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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

堀本律雄

2017-02-11 11:34:13 | 日記
1961年

ゲームの前に堀本のところへ差し入れがあった。大阪にいる上の姉の山本誠子さん(38)からだ。いま流行のアンブル入り栄養剤。堀本はストローでそれをのむと足でダッグアウトの床をたたいた。「ああ、きいてきた」テレビのコマーシャルでよくきくせりふだ。ふつう先発前の投手はソワソワしているものだが、堀本はまるで違う。伊藤が報道陣の望遠鏡で熱心にスタンドをながめているとすかさずひやかした。「オッチャン(伊藤のニックネーム)いやに落ちつかないな。彼女がきてるんと違うか。それともオッチャンの彼女がアベックできてるんかいな。それやったらまずいな」マウンド上の堀本もずうずうしかった。むずかしいコースがボール判定されるとチラッと歯をみせる。球の切れもマウンドの態度も去年の堀本とまったくかわりがなかった。「マウンドで笑っていたかいな。そら気がつかなんだ。しかしきょうは気分がよかったな。球も思うところにいってくれはったし、カーブがよく切れた。この間の広島戦ではじめてシャットアウトしたけど、あのときよりカーブがよかった。カーブがようなればまあまあ安心やね。完投もしたかったけど、そら仕方ない。まだ余力は残ってたけどね」いままでの堀本はいつでも「まだあかん、これからや」といっていたが、ことしはじめてまあまあという言葉を使った。しかしそれ以上に力強いことはいわない。それでも「まだわからない」とか「こんどはKOされるかもしれん」といったあと「リバイバル・ブームに片足のりかけたといったところやな」とちょっぴりカムバックをほのめかした。評論家の天知俊一氏は「シュートがよくなってきたし、カーブも悪くない。あとはカーブのコントロールにもう一つの確実味をつけることだ」といっている。球場を出た堀本がバスへのりかけた。この夜は警戒厳重でファンは遠くから人がきをつくっていたが、堀本の顔をみるとたいへんなヤジがとんだ「堀本や。にくたらしいやっちゃ。アホゥ、こんどはおぼえとれよ」という男の声。最前列にいた女性ファンのはもっとすごかった。「なんや、けったいな顔して。好かんわ」阪神をがっちり1安打におさえ込んだからいいヤジがとぶわけがない。打線の爆発と堀本の復調。阪神には3タテといいことずくめ。巨人ナインのバスはそんなファンをしりめに威勢よくスタートした。
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山本久夫

2017-02-11 11:14:25 | 日記
1961年

東映のスコアラー宮沢氏のメモをみると山本(久)の項にはこんなことが書いてある。「対南海戦では下手投げの投手に注意すること。高目、胸もとに浮き上がる球に弱い。強いコースは低目」七回同点の左中間エンタイトル二塁打も宮沢氏のスコアブックには真ん中寄り低目のシュートとメモしてあった。報道陣にとりかこまれた山本(久)は「シュートです。真ん中の低目かな?」と宮沢スコアラーと相談でもしたような答えをした。12球、2-3後の球を打つまで三塁コーチス・ボックスの水原監督の姿を目で追いつづけていた山本(久)。「監督さんからてっきりバントのサインが出ると思っていたんですよ。それがなんにも出ないんでしょう。ちょっと気になってね」バントのうまいことでは東映一という定評があるだけに、すぐピンときたそうだ。「ずいぶんねばったじゃない?」という質問に「ニガ手の胸もとにくる球ばかりで意識してファウルするような余裕はありませんよ。無我夢中でしたよ」といった。自分でも12球もねばったことが不思議そうな表情。だがこれは山本(久)の報道陣用の返事らしい。六日の対南海戦の試合前、山本(久)はナインとこんなことを話していた。「ぼくは南海より西鉄の方が試合をしていてこわい感じがするな。南海相手の試合には重圧を感じないもの」山本(久)の腹の中にある根性の強さをチラリとみせた言葉だ。カメラマンの注文でもう一人のヒーロー武井と並んだ山本(久)のユニホームは真っ黒。泥と汗がこびりついている。「おととい(6日)からずっと午前十時開始の二軍練習に参加していたんですよ。打てないうえにエラーをしては監督さんやナインに申しわけないですからね」ナイターつづきのこのごろ就寝は午前零時になるというのに二軍選手と午前十時にはグラウンドに出て練習する努力の人でもある。「これくらいあたりまえですよ。エラーをしてがっかりするより、どれだけいいかわからない」というあたりリーグ№1の失策数がだいぶ頭にきているようだ。ベンチの上からのび上がったファンの「久さん、よかったね」という声に二、三歩帰りかけた山本(久)は「たまにはこんなこともあっていいでしょう」といってニッコリ笑った。
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権藤博

