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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

室井勝

2023-12-09 20:15:46 | 日記
1963年
和歌山県田辺市立明洋中学、野球部の室井勝投手(15)=三年生、同市芳養町=は十二日、大洋ホエールズと入団契約を結んだ。同投手は177㌢、70㌔、右投げ右打ち。中学生のプロ入りはさきに中日入りした松本選手(長崎県諫早中)についで二人目。


森代表の話 室井選手については二回調べたが、不安を感じることのないほど完全なフォームで、必ずよくなる選手だと思う。球団に若い血を間断なく注いでいくためにも、今後このようなケースはふえていくと思う。


室井投手の話 両親とも賛成してくれたので入団することに踏み切った。小学生時代は二塁手で、中学一年から投手に転向した。入団したら夜間は東京の定時制高校に通うつもりです。

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松原由昌

2023-12-09 19:59:46 | 日記
1974年
巨人ドラフト指名外四人目の選手として十二日、東京水道局・松原由昌投手(19)=1㍍79、72㌔、右投右打、向の岡工出=の入団が決まった。この日午後、武宮スカウト部長、木戸前コーチが東京・大田区平和島の勤務先を訪ね、関係者にあいさつ。その足で川崎市大師町の松原宅を訪れ両親と話し合った。その結果、年棒百四十四万円で契約書にサインし、入団が決まった。松原は八月の新人候補テストで二百五十人の中から合格。これまでは捕手をやっていたが、百十㍍を越す遠投力が認められ、巨人では投手として育てていく方針である。鉄砲肩というより、バカ肩に巨人はすっかりほれ込んでしまった。軽く投げても百㍍を越すのだから「ボクは捕手が専門ですよ」とびっくりした松原に「その強肩を買って投手で契約しよう」と武宮スカウト部長が身を乗り出したのも無理ない。高校二年のとき右肩を痛め、スナップスローを勉強したのがよかったという。肩が治って投げてみたら手首の強化がプラスされて自分でもびっくりするほど遠くに投げられるようになっていたのだ。だが、プロ入りに反対する声は強かった。都庁にこのままいたら安定した生活が保証される。巨人にはいったら、いつお払い箱になるかわからない、との考え方だ。母親・フミさん(58)もその一人だった。しかし木戸前コーチの説明に納得すると「私の目の黒いうちに一度はテレビに映ってほしい」と激励するほどに変わった。父親・勇さん(61)=洋服仕立業=も「この子の本業はやはり野球だったんですよ」とキッパリ。野球の名門私立高校へ進学したかったのに、家計が苦しいのを知って、県立高校に進学した息子に、両親はいまやっと借りを返した心境になったらしい。高校時代はいつも一回戦でコロリ。二回戦進出といえば、ことし九月の全国官公庁大会がはじめてとまるで無名だ。「そう、ボクは出出しの原木なんです。コーチの教えをよく聞いてぜひ成功したいなあ」多摩川グラウンドに全員集合の号令がかかる一月十日、ミットをグラブに持ち変えた松原もその円陣にはじめて加わる。


松原由昌(まつばら・よしまさ)投手、ドラフト外、1㍍79、72㌔、右投右打、都水道局平和島支局、十九歳。八月の新人テストで二百五十人中でただ一人の合格者。神奈川・向ヶ丘工時代は一回戦で敗れるなど無名中の無名。どのポジションもこなす万能選手で「本職は捕手」というが、巨人では遠投百十㍍の強肩を高く評価して投手として育てる。


1975年


巨人の背番号「68」、松原由昌投手(19)昨年秋、雨の多摩川で行われたテスト、その志願者からただ一人選ばれたルーキーが懸命に汗を流している。前職は東京都水道局南部第一支所で、各家庭に鉛管を引く工事の監督補佐をしていた異色ルーキー中の№1である。月給12万円。「初給料で親父にプレゼントができました。いままで一度もコーチを受けたこともなく、基本もさっぱり。でも、やる以上は誰にも負けたくない」。一回目の遠投テストで百十㍍の測定ラインを楽にオーバーして「即合格」になったバカ肩。どんな開花ぶりをみせるか。

