河間王孝恭
高祖從父兄子。祖蔚は周朔州總管.贈蔡王.父の安は隋領軍大將軍。贈西平王。襄武郡王琛の弟。
沈敏で識量があった。
長安陥落後
左光禄大夫
義寧元年十二月
趙郡公左光祿大夫として招慰山南。
朱粲を破り、金川より巴蜀に入り、三十餘州を歸附させた。
武德二年
信州總管
三年三月
蠻酋冉肇則が信州に侵攻し、孝恭・李靖はこれを破り、開、通二州を回復した。
蕭銑の東平王闍提を破り殺した。
趙郡王に進んだ。
四年二月
信州を夔州とし總管となった。舟艦を作り水戰を訓練して蕭銑征討を始めた。
孝恭は軍事には通じていなかったので、李靖を行軍總管兼長史とし軍事を任せた。
巴蜀酋長の子弟を招集任用し、実は人質とした。
六月
廬江王瑗・田世康・周法明とともに蕭銑を討った。
九月
荊湘道行軍總管、李靖は攝行軍長史とし十二總管軍を率いて夔州より洪水の中江を降った。
十月
蕭銑は大水に油断しており、荊門・宜都二鎮を抜き夷陵に進んだ。
銑將文士弘を清江・百裡洲に連破した。
銑江州總管蓋彥舉が五州を以って降った。
銑は不利とみて徹底抗戦せずに降った[のち殺された]。孝恭は江陵を掠奪しなかった。
銑が降って数日、援兵十餘萬が来たが降伏を聞き降った。
銑の交州總管丘和長史高士廉は銑が敗れたことを聞き降った。
荊州總管となり、李靖は上柱國永康縣公として嶺南を安撫させた。
屯田を置き、銅冶を開いて振興した。
十一月
銑桂州總管李襲志が所部諸州とともに來降した。
五年四月
夔州總管より荊州大總管?。
六年
襄州道行臺尚書左仆射に遷った。
八月
輔公祏が丹陽で反したので、行軍元帥として李靖・黄君漢・李世勣とともに討った。
七年正月
輔公祏軍を樅陽で破った。
二月
鵲頭鎮を抜いた。
輔公祏の反に杜伏威が連座したと誣告して除名し妻子を籍沒させた。
三月
輔公祏を大破して捕らえた。
公祏の乱に坐しなかった者の財産を奪い、抗議した趙州都督闞棱を殺した。
東南道行台左/右僕射、ついで行台を廃して楊州大都督。
功を誇り石頭に築城し豪邸を構えた。
しかし告発され解任された。太宗のいつもの功將への嫉妬による。
九年
宗正卿。
九年十月
食實封一千二百戸
貞觀初
禮部尚書?。
坐事免
梁/涼?州都督
五年正月
朝集使として太宗に封禪の実施を願い出る。太宗は許可しなかった。茶番である。
十一年
光禄大夫晉州刺史
十一年六月
趙郡王より河間郡王となり、世襲觀州刺史。
十三年七月
禮部尚書として築壇于河上。
性は奢豪で遊宴を好み、歌姬舞女百有余人をもったが、寬恕退讓で傲慢なところはなかった。
十四年十月
卒 50才.贈司空.揚州都督.陪葬獻陵.謚曰元。