2017-02-11 10:51:25 | 日記
1961年

試合前権藤は報道陣となごやかに話し合っていた。「去年のいまごろはテレビで一生けんめい巨人を応援していたもんですよ。広岡さんの大ファンでね」新人にありがちな無口なところもなくよくしゃべる。石本コーチは「権藤は二日しか休んでいないのでムリは承知だが、きょうはぜひ勝ちたいので投げさせる」といっていた。最後の打者広岡を一ゴロにとりベンチにかえる権藤をナインはもちろん、報道陣やカメラマンがとりまいた。巨人から3勝目、それも連続2試合完封勝ちという新人ばなれした権藤は報道陣の応対になれたもの。ヒタイにうっすらと光る汗を指先でこすりながら「前半はウエートがのらずあまりよくなかった。四回高林、坂崎に打たれたのは真ん中高目に浮いた球でした。だから一、三塁になってから慎重に投げれば点はとられないという自信がありました。長島さんを投ゴロにとった球はまっすぐです。きっと意表をついたからでしょう」とよどみなく答える。「後半はスピードがのって球にのびが出てきた。点をとってくれたから楽でしたね。もう大丈夫だと思ったのは七回ごろ。巨人ですか?さあ、わかりません。とにかく一発屋が多いですね。やはり巨人には力がはいりますよ。最近のピッチングはほとんどストレートです。フォークボールはあまり投げていません」だれかが「いまの調子ならフォークボールも必要ないね」というとニヤッと笑って「そうでもないですよ。どうも・・・」といいながらロッカーへ引きあげていった。
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西尾慈高

2017-02-11 09:46:46 | 日記
1961年

西尾はソデの先がほころびかけているアンダーシャツを宝物でも扱うようにして着こんだ。腕のところがチーム・カラーのエビ茶のなっているほかはなんのかわりもないシャツだが、西尾にとっては大事なものだ。「たくさんアンダーシャツはあるけど、これを着ると不思議に勝つんです。もうきょうまでに4勝しているのかな。魔法のシャツですよ」許した安打はたった3本。しかも6勝無敗という勝ち星だ。ゲームが終ると権藤が西尾の背中につかまってピョンピョンはねあがった。西尾はこの権藤のへんな祝いを受けると捕手の吉沢のところへいってあいさつ。「あぶないところをありがとうございました」きょうの勝ち星はすべて吉沢の好リードのおかげというわけだ。「カーブのコースがあまかったし、あまりよくなかった。うまくリードしてくれたり、バックがよく守ってくれたからシャットアウトできたようなもんですよ。でもことしはコントロールがよくなったことが勝てる原因だと思いますね」ベンチの中はナインがすっかり引きあげてヒッソリしている。話がまだすなまいうちに西尾はソワソワしだした。「もういいでしょうか。みんな待っているから失礼します。なにしろまだ新人なもんですから」新人どころかプロ入り八年目というベテランだが、ほがらかな気ップのせいか、ナインの評判も非常にいい。登板しない日はベンチから秀逸なヤジをとばすことでも有名だ。アンダーシャツのジンクスをかつぐ西尾だが先日あるファンからもらったお守りをつけたらその日のうちにケガをしたそうだ。

西尾は島田(源)との対戦では1点を争うゲームになると考えたのだろう。はじめから全力でとび出した。ドロップの制球力は申し分なかったし、外角ストライク・ゾーンを切るシュートもみごとだった。打者が手を出せば内野ゴロになるか、ファウルになってカウントを不利にする。打者をイン・ザ・ホールに追い込んでしまえば西尾は低目、ヒザから落ちるフォークボールで凡ゴロにしとめるし、自信に満ちた投球ぶりであった。五回黒木に四球を与えてパーフェクトをのがし、七回代打橋本に初安打されてノーヒット・ゲームの夢も破られはしたが、西尾の投球内容はすばらしかった。七回一本打たれてからはやや気落ちした感じで投球はぶつかったけれども、シャットアウトだけはがっちりつかんだ。打者の打つ気をさそって変化球で凡打させるそのタイミングのよさは西尾ならではの感があった。投球数98。これではへばりも出まい。
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土屋正孝

