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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

淵上魔基

2017-02-13 23:20:37 | 日記
1982年

勇者に異色選手が入団ー。阪急は六日、ドラフト外で兵庫県立武庫工業高・淵上魔基選手(18)=1㍍82、72㌔、右投右打=の獲得を発表した。同日、当銀スカウトが尼崎市常吉の自宅を訪ね、父・敏房さん(46)、母・久枝さん(41)と本人をまじえて交渉。年棒二百四十万円(推定)で仮契約を結んだ。同選手は去る十月十七日に行われた新人テストに合格したもので、高校時代はやり投げの選手という変わり種。平均55㍍を投げ、尼崎市大会、阪神地区大会で優勝、県大会でも三位に入賞した経験がある。バネがあり、百㍍11秒8の俊足で、藤井編成部長は「体の切れ、バランスがよく、将来楽しみな選手」という。阪急では投手として育てていく方針で、やり投げ選手の採用は五十五年の松畑(北陽高)以来二人目。

淵上投手 「高校の途中まで野球をやっていたが、足を痛めて陸上に転向した。新人テストに合格したときはちょっぴり不安だったが、いまはその不安も消えた。プロに入った以上は一軍のマウンドにあがれるようがんばります」
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淵上魔基

2017-02-13 23:11:52 | 日記
1983年

「実はな」と上田監督はニヤニヤ笑いながらこんなエピソードを打ち明けた。昨年九月十七日に行われた新人テストでのことだ。一人のテスト生を見ていた上田監督が大あわてでストップをかけた。「実際に投げているのを見たのは6球ほどだったがな。とにかくいい球を投げる。こんなテスト生を他のチームに知られたら損だなと思ってね。すぐ藤井さん(スカウト部長)にきょう中に契約してくれと頼んだよ」その異色のルーキーがキャンプに入ってじりじりと芽を吹き出した。百㍍を11秒6で走る。握力が右62、左60。何より800㌘のやりを投げ続けて鍛えた右肩は人並み以上だ。「肩が強いのは投手にとって一番大事なこと」と梶本投手コーチ。もちろんいまストレート一本。それも「ホップするような球ばかり」(山口コーチ)。ときには捕手のミットを大きく外れて、バックネットを直撃することも。「やり投げじゃないんだから、遠くへ投げる必要はない」とコーチ陣からしかられることもしばしばだが、上田監督は「来年あたりから」と将来性を高く買う。「カーブですか?投げ方は知っているけど、まだ投げたことはありません。でも三年間ぐらいで一軍に上がりたい」と夢はデッカイ。契約金三百万円、年棒二百四十万円。やり投げ投手はスポットライトを浴びる日を楽しみに練習に励んでいる。
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矢ノ浦国満

2017-02-12 22:39:19 | 日記
1977年

勤務先の不動産会社で集めた金を横領したり、ゴルフ道具をだまし取って業務上横領、詐欺罪に問われた長野市三輪10の13、元プロ野球選手矢浦国満に対し、大阪地裁の竹重誠夫裁判官は七日午後「同じ手口の犯行を何回も重ねており、被害金額も多い」と懲役一年六月、執行猶予三年(求刑懲役一年六月)の有罪判決を言い渡した。判決によると、矢浦は大阪市北区内の不動産会社に勤めていた四十七年十一月、客から集金した土地代金など約百六十万円を横領したほか、昨年一月から十月までの間に大阪府東大阪市内のゴルフショップなど三店からゴルフ道具約二十点(約四十一万円)をだましとった。矢浦は三十五年三月福岡県立東筑高校卒業後、近鉄に入団、「矢ノ浦」の名で内野手として活躍し、四十一年に当時の国鉄に移った。その後、アメリカのグローバルリーグに参加したが四十四年帰国、不動産会社に勤めていた。最後の公判で弁護人は「野球バカで若いころからチヤホヤされ、華やかだった昔のことが忘れられず、一般社会に溶け込めなかった」と弁論、矢浦も起訴事実を全面的に認め「ほんとにアホなことをしてしまった。これからは一生懸命やって自分を取り戻したい」といっていた。
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矢ノ浦国満

