珍しくRaffaele Calace(ラファエレ カラーチェ、1863-1934)の演奏したSPレコードがヤフオクに出品されましたので、先日応札し入手できました。
レコードが一般的でなくなった今日SPはスペシャルのこと?なんて思われるかたもいらっしゃるかも知れませんが、33回転のLP(long playing)レコードが出現する以前の古い78回転standard playingレコードを指しています。
ヤフオクに出品されていましたラファエレ カラーチェ演奏のレコードは次の2枚でした。
A ボレロ/ガボット (Raffaele Calace作曲) レーベル:日東蓄音器
B ロンド ニ長調/矯人の踊 (Raffaele Calace作曲) レーベル:日東蓄音器
矯人(きょうじん)とはあまり使わない言葉ですが、原題Danza dei naniを当時「矯人の踊」と訳していたようで、中野二郎は「正しくは”小人たちの踊り”であろう」と解説しています。
ラファエレの演奏はSPからの復刻版としてマンドリン本邦渡来100年記念「マンドリン カラーチェ親子の至芸」と題して1995年VictorからリリースされたCDに収録されています。
このCDに上記ボレロ、ロンド、矯人の踊のニットー盤が収録されていますが、ガボットはグラムフォン盤とポリドール盤だけでニットー盤がありませんでしたのでガボットのあるAのみ応札しました。
ラファエレは1921(大正10)年皇太子裕仁(ひろひと)親王のナポリ訪問の際自作の楽器を献上しました。
彼は1924(大正13)年12月三女エレオノーラと駐日イタリア大使館付通訳官コルッチの婚礼のために来日、翌年にかけて東京、京都、名古屋などで演奏会を開いています。
CD 「逅(こう)~日本のマンドリン」入手しました、のブログ(2017.12.01)に紹介しました写真にエレオノーラとコルッチが写っています。
このニットーレコードは来日の好機を捉えた貴重な記念録音盤と言えます。
来日中にラファエレは東伏見宮邸に招かれ皇太子で摂政宮(せっしょうみや)の裕仁親王に御前演奏をしています。
この前後1923 (大正12)年には関東大震災勃発、1924(大正13)年皇太子結婚、1926(大正15)年改元、裕仁親王は昭和天皇となりまさに激動の時代でした。
カラーチェ家の家系は、初代カラーチェ、ニコラ(Nicola Calace、1794-1869)が1825年にカラーチェ社を創立、楽器製作の工房はその後息子のアントニオ(Antonio Calace、1828-1876)、その息子ニコラ二世(1859-1924)とラファエレ(Raffaele Calace、1863-1934)兄弟、弟ラファエレの息子ジュゼッペ(Giuseppe Calace、1899-1968)、その息子ラファエレ二世Raffaele Calace Jr(1948-)とその一人娘アンナマリアAnnamaria Calace(1980-)へと引き継がれ今日に至っています。
武井守成はラファエレ一世を名実ともにムニエルの後継者と称賛しました。
ラファエレは昭和天皇の皇后、良子(ながこ)妃殿下に「カント・ノスタルジコ~ラファエレ・カラーチェより 桜の地に咲く優しき花 良子妃殿下に捧ぐ」と記したCanto Nostalgico(望郷の唄、Op.135)という曲を捧げています。
この曲はとても優美な曲で、中野二郎は「冒頭ピアノのアルペジオにのって淡々と望郷の思いを述べるところから既に切実で、これがリュートに受け継がれて、マンドリンが綿々とまつわって粉飾するあたりは、泣きたいほどである」と語っています。
Canto Nostalgico (Raffaele Calace) Op.135
話を戻してこのSPレコードですが、いざレコードをプレイヤーにかけて聴こうとして大失態、手持ちのプレイヤーはLP、EP(extended playing)レコード専用でした!
SPレコード用のプレイヤーを手に入れるまで聴くことができません。
これだけいろんなソフトがあるのですからLPプレイヤーにSPレコードをかけても針やレコード溝の構造的な違い、回転速度の違い、音量、フォノイコライザの周波数特性を含めソフトで補正してそれなりの音で聴かせてくれるようにはできないものでしょうか。
ダイヤモンド針であればSPレコードをかけても針の摩耗に対しては問題ないような気もするのですが。
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