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桝岡憲三

2023-12-09 19:37:13 | 日記
1963年
紅白試合に登板しているのは今シーズンの公式戦に登板を予定されている投手ばかり。白石監督は「たよりにしている投手を紅白試合、オープン戦にどんどん使い、重点的に鍛えていく」といっている。桝岡は四回投げて五安打2点をとられたが白石監督が大いに買っている若手成長株だ。「低目に変化するクセ球をもっている。それにボールが重く当っても飛ばない」というのが白石監督の桝岡評。田中捕手も「打てるようで打てない」といっていた。プロ三年目の桝岡(1㍍77、76㌔、右投右打、広陵高出)は「大石さんのように投げまくって20勝してみたい」と懸命。「真っ向から打者を封じ込むにはもっとスピードをつけなければ…」とスピードの増加に取っ組んでいる。

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安岡正博

2023-12-09 19:29:36 | 日記
1960年
大阪タイガースはさる二十九日新人募集テストを行って五人の第一次合格者を決めたが、三十一日このなかから安岡正博投手(18)=大阪工大付属高校=を正式に採用した。安岡投手は左投左打、身長1・75㍍、体重72㌔、速球を主武器とする本格派である。


去る八月二十九日阪神は新人募集のテストを行いこのテストで一人有望な新人が見つかったと球団幹部を喜ばせている。安岡正博(18歳、大工大付属高、1㍍75、72㌔、左投左打)である。すぐ契約を完了したがテストに立ち会った藤村顧問は「巨人の坂崎に似ている」といっている。バッティング・テストで二軍投手の球をたてつづけに右翼席へたたきこんだ。投手としての経験もあるそうだ。

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木原義隆

2023-12-07 20:46:15 | 日記
1964年
木原は、和歌山海南市原野町の出身だ。農業を営んでいる豊之助さんとまささんの間に、七人兄弟の末っ子として生まれた。兄一人、姉五人、腕白の末っ子、義隆少年は成長していった。義隆少年が野球遊びの仲間入りしたのが、北小学校の四年の時である。担任の村上不苦丸先生が無類の野球好きで、彼の体格をみて目を細めていた。ボールの握り方からはじめ、先ずキャッチボールの大切なことを教えてくれたのである。人より早く登校した木原少年のアンパイヤーで毎日200球を投げ終えていた。昼休み、更に放課後と、一日600球以上の投球を、彼は村上先生の厳しい指導の前で投込んで帰る事にしていた。小学校六年の時、文部省からの指令で小学生の野球試合は禁じられ、チームは対外試合ができなくなり実力のほどがわからなくなった。それでも先生と木原少年のバッテリーは解散せずにつづけられていた。今でも、木原が野球を語る時、一番の思い出になる人はこの村上先生なのである。北野上中学に進んで、晴れて試合のできる時がやってきた。ここでも彼は投手だった。或る日、その年の運動会の競技種目のことでチームの意見が二つに割れ、木原に味方してくれたのはたった一人、その一人になっても我を通した。彼は意地を張ってあれほど好きな野球部から退部してしまい、バレー部へ入れて貰った。しかしバレーをやりながらも、気にかかるのは野球のなりゆきなのである。考えに考えた揚句、野球部員にコネをつけて、復起できるチャンスを作った。三年生になった木原はまたグラウンドをもって、思う存分に暴れまわることができるようになった。引く手あまたの中、彼は海南高校を選んで入学した。実家から少し離れているここへ通うため、木原は一番上の姉とみ子さんの家へ寄留した。一年生で早速ユニホームを貰い、紀和代表の一員として早くも甲子園の土を踏んでいる。チームには、後で早大入りした宗投手が投げ、これも慶大入りした榎本が活躍し、海南の名を全国ファンに印象づけた好選手の多い年だった。この次の年が木原の活躍する年なのである。コントロールに苦しんだ木原が、ひとりで編み出した横手投げが、意外にコントロールが良くボールののびがいい。夏の予選は決勝戦で涙を呑んだが、この予選には、ノーヒットノーランを樹立、サイドスローに自信をもつことができた。秋に入り、新チームが編成されてみると木原のワンマンチームだった。ところが、張切って新チームの先頭に立った木原は右胸から背へかけて激痛に見舞われた。診断の結果は、簡単だった。「十分に休養すれば全快する」時もあろうに、それが選抜大会の三日前までである。中二日、たった二日間の投球練習だけで、木原は甲子園のプレートをふんだ。第一戦の関西高には勝ったが法政一高に、1-0で惜敗した。それでも、自分から編み出した横からのピッチングに、木原は彼なりの自信を深め、杉浦や秋山のフォームを見ながら練習をつづけた。この木原の素質を、誰よりも認め、励ましてくれたのは他ならぬ伊東監督(法大OB)だった。木原が今日あるのは、小学校時代から今まで、身辺の指導者に良き人を得たからなのである。これは誰より木原自身が一番よく知っているし、その人のためにも大成したいと願っている彼である。木原は入学以来三年間、いまだ一度もチームの大黒柱としての働きはしていない。いい素質を持ちながら、実力を発揮するまでの根性が、あまりに周囲が適温にすぎたために強く育たなかったのである。この魔力を秘めた怪腕が、渡辺(慶)松本(立)宮本(早)新治(東)らを相手にどんな花を咲かせてくれるだろうか。一にも二にも練習であろう。それ以外の肥料は、木原の恵まれた体質の中に、もう必要ないからである。