2017-02-11 08:52:28 | 日記
1961年

国鉄に土屋(松本深志高)町田(長野北高)中村(松商学園)と3人の長野出身者がいる。だから国鉄が大変な人気。スタンドにノボリが10本立っていた。「がんばれ土屋」「冴えろ!円月打法」「歓迎土屋」といった土屋のためのノボリが6本と圧倒的だ。ベンチの上からからだをのり出し、黄色い声をはり上げて「土屋さん、土屋さん」とサインをせがむ子供が落っこちそうだ。サラサラとサインしながら土屋はニヤニヤ。「ああ、気分いい」巨人時代の水原監督が「何を考えているのかさっぱりわからん。まるで石の地蔵さんみたいな男だ」といつもいっていた土屋がこんなことをいうのだから、よほどうれしかったのだろう。感激した土屋は大当りした。5打席4安打の5打点。得点の半分をたたき出している。しかも五回には中堅越えにワン・バウンドでたたき込む勝越しの二塁打が含まれている。「おくにでやると緊張しちゃってね。からだがかたくなちゃうんだ」きょうはいいところで一発打ちたい、と試合前に思っていたそうだ。「応援してくれる地元のファンに、声援できる場面をつくってやらなければね。だからこれだけの芝居はぼくにはできすぎですよ。シーズンはじめによくて、だんだんボロが出てきたと思っていたが、まだぼくにもこれだけ打てる力が残っていることがわかったよ」冗談もまじえて声をはずませ土屋の話はつづく。「勝ち越しの二塁打は2-1後の、たしかシュートだったと思う。とにかくあまり打ったんでおぼえられないですよ」どうしてどうして、打った球もカウントもたしかなものだ。サインをねだる知人や子供をかきわけながらバットをベンチにとりにはいった。そしてまた「気持ちいい」とごきげんだった。バスに向かう土屋は「2年前にもここで一発やったですよ。あのときの相手は国鉄・・・。いやいまのウチですよ」といってから「若い投手だったとおぼえているが・・・」笑いでごまかして、だれだったかはいわなかった。
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吉田勝豊

2017-02-11 08:29:41 | 日記
1961年

「しゃくでね、一年生(徳久のこと)に4度もやられたんじゃあはずかしいですよ」ベンチに帰ってきた吉田は、ニコリともしないでいった。九回吉田が打席にはいっているとき土橋はベンチ裏でタバコをくわえながらあっちへいったり、こっちへいったり、ときおり立ちどまっては口の中でブツブツ。しかし吉田の打球がぐんぐんのびてバック・スクリーンにはいると「ヘイホー」と真っ先にとび出していった。東映のナインはホームを踏んだ吉田を、ヘルメットの上からゴツンゴツンとたたき、五連敗からすくったこのとめ男を祝福した。その輪から抜け出しても吉田の顔はなかなかくずれなかった。「本塁打したのは真ん中のストレート。カウントが1-3だったでしょう、とにかくつぎの球をねらった」と手ごたえを思い出したあたりから、ちらっと白い歯をみせた。「もっとも右翼線をと思っていたのが中越になるとは・・・」とサヨナラ・ホーマーはうれしい計算違いだったそうだ。マージャンでもここ一発の勝負に出るなど、その勝負根性は東映きっての持ち主。ロッカーに向かう途中、徳久のようなタイプは、という質問に「好きだとかきらいだとかいっていられませんよ、こんなときは」と大きな目をギョロリ。だがすぐ顔をゆるめて徳久評をやりだした。「いい投手ですよ。外角のスライダーがいいし、それにシュートをまぜるからいっそう効果的だ」と気持ちが落ちついてきたのかいやなヤツを敵ながらあっぱれだとほめていた。
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村田元一