2017-02-12 19:47:58 | 日記
1973年

大阪・曽根崎署は十日、元プロ野球選手矢ノ浦国満(31)=大阪市東淀川区淡路本町2-302=を業務上横領の疑いで書類送検した。調べによると矢ノ浦は、昨年七月から大阪市北区神山町64、不動産会社太洋ランド=中浜栄社長(32)=のセールスマンとして働いていたが同十月、大津市瀬田の会社員Aさんと滋賀県甲賀郡水口町の湘南ニュータウン翠ヶ丘の土地約百七十平方㍍を二百六十三万七千円で売買契約し、頭金百万円は会社に入金したが、十一月十七日Aさんの妻から受け取った残金と登記手数料計百六十七万四千円を持ち逃げした疑い。矢ノ浦は「十一月十八、十九日の京都競馬で約百万円を使い込んだ。返済のあてがなく逃げた」と言っている。矢ノ浦は三十五年、北九州市東筑高校を卒業後、近鉄バファローズに入団、六年間名ショートとして鳴らした。その後サンケイ、巨人などを転々、四十五年、野球生活をやめた。
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三宅秀史

2017-02-12 16:51:32 | 日記
1963年

七回広島の攻撃が始まると、三宅(秀)はベンチをとび出した。右翼ラッキー・ゾーンの中にあるブルペンで森光がピッチング練習をしていたが目を慣らすため打者に立った。右翼へ歩く三宅(秀)にものすごい拍手が起こった。ソロムコが満塁本塁打を打ったときよりものすごかった。昨年九月六日、大洋戦の試合前の練習で小山の送球を左目に受けて入院、手術。ウエスタンでトレーニングしていたが、青田、小柴両コーチが相談して試合前に急にベンチにはいることになった。ベテランの三宅(秀)も妙に落ちつかない。「自信なんて全然ない。どのコースが打ちにくい?全部や」と試合前にいっていたのに七回初打席にはいったときは、ガラリとかわって自信に満ちていた。「ぼくもプロの選手や。あれだけの拍手が起こると、やらなあかんと思った」二塁にみごと内野安打。藤本監督が思わずベンチから腰を浮かした。藤本監督も右足のリューマチで十五日から休んでいた。三宅(秀)のカムバックといっしょになって上きげん。「三宅(秀)の戦列復帰を待っていたんや。これで村山もカムバックしたし、顔が出そろった。打線ものぼり調子やから、これからやで」と威勢がいい。「調子のいいのは巨人だけや。あとはモタモタしている。しかしきのう大洋がちょっといい試合をしたね。もうちょっとでほんものになりそうやな」と観察も鋭い。試合後ロッカーでは二つの輪ができた。藤本監督と三宅(秀)を取り巻く報道陣。三宅(秀)は「ナイターはやはりええ。しかしはじめてでちょっととまどった。八回の大和田のライナーなんか昼間だったら軽くとれている。ウエスタンの初打席が二塁打。こんども安打が出るような気がした」と気持ちよさそうに語る。視力のことになると一瞬表情をくもらせた。「これは書かんで下さい」とボッツリいって、すぐ「試合はナイターの練習だと思ってやります」と表情をやわらげた。藤本監督は「三宅(秀)は代打か、代走に出すつもりだったが、楽勝のケースだったので思い切って出した。りっぱだったよ。これからはどんどん使っていくつもりだ。勝つためには三宅(秀)に働いてもらわんと困る。リューマチ?そんなことはどうでもええやないか」
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外山博・大西譲治

2017-02-12 10:38:30 | 日記
1970年

中日の外山博投手(22)は二十日午後二時過ぎ市内中区栄の球団事務所に東方代表をたずね、右肩痛を理由に退団を申し入れ、受理された。球団はすでに、シーズン中から今シーズン限りで整理選手にする方針を決めていた。近日中に任意引退の手続きをとる。同投手は四十二年春名電工から入団、期待されたが公式戦は昨シーズン先発で一試合に登板しただけで勝敗の記録はない。なお大西譲治投手(20)も同日球団事務所をおとずれ、プレーをつづける自信を失ったとして辞表を提出したが、慰留された。同投手は1㍍86、86㌔とチーム一の体力にめぐまれ年齢的にもこれからで、球団では将来性を評価、この春大リーグ、ドジャースのキャンプに参加させるなど力を入れてきた。
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藤井信行

2017-02-11 21:42:31 | 日記
1974年

実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。ある日、青木専務は担当コーチに質問した。いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。答えは「同じようなものです」だった。「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。チームの連敗は5で食いとめることが出来た。そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。堂々たるものだ。「あいつはまじめな男。野球に取り組む姿勢がいい。十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。「代打ではタマを見ている余裕がない。その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。
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市原稔