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塩谷治

2023-12-07 20:11:14 | 日記
1969年


昭和26年7月29日生まれ
去年は準決勝で東奥義塾に惜敗したが、今年は絶対準決勝に進出すると張切っている。気の弱かった塩谷投手もすっかり成長、投打ともにチームのけん引力だ。決め球のカーブは投込むほどよくなる。

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江崎照雄

2023-12-07 08:57:13 | 日記
1962年
江崎は昨年の暮れもおしまった二十一日、永江球団社長の晩酌で人生への再スタートをきった。その披露宴での席上でのこと、祝辞にかけつけた大毎時代の親友中西投手から「ことしのことはお互いにいわぬことにしよう。そして来年こそはわれわれの輝ける年にしよう。そのためお互いにがんばろう」と堅く誓いあった。作家の藤沢恒夫氏からも「もともと力がありながら、欠点ともいうべき生来の気の弱さから、その力をじゅうぶんに発揮できなかったのが江崎君だ。だから江崎君の場合、精神面での立ち直りが急務。その意味で彼の結婚は実に有意義で必ずわたしの期待にこたえてくれるものと信じる」こういった暖かい周囲の激励に、当の江崎はうつむきながらもいちいち大きくうなずいていた。おそらく彼の胸中にはこのときよおし、やるぞという男の意地めいたものがわいていたに違いない。それが証拠にふと顔をあげた彼の表情から、はっきりと自信のほどがくみとれたのも事実だった。新婚旅行をはやめにきりあげた江崎は、その翌日からさっそく規則正しいトレーニング生活にはいった。昨年の秋季トレーニングにもかかさず顔を出し以後も結婚式の前日までずっとトレーニングに励んでいただけに体調はすこぶるよい。正月は帰郷したが、その期間中もむろん正月返上で精を出した。この江崎の精励なトレーニングぶりは、彼の自宅付近(大阪市住吉区)の人々の間でも一時は評判だったほどだ。「できるだけのことをやって、それで成績が悪ければ悔いも残りませんからね。ことしは足、腰をとくに鍛えようと、連日ランニング、なわとびをくり返しました。おかげで昨シーズンの終わりには86㌔をオーバーしていた体重もいまでは83㌔。ベストコンディション(81㌔)にあと一息です」と語る表情も明るい。そういえば、昨シーズンの自己のつまずきが、そもそもトレーニング期間中に痛めた軸足のヒザであっただけに、この点をよく反省、重点的なトレーニング法を行っているのだろう。「いまじっくり反省してみると、昨年はピッチング一つにしてもあまりにも考えすぎた。その結果、つねに迷いがともない肝心なところで一発いかれると、そのままがたがたくずれるケースが多かった」と彼がいうように確かに昨季の江崎は本来の自己のピッチングをしていなかった。もともと彼はどちらかといえば、力でぐんぐん押していくタイプの投手。一昨年の好調時にも示されたように、彼の低めにきまるストレートには、山内や豊田でさえもちょっと手が出なかったほどだ。それがへたに変化球に頼ろうとしたからいけなかった。原因もせんじつめれば、コントロールに自信がなかったからにほかならないが、ボール一つの差でどれだけ破たんを招いたか致しれない。「それがはっきりわかりました。杉下さんが全盛期のころは、ど真ん中の直球で勝負したといわれますが、ボクもことしはそれぐらいの気構えで、直球とシュートで勝負していくつもり…」と語る。なにしろ昨年の今治キャンプではでき上がりがはやく、入団早々の徳久をして「江崎さんみたいなすごい球をほられたんではとてもボクなんか…」とあやふく徳久の自信を喪失させかけたというほどの江崎の球感だ。その彼が「本来のピッチングにたちかえりたい」といのうだから大いに期待がもてるのもしごく当然だ。「野口さんがコーチになられたことは本当にしあわせです。高校時代の先輩でもあるし、大毎時代から欠点もよくしっておられるし…気分的にもなにかどっしりした支えができた感じです」という江崎。これに対し野口コーチは「昨年の江崎はなにか無理をして背のびをしようという感じだったな。そのため小さく固まってしまっていた。ことしは蔦、黒田ともに大いにやってもらわねばならないのだし、ボクとしてもなんとかもう一度立ち直されたい…」という。また別当監督も「彼がプロ入りしたときが第一の人生であれば、近鉄に移籍して活躍した一昨年が第二の人生。そして結婚し、心機一転したことしからがいわば第三の人生でもある。その意味からも江崎の前途を輝けるものにしてやりたい」と大きな期待をよせている。果たしてこの周囲の期待にこたえ、彼が第三の人生を飾れるだろうか。今シーズンの江崎は、けだし注目されてよさそうだ。