2017-02-11 08:19:58 | 日記
1961年

マウンドをおりた村田はまるでプールからあがったようだ。報道陣が「たいへんだったね、この暑さで・・・」と声をかけると村田はケロリとしていった。「いい気分ですよ。顔の汗ですか?暑さは気になりません。だいたい暑い方がいいんですよ。夏バテもしませんし、夏やせもしません。だからぼくとしてはかせぎどきはシーズンはじめよりむしろ暑くなってからです」とひととは正反対なことをいった。そしてしわくちゃのタオルをポケットからとり出して汗をふいた。「はじめからリリーフを予定されていたんです。四回ごろから出るつもりでいろと監督さんからいわれていたので、二回からピッチングをやっていました。田所さんの調子がよかったのでウオームアップは十分できました。それがよかったようです。シュートがきまりましたね。それに平岩さんのサインがすべて強気だったのも成功の理由だと思います。今夜の勝ち星は平岩さんと半分半分ですよ」しきりに先輩の田所と平岩に感謝していた。村田は二十二日にもリリーフで阪神に勝っている。これで八月五日以来阪神から3勝を記録した。藤村富美男氏は「村田の外角球は実によくのびていた。それにコントロールがあった。外角球もよかったが、それよりもシュートの切れがすばらしかった。村田のシュートは打者の手もとで急に大きく変化するのでいくらねらっていてもかんたんには打てない。阪神は結局その球にひっかかっていた。その村田のよさを十分に発揮させた平岩の好リードも見のがせない」といっていた。
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長谷川良平

2017-02-11 08:10:21 | 日記
1961年

七回中途でベンチへ引きあげた長谷川は落ち着かない。それもそのはず、ことしは5連敗で勝ち星なし、昨年九月三日に勝って以来勝利の味はすっかり忘れているからだ。「ぼくが出たときいつもバックが打ってくれない。きょうは調子がよくなかった。カーブはまがらんし、仕方がないのでストレートばかり散らした」そしてベンチの入り口からのびあがってゲームをみていた。最近は「もう長谷川はダメだ。来シーズンはコーチか」という限界説もとび出すほど。しかし長谷川は「いやだよコーチなんて、おもしろくもない。やはりボールをにぎらなくてはね・・・。たとえ長谷川はもうダメだと新聞でたたかれても投げるんだ」と反発する。八回表大洋が同点にすると「ウワッ、またダメか」と頭をかかえこんだ。ところがその裏すぐ広島が1点をとると、長谷川はスパイクをガチャガチャいわせながら「勝利投手だ」とドドンバをおどる。試合が終わると大石にだきついて「サンキュー」まるで新人投手がはじめて勝利投手になったときのようだ。「七回ひっこんだときあきらめていたんだ。ぼくがかつてよくリリーフしたときは、いつも前の投手に「お前は悪くてかわったんだから負けてもともとだと思え。オレは全力をあげて投げるんだから、負けてもくよくよするな」といったものだ。だから・・・。ああ、しんど寿命が十年くらいちぢんだようだ。投げて打たれていた方がよかったかもしれない」と最後に冗談がとび出した。
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山本八郎

2017-02-11 07:41:42 | 日記
1961年

試合前の山本(八)はふきげんだった。「チクショウ、肩が痛くなければきのうだってもっと打てたはずなのに、ワキの下の筋肉がつってフォロー・スルーが全然きかないんだ」そのためか、この夜は守っては二回のダブル・エラー、五回には野選と失敗つづき。「なんとかあの失策をとりかえそうと思っていたが、あんなに豪快な逆転ホーマーが出るとは思わなかった。上段だったかな。ボールの2㍍ほど内側をとんでいったな」八回から守備を緋本にゆずってベンチ裏に出てきた山本(八)の顔はまだ青い。それでも息ひとつはずませず、ペラペラとしゃべりつづける。「ホームランしたのは内角高目。カーブのような、ナックルににたシュートのような球だった」球質を聞かれるとわけのわからない説明をした。「まっさおな顔してたぞ」「ホームにはいったときはヨロヨロしてたじゃないか」とりかこんだ報道陣がひやかすと「そうでしたか。夢中で気がつかないんですよ。大阪球場でのホームランははじめてですからね」とテレくさそうにニヤニヤ。ファン差し入れのコーラを一気に飲んで「ウチの連中は気のいいのがそろっているからな。きのうの連敗のショックできょうもバッサリやられるのではないかと思っていた」バッサリなどというあたりが大好きな時代劇映画の影響か。そして「きのうウチが負けた理由知ってますか?球場にくるバスが故障して出発が遅れてしまったんですよ。ジンクスっていうのかな。出足でつまづくとウチは悪いんです。その点きょうは調子よくバスが動きましたからね。ホームランが出たのも運ちゃんの腕がよかったためかもしれません」からになったコーラのビンをひねくりまわしながら、そんな冗談をどばした。
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島田雄二