2017-02-11 20:39:00 | 日記
1970年

南海・新山代表は二十六日午後、大阪・浪速区蔵前町の大阪球団内事務所に市原稔内野手(22)を呼び、整理をいい渡したあと球団職員になるよう要請、市原もこれを了承した。同選手は来シーズン東京駐在の職員として、イースタン・リーグをみてトレード会議用の資料作成をするほか、将来外人との渉外関係を担当するため球団の費用で英会話の勉強をすることになった。
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田辺修

2017-02-11 20:32:32 | 日記
1969年

中日は近鉄の田辺修投手(25)=1㍍76、75㌔、右投げ右打ち、美馬商工出身、七年目=の獲得に成功した。中日は手薄な投手陣を補強するため、各方面を打診していたが二十七日、佐藤(アトムズ)に続く第二弾として、田辺を金銭トレードで受け入れることにしたものである。田辺は昭和三十八年近鉄に入団。四十年に5勝、四十一年に4勝をあげ、通算成績は133試合10勝21敗。フォームはやや変型だが、オーバースローの全力投球型で、そのピッチングにはかなりのスピードがある。難をいえば性格が過熱型なことと、コントロールが時折り不安定になるため、エキサイトすると一本調子になりやすいことだ。しかし、まだ一度も肩ヒジの故障を経験してないのは大きな強み。
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安藤元博

2017-02-11 16:21:52 | 日記
1963年

「安藤(元)はスピードがなかったから勝利投手になった」試合後妙な感心をしたのは負けた中西監督である。「いつもならもっとスピードをのせた変化球を投げている。彼はうちが大振りしてくるとみると、スピードのない球よりもうひとつスピードのない球を使った。それで本来のスピードのない球が威力のある球に錯覚してみえる。うちの打者はまんまとそのテクニックにひっかかったのだ。ふつうの投手よりゴロになる事の多い安藤(元)に内野ゴロがわずか二つしかなかったのもタイミングがひとつおくれている証拠だ」安藤(元)が答える。「肩も痛いしヒジも痛い。なんとか投げられるかなと思ったのは三回コントロールがよくなってきたからだ。どうにかこうにかもったという感じだな。それにしても西鉄はフライが多かったね。オレにはそう思えんが、胸もとでホップしていたんだろう」いつものオトボケは最後にちょっぴり出ただけ。苦しそうな表情だった。安藤(順)も苦しいリードぶりをいう。「スピードがないからね。外角へ逃げて逃げて逃げまくった。気味悪いほど向こうがそれにうまくひっかかったんだ」水原監督も「六回ヒジが痛みはじめたからといってきたのは事実だ。いつでもかえる用意はしていた」といった。ネット裏で見ていた岩本章良氏も安藤(元)の勝利ではなく、西鉄打線の敗戦だという見方をする。「安藤(元)は一、二回カーブのコントロールに苦しんだが、三回から西鉄打者の腰の開きをみて内角球はボールで遊び、スピードで落としたカーブでタイミングをくるわし、外角への速球で勝負するかたにはまった配球で、最後まで押した。それなのに西鉄打線でボックスの位置をかえ一切うしろに立って打ったのはウィルソンだけ。みんなアウト・ステップして手だけで打っていた。さほどスピードのない下手投げの安藤(元)に対しボックスの位置を一番前か、うしろにとってねらい、球をきめて打ち込むか、アウト・ステップを防ぐためスタンスを広くとってノー・ステップで向かっていくか方法はあるんだ」安藤(元)はヒジの痛みと西鉄打線の無策で勝ったのである。
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安藤治久

2017-02-11 15:30:39 | 日記
1963年

グルリとまわりを取りかこんだ報道陣。カメラのフラッシュ。その真ん中で安藤はノンビリ立っていた。鼻の頭に吹き出る汗をふこうともしない。「五回の二塁打?あれはまっすぐ。初球からねらっていたんですよ。ピッチャーは追い込まれると打てませんからね」ボソボソとした返事に、広がっていた軸がグンと小さくなった。「ええ、七回の1点、あれで勝てると思いました。あの犠打、大きかったでしょう。あれが抜けていたら・・・いい当たりだったな」最後の方はひとりごとのようにボツリといい、打球のとんでいった中堅方面をじっとみつめた。「投打の活躍で気持ちがいいでしょう」という質問に「さあ、久しぶりだしシャットアウトしたかったな」五月二十五日大阪球場で南海を完封して以来四十一日ぶりの勝ち星というのに、表情一つかえない。「一番のピンチは?」と聞かれると「六回青野を歩かせて張本とあたったとき。でも二死だったしね。きょうはシュートがよく切れました。球も速かったですよ。直球がのびていたから前半はストレート、後半はカーブでカウントをかせいでシュートで勝負しました」これだけ一気にいう間にゼスチャアはグローブを二、三度両手でひっくり返しただけ。鼻の頭がポトリと胸もとに落ちるとあわてて人さし指でピンと鼻の汗をはじきとばした。「笑って下さい、ニッコリと」カメラマンが注文すると「そんなにうまく笑えないよ」とまじめくさって答えながらしぶしぶ笑顔をみせた。小さく安藤を取りかこんでいた輪もこれで解散。バスに向かう安藤は「笑えたって・・あれ営業用だよ」とまだ最後の笑顔にこだわっていた。
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渡会純男