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八木孝

2023-12-07 08:28:27 | 日記
1963年
現在、ウエスタン・リーグでは、もちろん主力投手の中に加えられている。しかし先発することはあまりなく、救援が多い。これは「いろいろな場面に慣らし、実戦的なピッチングを身につけさせたい。そのほうが後半戦で一軍へ上がっても役に立つ」(備前コーチの話)という方針からきている。八木はあくまでも研修あけに一軍へ登用させることを前提に使われているといってよい。球速は六大学時代ほどないが、コントロールはいい、カーブ、スライダーでカウントを取って、ずばりストレートで勝負することもあるが、もう一つ球の切れに自信がないのか、かわすピッチングがほとんどだ。八木のシュートは、ウイニング・ショットのはずだが、あまり見られない。右打者の外角をシュートで攻められるようになると、さらにピッチングは安定する。「完全なコントロールをつけることが先決ですが、球の切れももう少しといったところです。それにカーブやスライダーの切れも鋭くする必要があります」本人はこう反省しているが、備前コーチは八木の生きる道は技巧派だとはっきり指摘する。「左だから思い切ったピッチングをするのもいいが、そうかといってストレートで真っ向から押していくタイプではない。右打者の内角攻めをつく球に威力があればいいが、いまは棒球も多い。ちょっと高めへはいったらたたかれる。だから、カーブやシュートを使って打ちとるピッチングがいいと思っている。ナックルもなかなかいいものをもっているし、走者を出したら、もっと投げるようにいっている」大羽と同じタイプのチェンジ・オブ・ペースを身上とする投手に育てあげようとしているのだ。これで八木がよく火消し役にかり出される理由はさらにはっきりしてくる。大学の先輩漆畑は「ピッチングはうまくなっているが、大学のときの力がもっとスピードがあった。速い球だけではとても通用しないが、このまま伸びればかなりやるでしょう」といい、後輩の成長を待ちわびている。伸び上がるようにワインドアップし、自分のからだの反動を利用するピッチングをしているが、小野(大毎)のように投球に角度をつければ、左腕の利点がより生かされよう。大羽ひとりといってよい広島にとって八木は大羽に続く貴重な左腕だ。