2017-02-11 07:31:35 | 日記
1961年

同点のまま迎えた九回一死一、三塁。水原監督が三塁コーチス・ボックスからチラリと東映のダッグアウトをみた。一番前の長イスに腰かけていた島田が電気に打たれたようにビクッと立ち上がって通路でスイングをはじめた。張本は敬遠。島田は第一球を左翼席へ代打満塁ホーマー。とびあがる水原監督。まるで劇映画のひとコマだ。ホームへかえる島田のシリを張本がバットで思いっきりひっぱたいた。背をまるくして引きあげてきた島田は無理やりに長イスの中央にすわらされた。そばから金山、山本(義)がうちわで盛んにあおぐ。橋詰が水をくんできてさし出した。試合が終わってからの島田はテレるだけ。「真っすぐだった」とだけいって手ぬぐいで顔を何度も何度もふいた。「ハア、外角高目の真っすぐです。皆川からはカーブをよく打っているから、シュートで勝負してくるかと思っていたんですよ。それに外野フライでいいんですからね、気は楽だった」ことしで五年目というのに直立不動の姿勢。新人のようだ。「ふだんはおとなしいが、人間にシンがありますね。近ごろの若い選手にはめずらしい。それになにひとつするにもなかなか慎重なところがあります」と神谷マネジャーがその人柄を説明した。これでことしの本塁打は2本目。シーズン初めに阪急戦(西宮)で打っているが、それも同じ九回で左翼へだった。「ことしの代打率は2割4分ぐらいで満足していません。でもきょうの1本でなんとかカバーできたと思っています。山本(八)が当たっていなかったので、きっとぼくに出番がくると思って準備していました」だれも話しかけなければ一日中ひとこともしゃべらないという島田がこれだけしゃべったのは珍しい。
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バッキー

2017-02-11 07:17:45 | 日記
1963年

二日、中日七回戦に勝つまでは弱々しくこういっていた。「一つでもいいから勝ち星をあげたい」いまは違う。「ワン・モア(もう一つ)」と声にも力がこもっている。弱気な投手から強気な投手に生まれ変わらせたその初勝利の感激をこういった。「あんなにうれしかったことはない。生まれたばかりの子供を初めて抱きあげたときのような気持ちだった。そんなとき、どんなパパでも思うようにようし、もっともっとやるぞというファイトがもりもりわいてきた」こんないい方をする子ばんのうだ。住居は西宮市浜甲子園の小さなアパート。ここにいるときは、いっときも長女のリタちゃん(四か月)をそばからはなさない。四日、バッキーはアパートでやはりリタちゃんを抱いていた。「五月二十六日の大洋戦では惜しいところで完全試合をのがしてしまったけど、それより残念だったのは勝ち投手になれなかったことだ。でもあの試合で自信のようなものができた」すぐ野球の話だ。リタちゃんが大きな目をクリクリさせて、一気にしゃべりまくるパパを不思議そうに見あげると、ふっくらとしたリタちゃんのホオを指でちょんと突っついてやさしく笑った。「いま調子がいいのも、リタという気分転換があるからだ。どんなにムシャクシャしているときでも、リタの顔を見ると・・・」うっとうしい雨がアパートの小窓を打ちつづける。「またきょうも試合は中止だ。雨で試合が流れると、調子の持っていき方がむずかしいね」せっかくのぼり始めた調子を、雨で狂わせたくないのだろう。うらめしそうに窓の外へ目をやった。アメリカでも一シーズンの最高の勝ち星は1958年C級のダラスにいたときの11勝。だから今シーズンの目標も11勝を越えることにおいている。「でもいまは何勝するなんでいうのはちょっとはずかしい。まずワン・モアしたら、またワン・モアを心がける。さしあたってつぎの勝ち星は、トップ・チームの巨人からあげたいね。王、長島はすばらしいバッターだ。巨人に勝つためには王、長島をマークしなければダメだ。しかしあの人たちはウイークポイントがない」だがバッキーはひそかにON砲攻略に自信を持っている。国鉄の金田が五月二十九日、超スローボールで王、長島を牛耳ったことを知っているからだ。バッキーはスローカーブが武器だ。「スローカーブと速球、それにチェンジアップをまぜてタイミングをはずしてうちとるんだ」王、長島がボックスにはいったときのピッチングはもうきまっている。「バッキーが調子をあげてきたのは大きい。記録にあらわれた勝ち星は一つだが、実際は3勝ぐらいの価値がある。五月五日の対中日戦、大洋を九回一死まで完全に押えたピッチングだ。今シーズン調子がいいのはスピードが増したからだ。大きく落ちるカーブも速球があるから効果的になるのだ。小山につぐ投手が出てきたことはこれからの三連戦で非常に有利になる」藤本監督をすっかり喜ばせたバッキーは、午後三時雨の中を甲子園雨天練習場を出かけた。
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権藤博