2017-02-11 15:10:07 | 日記
1963年

意外なことが重なって思いがけないヒーローが生まれた。その第一は皆川のホームラン。投手ではバッティングのいい皆川だが、最近十試合で8三振。「どうせ打てないんならはなばなしく三振してやろうと第一打席からブリブリ振りまわしていたら、運よくジャスト・ミートしたんだ」第一打席は全部力いっぱいのから振りで三振。ホームランも二度大げさにから振りしてからだった。第二の意外は、それまで西鉄を四安打に押えていた皆川が九回二死2-0からロイに打たれたホームラン。「勝負を急ぐな。タイミングをはずせ」ベンチから鶴岡監督が大声を出し、野村が腰を浮かしたはずすつもりのボールだった。「左足を踏み出した瞬間、大きくインステップしすぎて足首が内側にキュッとまがってしまった。アッと足に気をとられたらスナップがおかしくなって棒球になってしまった。あんなこと一年に一度くらしかない」めったにない左足の奇妙な動きがなかったらロイのホームランは出なかっただろう。そのころ渡会はベンチの一番うしろでのんびり観戦中だった。九回裏若生が出てきたとき、まるで関係ない顔をしていた渡会に声をかけたのが岡本だった。「出る用意をしておいた方がいいぞ」下手投げ投手対左打者。島原を使ってもう左は渡会だけだった。二年前まではコーチと選手の間がらだった岡本と渡会。岡本のカンは当たり、渡会は岡本の言葉を監督命令のように聞いた。「岡本さんにいわれてそうかなあと思って、バットを振って待っていた。打った球はカーブかスライダーかわからんな。今シーズン代打で三打席目。いままでは安打と四球、失敗はなかったからね。きょうもうまくいくとは思っていたけど・・・」杉浦が名づけ親でナインやミッキー・ルーニーと呼んでいる。戦前からアメリカの青春映画の主役で有名な童顔の俳優だ。小さな顔に丸い目をキョロキョロ動かしてテれる渡会は、最後までベンチに残って道具をかたづけていた。
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三宅秀史

2017-02-11 15:00:01 | 日記
1963年

八回阪神が6-1とリードして、なお二死二塁、代打三宅(秀)が出たとき三塁スタンドの女学生の群れがキャーキャー声をあげた。三宅(秀)がちらっと見あげると約七か月ぶりの打席に立った。外角低目のストライクを見のがしてからつづけて3球内角のボールをこわそうによけた。五球目、また内角の直球。瞬間オープン・スタンスに切りかえて右前へライナーではじきとばした。「いやあ、恥しいな。三振するつもりだったのがヒットになるんだから」ひとりでテレたが、左目のことにはふれたがらない。視力についてはこんな答え方をした。「毎日二、三十本打っているが、まだほんとうのカンがつかめない。とくに外角の見きわめはむずかしい。きょうの第一球だっててっきりボールだと思っていた。まだ練習がたりない」問題は視力でなく練習量というわけ。「目のことより足、腰を慣らすことの方が大事なんだ。だから当分二軍といっしょにやる。一軍では遠慮せんといかんし、いまのオレは忘れられた存在だからな」さびしそうな言葉をうしろから梶岡コーチが大声で打ち消した。「ウエスタンでどんどん出てもらう。はじめは代打。半月もしたらスタメンで二、三回。一か月後には四番を打ってもらって・・・」三宅(秀)は笑った。「オレもヒットを打った日ぐらいでかいことをいうかな。すぐホームランだって打てるぜ」
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堀本律雄