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大坂雅彦

2023-12-06 21:56:18 | 日記
1962年
「大坂雅彦、二十歳、右投右打、179㌢、73㌔、徳島商高出身」62年度の編成表には内野手として登録されている。その大坂が投手に転向した。はたして野手から転向してすぐの男を成長株と断定できるか。ほかにレッキとした投手で、しかも好素質を持った人がいる。それをあえてとり出したのは徳久とならぶ投手になる可能性を地型にみる人が多いからだ。事実、投げるたびに球威をつけている。ある人はかつての藤本英雄にフォームが似ているというし、ある人は「こりゃあ、りっぱに投手にできとる」とヒザを打つ。いま大坂はフリー・バッティング、レギュラー・バッティング合わせて二百球から二百五十球近く投げている。とにもかくにも数多く投げることが当面の課題だ。投手に転向の動機は昨秋、藤井寺での練習で、別当監督に認められたことにはじまる。大坂といえば、徳商が渦潮打線の異名をひっさげて甲子園に出場したときの五番打者。当時は三番広野(阪急)四番板東(中日)五番大坂、六番大野(元近鉄)とズラリ大型をならべた打線。板東が卒業したあと三年生の一年間を大坂がマウンドを踏んだ。投手経験といえばこの一年だけ。あとは鉄砲肩の内野手として過ごした。それを別当監督が見つけたのだ。「いまウチは投手陣だけに問題を残している。使える絶対量が少ないのだからなんとか応急策を…と考えて大坂を転向させた。彼は打者としてもう伸びられない限界にきている。このままではつねに控えだ。ところがピッチャーにしてみれば実におもしろい。いけそうだよ。オープン戦でドシドシ使って経験を積ませればかなりいけるよ」というが、百㍍12秒の俊足だけに下半身のバネは強い。加えてリストの強さは驚くばかり。根本コーチも「野口さんが見ているので大坂は期待できる。強肩で球が速いだけでは投手になれんという考え方をぶち破るテスト・ケースになるんじゃないか。爆発的な力を出すタイミングもよいしセンスもある。投手になりきるためには軸足の左へウエートをどう乗せるかだが、これをマスターすれば百㍍の力を発揮するだろう。問題はフォームよりプレート上でどうするかだ。投手としての感じはつかんだようだね」と期待を寄せている。投手になりきったとはどういうことか。野口コーチはいう。「まだ力だけに頼っているんです。去年、新田さんに教わったんですが、僕の手首の使い方、義原さんに似てると思いませんか。先に手首をそりかえらせないで、球が離れる瞬間に手首をたたきつけるように投げると力がはいるんです。あとは力の配分ですね。セット・ポジションをとって投げると腰が割れるんです。それで力のロスができるから肩に力を入れる。自然に腕がちぢかむということですね」納得のいくまで考えつめる性質である。昼間は野口コーチの助言をフルにとり入れ、夜も野口コーチや、深夜にわたれば根本コーチに問いただす熱心さ。「シャドーでやると腰の回転に注意するのでフォームもできるんですが、ボールを持つと球の方向に気をとられて腰が割れる。数多く投げるほかないですね」と考え考え投げている。高校時代は上から投げればシュートが切れる。そのかわりコントロールがない。横から投げると内角へ落ちるシュートがあったそうだ。だから同じ投げ方で両方投げられるのは目標。将来は外角への速球が決め球になるが「よく関根さんにいわれるんです。こんどはもう一つ下から伸びる球をくふうせよ。それができればもう一つ下から…むずかしいですね」課題は山ほどある。グラウンドではおとなしいし、宿舎ではちょっとでも物音がすると眠れないという神経質なところから気が弱いといわれるが「それとプレートに立ったときは別」とハッキリいい切る。スタミナはどうかー高校時代、板東のあとを継いだだけに何から何まで板東と比較されてくさされた。それに発奮して一日四百球ずつ投げたというからまず心配はない。「だけど内野手と肩のつくりがちがうし、関根さんにも投手はヒマとの戦いだともいわれました。単調だが、機械のように投げなければなりません。一から出発ですよ」-一人の人間がいまけわしいが、新生の道を切り開こうとしている。

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橋野昭南

2023-12-06 21:13:43 | 日記
1962年
橋野がこれまでとがらりと変わったピッチングでこんごを楽しませた。橋野は昨年若松高から入団した左腕の本格派だが、ピッチングの単調さが災いしていま一つはっきりしなかった。今春のキャンプでも武末コーチから「球の配合に頭を使ってみろ。ただ投げるだけがピッチングではない」とかなりきつくしぼられていた。その努力が実を結んできたのだろう。従来の一本調子のピッチングがカゲをひそめて、速球、カーブ、シュートをコーナーに散らし、格段の進境ぶり。試合後「ボクは和田さんのサインどおりに投げただけです。幸い低めに球が走ったので…」とてれくさいのかあまり多くを語らなかったが、和田は「確かによくなったよ。こちらがサインを出してもそのとおりになってくれねばなにもならないからね。きょうはスピードがもう一つだったが、ピッチングの間、配球に楽しませるものがあった」と橋野のピッチングを語っていた。そこで武末コーチにズバリ見通しを聞いてみると「きょうは四回までよく球を散らしていた。あんなピッチングをやらねばどんなにはやい球をもっていてもプロでは通用しない。これからの課題は五回無死から徳武、土屋に連打されたケースだ。徳武の内野安打は自らのフィールディングのまずさが原因している。また走者を出すとそれまでコースをついていた球が単調になりはじめた。若いからではすまされない問題だ」そうだ。とにかく橋野がローテーションの一角に食い込むかどうかはそういった経験不足からくるミスをいかに克服するかにあるようだ。