2017-02-11 06:50:48 | 日記
1961年

2-0の八回裏、巨人を三社凡退にしりぞけた権藤は、ベンチにもどりながらそばにいたバット・ボーイに「ヒットが打てんね」と話しかけながら打席へ。アウトになってもどってくると「森(巨人)はうそをつきよった。ストレートといったのにカーブを投げよって」とベンチにとび込む。ルーキーながらもうプロには何年もいるといった顔つきだ。プロ入り初勝利を飾ってベンチに帰る途中で報道陣にわっと囲まれ立ち往生。「九回は残念だった。高林に打たれたのは高目にはいったストレート。疲れたわけではありません。まあストレート、ドロップがよくきまったからでしょう。調子はふつうでした。2点とった六回ごろから調子が出てきた」その権藤に濃人監督が「カゼをひかないように火バチのそばにおれ」と気をつかいながら「権藤はふつうの出来ですよ」とすました顔。権藤がしきりにシャットアウトできなかったことを残念がると「シャットアウトは個人記録だぞ。勝てばいい。もう早よう帰ってやすめ」と井上が声をかけた。「いや残って勉強します」といったんロッカーに帰ってマッサージを受けたが「くやしい。落ち着いてみると勝った気がしない」と頭をかきむしりながらまた零封できなかったのを残念がった。実に強気な選手だ。「長島さんに一回に打たれたのは高目。あとは内角のシュート攻めにした。つづけて打たれなかったが、まだ球が高目に浮く。きょうのピッチングは70点。やはりアガりましたよ。途中で監督さんが落ち着くぞとガムをくれました。けさ先発をいわれたのでご飯を二ハイしかたべれなかった」と笑った。三十二年佐賀県鳥栖高卒業後ノンプロRSタイヤに入社。春のオープン戦では4勝無敗。25イニング無失点の好投をみせている。1㍍77、70㌔、右投右打、23歳。背番号20。
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与那嶺要

2017-02-11 06:37:29 | 日記
1961年

「みんな友だちでしょう。テレくさかったね」これが与那嶺がベースを一周したときの感想だ。友だちというのは去年までいた巨人のこと。追いだされた古巣をたたきのめしたうれしさはないようだ。報道陣の方が意地が悪い。「胸がすっとしたろう」とか「気分はどう」という質問ばかり。与那嶺はそのたびに「そんなことはないよ。みんな友だちよ」ばかりをくり返す。オープン戦のころ「巨人戦のときは必ずやる」と鉄アレイをふりまわしては打倒巨人をねらっていたが、本番ともなると、そうえげつないこともいえないらしい」「中村(稔)?そう、ぼくがジャイアンツにいたときは多摩川で顔を合わせただけね。だからあまりよく知らない。バッティング・ピッチャー?うん、でもそういっちゃ中村に悪いよ。そのころだっていいボール投げていたよ」報道陣の質問の間にも外人の友だちやカメラマンに呼びかけられ、日本語と英語のチャンポンのやりとり。新チームの印象は「ベリー・ナイス」だそうだ。「四年ぐらい前から中日でやってみたいと思っていた」とまでいってのけた。一番仲のいいチーム・メートは石川。キャンプやオープン戦でよく二人で映画をみに行ったりしている。「石川、よく投げていたね。だからなんとか打ってやろうと思っていたの。その前の打席でも大きいの打ったでしょう。あれとられたけど、最初はいったかと思ったよ。別にヤマは張っていなかったね」ヤマは張っていないと力説したが、打たれた中村(稔)はそれを打ち消した。「そんなことありませんよ。ウォーリーは完全にヤマを張っていた。内角寄りの直球だったけど、自分では内角へ投げられるともう腰がまわらないというのを知っていたんでしょう。それでねらっていた」石川マネジャーの話では食生活に大へん気を配っているそうだが、遠征してどんなせんべいぶとんに寝かされても文句はいわないという。一番あとからバスへ乗り込んだ与那嶺にナインが全員で大声をあげたが、その歌声にまじって与那嶺の背中に黄色い声がとんだ。三塁側スタンドで応援していた光子夫人だ。「一緒に行こう。早く乗りなさい」与那嶺にせかされて光子夫人も選手のバスへ乗り込んだ。寄りそうようにすわった与那嶺夫妻にアテられたように中日のバスは威勢よく走りだした。
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竹村一義

