

劉黑闥と饒陽城南で戦い大敗した。

五年六/七月
任瓌、李世勣と徐圓朗を討った。

十二月
子の孝友等八人が郡王となった。左武衛大将軍.玄戈将軍。

九年六月
皇太子建成は世民と宴会し酒に毒を盛った?、神通は世民を助けて戻った。世民派であった。

八月
太宗の功臣行賞にさいして、建国以来の武臣たちよりも、太宗側近の文官房玄齡や杜如晦等が優遇されることを抗議した。

貞觀元年
開府儀同三司.賜實封五百戶

四年十二月
卒.54才.贈司空.謚曰靖.

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唐初功臣傳106 永安王李孝基

2024-08-18 10:22:58 | Weblog

永安王孝基 字孝基

高祖の從父弟

父璋は周梁州刺史として、隋文帝を謀殺しようとして誅された。高祖即位後贈畢王。

武德元年六月
隋蜀國公より永安郡王に遷る。
陝州總管となり、鴻臚卿に移るが有罪奪官。

武德二年十月
劉武周が晉州に侵攻し、行軍総管として獨孤懷恩・于筠・唐儉とともに討った。

十一/十二月
武周將尋相、尉遲敬德に夏縣で敗北し,捕らえられた。

脱走を試みたが捕まり殺された。

贈左衛大將軍﹐謚曰壯。

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唐初功臣傳105 閻立德

2024-08-17 10:05:31 | Weblog

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閻讓,字立德
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隋殿內少監毗の子.宰相立本の兄。

武德元年
秦王府士曹參軍として東都平定に従う。

四年
尚衣奉御として袞冕六服.腰輿.傘扇を作成。

貞觀初
將作少匠.封太安縣男。

八年
永安宮を造営した。

九年
高祖山陵作成の功績で將作大匠。

十年
文德皇后崩御し攝司空となり昭陵を造成したが失態があり免官。

十一~十三年
博州刺史。

十三年
復將作大匠。

十四年
汝州襄城宮を大規模に造営するが炎暑と毒蛇などで不評。

十五年
免官。

十八~十九年
摂殿中監として太宗の高句麗親征に従い造橋の功績があった。

二十二年~顯慶元年
翠微・玉華宮を造営した功績で工部尚書

二十三年
攝司空として太宗山陵を造営して太安縣公。

永徽五年
留守京師.京城を修築。

顯慶元年
卒 贈吏部尚書.并州都督.陪葬昭陵.諡曰康.

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唐初功臣傳104 李道裕

2024-08-16 10:01:36 | Weblog

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李道裕
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大亮の兄の子。父大通は隋通事謁者。

貞觀初
虞部郎中.使高昌

十三年
將作少匠。

十八年
太宗の高句麗遠征時、韋珽が漕運に失敗し、代わって行った。

二十年
宰相張亮が謀叛を企てているという訴追があり、高句麗での敗戦以来不安定な太宗の意向を受けて百官は亮が誅に当たるとした。しかし道裕は証拠不十分で無罪であるとし、太宗の激怒を招いた。
結局亮は誅殺された。

二十二年
まもなく太宗は拙速を後悔した。そして刑部侍郎が欠官となると道裕を選任した。封狄道縣公.

二十二年
萊州刺史
太宗が高句麗再征[將薛萬徹]を企画し、その水軍の準備に当たるが崩御。

永徽元年~二年
蒲州刺史

永徽二年~三年
大理卿。

 

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