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岩上江笠

2023-12-06 20:52:21 | 日記
1963年
近鉄は阪急戦となれば気負いたつ。さしずめ「目の上のたんこぶをたたいて上昇しよう」というところだろう。そのために、阪急ベンチでも投手の起用を考え、できるだけ近鉄を調子に乗せまいと懸命だったが、そんな阪急ベンチの思惑もあらばこそ、14安打、7長打を集めてあざやかに逆転勝ち。こんなときは、みんながヒーローだ。なかでも初回、二死から板東をリリーフした岩上のピッチングが七回まで阪急をぴったり封じたのだから「弱体投手陣」といわれる近鉄に光明をともしたことは明らかだ。八回3安打をあびて二点を奪われ、山本重にバトン・タッチした岩上は、すぐマッサージを受けていたが、それでも小さくなっていた。「ブルペンでは球が走らずどうなることかと思っていましたが、低めをねらって投げたのがよかった。落ちるシュートですよ。こんなに、もつとはねえ…」とさすがにプロ入り初勝利でうれしさをかくしきれない。

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古井紘司

2023-12-06 20:44:57 | 日記
1964年
昨年十月テストを受けてノンプロの北陸銀行から入団したが、現在もっぱらバッティング・ピッチャーをつとめている。「同じやるならプロで…」というのがプロ入りの動機だが「やはり一軍でなければダメだ」と最近わかったそうだ。ノンプロ時代はストレートに自信をもっていたが「ぼくらのスピードでは通用しない」ことを知り、別所コーチからもいわれ、目下変化球の勉強中。とくにフォークボールを研究しており、これからは頭を使った投法をマスターして、少しでも一軍入りをはかりたいーといっている。

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安東功

2023-12-06 20:25:14 | 日記
1963年
「あれでのみ込みも早いほうだ。根性もあるしいいね」安東の株はキャンプの終わりごろから上がり出した。1㍍81、79㌔の巨体は目立った存在。外見がぼうようとしているので、ちょっと損をしている。が、教えられたことを素直に消化し、オープン戦で投げても直された点は忠実に守っている。順調にいけば、研修期間解除と同時にローテーションに組み入れられるだろう。「基礎からたたき込まれましたが、フォームもだいぶ固まってきました」そうだ。とはいうものの、未完成の域を脱していない。上体が突っ張ったような感じで、ぎこちない。それでもしだいによくなっているのは確か。球質は重く彼の球を打った選手は「いい球をもっている」とほめている。シュートもすばらしいが、これといったカーブがないことは八木同様。オープン戦が終わると現役時代変化球で鳴らした備前コーチに預けられる。安東は「いいところはどしどしとり入れ、早く一人前になりたいものです。とくに制球力と配球に気をつけてやりたい」と張り切っている。

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井上勝巳

2023-12-06 20:16:41 | 日記
1963年
近鉄は伊藤、井上、佐々木ら五人の投手をくりだしたが、二人目の井上が一番よかった。すでに公式戦にも登板しているが、別当監督は左腕不足解消に目をつけていだけのことはある。速球、ドロップの二種類を使いわけていたが、広島は球速に押されさかんに一塁側にファウルしていた。ただ土井に内角低め球を左翼席に先制されたが、打った土井をほめるべきだ。

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石井輝比古

2023-12-06 20:11:46 | 日記
1970年
石井が今季松木監督からどれほど期待されているか、大事なオープン戦で先発として使われたことでおわかりいただけよう。4回14人の大洋打線に対して許した安打はわずか2本、それも三回までは9人に片づける完ペキな出来だった。福岡第一高から入団して今年で三年目。182㌢の長身から投げおろす快速球はチーム随一。土橋コーチの秘蔵っ子でもある。欠点はコントロールのないこととカーブが思うように曲がらず、持ち前の快速球を十分に生かしきっていないことだ。しかし「この日の先発を生かしてまず公式戦の1勝にベストを尽くします」とキッパリ。根が真面目だけにまず5勝は堅いと土橋コーチは考えている。

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