2017-02-09 22:41:15 | 日記
1974年

この日の朝、新品のスパイクをはいて初陣のコーチスボックスに立ったヤング阪急の上田監督。「勝敗はどうでもいい」と試合前語っていたが、一方的な大差で大勝するとさすがにうれしそう。「自分の思い通りの野球だった」とその喜びを隠そうとしない。春眠をむさぼるトラを一撃に倒して勇者は覇権奪還へ気迫のスタートだ。阪急は前日の高知キャンプまで若々しさ、ガッツ野球を目ざした。そしてこの初戦に「とにかく元気のある野球」を上田監督は目標にした。選手たちの動きも活発、ベンチの声合戦でも沈黙の阪神とは対照的に大声の連発。あの無口な長池も大声を出して守り、高井も初ホーマーを打ってホームインすると高々と帽子を上げるハッスルぶり。「試合内容はもちろんやが、元気でもうちが勝っとったぜ」-上さんは明るく大声で話す。「試合は当然相手が仕上がっていないのだから勝つと信じていたが、一回の正垣、大橋、中沢の連打による先取点の点の取り方といい、いうところなしや」と話し「やはりきょうは相手の不振とはいえ竹村、新井がよう投げた」と目を細める。その竹村、昨年大洋から阪急入り、たちまち8勝をあげ「ことしは一番期待する」と監督も目をかけている。球場から約1㌔、安芸郡安田町の出身。つい六年前、安芸高時代、甲子園を目ざして猛練習した。そのグラウンドで力一ぱい投げた。3回投げて被安打1、自責点0の文句なし、田淵には直球、シュート、外角カーブで3球三振「大洋時代ベンチから阪神打線を見ていたが、投げるのは初めて。それにしても阪急の紅白ゲームよりこわくない」と不敵に笑う。上田監督も「竹村はスピード、配球とも文句なしや」と単調な仕上がりに首をうなずかせる。がっちりとレギュラー入りの切符を手にした竹村。それにしても上田監督は福本が出るとすかさず二盗、投手には真っ向から勝負させるなど積極的な男らしいさい配ぶり。「ガッツが売り物。ことしは一本勝負で真っ向から突進するぜー」鼻息荒い青年監督だ。
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山田正雄