2017-02-11 14:05:41 | 日記
1963年

最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインがワッととりかこんだ。「おおきに」「おおきに」大きな目をなおいっそう開いて、だれとでも握手をして頭を下げっぱなし。七回二死後、松並を歩かせたあとベンチから伝令がとんだ。だいじょうぶかそう聞く伝令をひとにらみで追いかえしてしまった。「いろいろとデータを調べてパの選手を研究したのだけど、みるとやるとでは大違いだ。じかにハダで感じとらなければ、いくらたんねんいデータを調べてもはじまらないね。一回に3点とられてしまったのは、まだ各打者をじかに知らなかったからだ」なれたらへっちゃらさそんな言葉をぐっとのみ込んだように目を白黒させた。「それにしてもひどいよ。審判の判定が全然なってない」新しいストライク・ゾーンの話になると、ムッとしたように怒りをぶちまける。「わしらは力で押し切るタイプじゃないんだから、コーナーボールをいいかげんに判定されたのではかなわんよ。同じコースがボールだったりストライクだったり・・。そんなあいまいな判定をいつまでもつづけられたのでは商売あがったりだ」そんな不満も初勝利の喜びの方が大きいのか、表情はすぐ笑顔にもどった。「きょうはかなり風があったのでサイドハンドの方がコントロールがつきやすいと思って徹底して横手から投げた。別にフォームをかえたわけじゃない」横手投げを押しとおした理由をこう説明した。五回は米田に同点ホーマーされてくやしそうにグローブをたたきつけた堀本だったが、試合後は「真ん中の直球がスイと高目にはいってしまったんだ。だれでも打てるボールさ」こともなげにそういってのけた。一回三十七球も投げて前途多難を思わせた堀本も、二回以後は例のヒョウヒョウとしたピッチングでスイスイ阪急の各打者を凡退させた。「一回は初登板ということもあってちょっと警戒しすぎていたようだ。二回以後は各打者の心理をのみ込んだ堀本らしい人をくったピッチングにもどって、すっかり阪急打線をケムに巻いてしまった。五回米田にど真ん中のボールを無造作に投げてホームランされたが、その悪いクセがでないかぎりかなりやるだろう」評論家の吉田正男氏のからい点は、かろうじて合格といったところだ。
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伊藤芳明

2017-02-11 13:53:54 | 日記
1963年

伊藤のオッチャンがホームランを打ったーこれはたいへんなことである。五回裏、先頭の伊藤が河村から右翼スタンドへホームランしたとき、巨人ベンチは「おおやったぞ」みんなびっくりして、イスからとびあがった。堀内や藤田が「やられた」「やられた」を連発している。プロ入り五年目で、初めて記録したホーマーだ。初ホーマーどころか、二百四打席目に出たホームランだ。しかも今シーズン初ヒット。去年まで四年間に長打といえば二塁打二本しか打っていない。巨人の投手は、自分たちの仲間がホームランを打つと、そのときベンチにいた連中が一人二千円出し合ってのその投手兼ホームラン打者を表彰することにしている。「やられた」とわめいたいのはこのため。ほかに五人いらから一万円いただきました。ワイフにおみやげ?いやいや、夫のへそくりです。貯金しようかな。しかしホームランというものは気持ちがいい。雲の上を走ったような気分だったね。何年もやってたら一度ぐらい味わわせてもらってもいいでしょう。ことしはまるで打てなくてね、実は心配していたんだ。本腰の調子がよくなると、副業の方はおろそかになるもので・・・。えへへ」本腰のピッチングもすばらしかった。四回までノーヒット、カーブのコントロールがよく、それにもまして低目の球がよくのびていた。今シーズン三度目の完投、二度目のシャットアウト試合だ。投げ終わったあと帽子のひさしが横を向くのがマウンドの伊藤のクセだが、この日は調子がいいのかあまり帽子も横に向かなかった。試合が終わって帰りのバスに向かう伊藤は、報道陣とファンと警備の警官にもみくちゃにされ、ダッグアウトからバスに向かうまでの約十五㍍に十分もかかった。「きょうはカーブがよかったね。初めはシャットアウトできるとは思わなかったのだが、五回藤井にポテン・ヒットを打たれてから気が楽になったよ。スピード?だんだん出てきたからな。広島が大振りしてきたからカーブがよくきいたのかな。それにしても初めはコーナーをねらったのがギリギリできまらず、困ったがね・・・」「オーイ、オッチャン。よくやったな」球場を出たとたん、ファンの人波からそんな声援が送られた。めったにこない金沢にまで伊藤のニックネームは知れ渡っている。たいしたものだ。これも伊藤流にいえば、五年もすれば全国にニックネームぐらいは知られなければ一人前といえないのだろう。城之内、北川、中村のエース級三人を使って負けた富山のアダを伊藤は一人でうった。
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