2017-02-09 22:00:55 | 日記
「今年はボクの再出発の年です」-今シーズン東京オリオンズの期待の星である山田はきっぱりと決意を示す一方自分自身にもいいきかせている。昨年の暮れ(12月2日)に相愛の仲であった藤延紀子さん(24)=青山学院大出=と結ばれ家庭をもった自覚もあろうがプロ入り6年目の昨年、代打が多かったが素質があると認められていた打撃にようやく花咲かせて遅まきながら自信を持ったことが大きい。山田正雄ーその名はまだ大向うなうならせるほど署名ではないが東都のベースボール・ファンならあるいは明治高校の左腕投手としてのご記憶があるかも知れない。それはともかく今春のハワイ・キャンプの当り屋だといわれ今シーズンのオリオンズの成長株で気の早い連中は新しい五番打者誕生!と責めていた。そして濃人監督もオープン戦一戦(対阪神)に彼を五番として起用している。もっともこの試合には快打がみられずなでるようなバッティングにはもの足りなさが感じられた。キャンプではよく打ち練習では馬鹿当たりするが本番になると腕がすくむーこれでは心もとないが彼にとって大切なのは一試合にでも多く試合に出て実戦に役立つバッティングを肌で感じとることだろう。プロ入り七年目ーしかも今年は年男。真価を発揮するためにも条件は揃った。アルトマン、ロペスを加えて久々に優勝をねらう東京オリオンズ。彼にも攻撃部門の一躍をねらうヒーローになってもらいたい。それには山田自身も悲願としている常時出場いかんが問題となってくる。二外人によって活躍の場がちがってくるがこれにつづくのが池辺西田井石得津とライバルも多くその前途は厳しいが彼には2年間の闘病生活も克服した不撓不屈の精神と貴重な体験があり隠れた闘志でこの難関を突破していくことだろう。山田正雄は東京は港区青山5の6の18の現在の家で昭和19年9月6日に誕生した。父仲司さん(64)母千代さん(54)の一人息子。当時は戦争も末期で苦しい状態だったがそれだけに両親は何としてでもこの子を大きく育てあげたい信念でいた。やがて終戦ーミルクも容易に入手できない混乱期であったがその逆境にもめげず一人息子はスクスクと育ち両親をホッとさせたのである。青南小学校から青山中学と山田はスポーツ好きの少年時代を送った。とりわけ野球には目がなく三度のメシよりも大好きという打ちこみようであった。また野球に限らず水泳も得意であったという。父も母も一人息子の可愛さも手伝って彼には好きなことを思いきりさせてやろうという主義であった。青山中学ではピッチャーで四番打者として活躍。3年のときには来日したアメリカの高校チームとの一戦にオール東京の4番バッターとして選ばれている。この当時から二、三の高校から勧誘をうけている。そして高校も野球なしでは考えられず甲子園出場の夢を託して名門明治高校の門をたたいた。明治高は開校50年の歴史を持ち伝統ある野球部があった。難があるといえば都心の学校だけに土地がせまくグラウンドらしいグラウンドもなく結局練習は兄貴分の明大グラウンド(当時杉並区和泉町)を借用してやらなければならなかった。しかし若者たちにとってそうした不便さもあまり苦にならなかったようである。明高の猛練習は全国にその名をとどろかしていた。松田龍太郎監督(当時)の練習法はとても厳しいものであった。正月三が日をのぞいては雨の日も風の日も練習はつづけられた。山田のこの松田式スパルタ練習によってピンチも動ぜぬ強い精神力が養われていったのである。一二年は打球を生かして外野手として3番を打っていたのだがその左腕を惜しんだ。松田監督が投手にコンバートした。2年の秋である。左腕からくり出す速球は東京の高校界では№1といわれるほどだった。投手に転向した2年の秋の新人戦では一試合18三振奪取という快挙もやってのけている。このとき東の山田、西の林といわれるほど中京商から南海入りした林と並んで高校球界屈指の好投手と言われている。しかし最後の夢とたのんだ夏の東京予選ではライバル法政一高に敗れ去って甲子園の道をとざされた。甲子園がだめなら神宮球場でーというのが野球選手の夢である。しかも明高はエスカレーター式に明大に進学できるという特権がある。だが家庭の事情で大学進学をあきらめねばならなくなったとき大毎オリオンズからの誘いになった。最初のうちは苦学してでも大学進学を主張していた山田だったが片岡スカウト(現阪急)の熱意におされてプロ入りを決意し神宮球場への夢をすて去ったのである。37年秋であった。もちろんファームで鍛えられるのは覚悟のうえでほとんどをイースタン・リーグでがんばった。当時の大毎のファームは強力で西田石谷迫田辻野といった若手をどしどし一軍に送りこみその使命を十二分に果たしていた。監督はカイザー・田中氏であった。 天性の素質にめぐまれた山田は着実に伸び研修明けと同時に一軍のベンチ入りしてしばしば好打を放っていた。ところが入団一年目のシーズンが終り秋季練習が行われたころ山田は予期せぬ病魔に襲われて五カ月間の闘病生活を送ることになった。急性肋膜炎の診断であった。体が資本であるプロ選手が胸を病むーこれは致命的なショックだった。彼は暗い毎日を日本女子医大の病床で送っていた。だがその闘病中かれの焦燥を救ってくれたのは一度は三枚目近くまで落ちながら幕内までカムバックした松前山関の敢闘であり、この子は将来性がある。病気が全快するまで絶対クビにしないで欲しい。もう一度チャンスを与えてやってくれと会社に懇願してくれた本堂監督の愛情であった。半年近くの入院、一年半の自宅療養ー冷たいといわれるプロの世界でこれまで球団が面倒をみてくれた例はないのではないがその陰には本堂氏の遺言も効果があったと思うが日ごろの彼の人間性を周囲のだれもが買っていてくれたのではなかろうか。またそれに応えて昨年みごとに再起した。昨年の成績は112打数26安打打率・228であった。開幕もまじかい。今シーズン山田の名がスタメンから聞かれるように彼の両親、愛妻とともに祈ろうではないか。
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