goo blog サービス終了のお知らせ 

プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

相川英明

2025-08-15 08:34:30 | 日記
1986年
一年前には、いや半年前には想像もできなかった姿だ。九回二死二塁、相川は代打・若松を二ゴロに仕留めて初めて顔を緩めた。ナインに握手で迎えられる。横浜高からドラフト5位入団、高校卒のルーキーの初完投の瞬間だ。「今日は立ち上がりから直球が走っていましたから。でも最後の最後まで、完投できるなんて思っていなかった」「ブルペンではリリーフエースの斎藤が時折、投球準備をしているのが視野に入っていたに違いない。でもひょうひょうと投げ切った。これでプロ入り4勝目。「今までは勝ちをもらってましたから。ローテーション入りしたし、一度ぐらいは自分の力で取りたかった」との願いも達成した。「最後までマウンドにいられる、というのは気持ちいいですねえ。できれば完封したかったけど」と改めて勝利の味をかみしめていた。孫のような相川の白星に、近藤監督も久しぶりに会心の笑み。「相川は球の切れがいいから。高校卒のルーキーが完投勝利したんですよ。最後までスピードが落ちなかったし。二、三年後にはウチの投手陣の柱になってもらうんだから」と手放しだった。


1987年


今季初勝利は99%手中にしていたものの、プロ入り二年目の初完封がピンチだった。九回二死満塁、打者永尾。「ものすごく意識しましたよ。その分、力が入りすぎて…。最後は捕ってくれ、と祈りました」その最後の打球は三邪飛、山下が慎重に捕球して相川に思わずガッツポーズが出た。計5イニングも無死から走者を許している。が、ホームは最後まで踏ませなかった。「きょうはコースより、力のあるボールを真ん中に投げようと思った。市川さんにも、追い込むまでコースに構えないでくれ、と言ったんです」言ってみれば、走者を背負っても逃げない大胆な攻めが活路を開いたといったところか。「ものすごくうれしい」の言葉にも当然、実感がこもっていた。六十一年のドラフト5位で地元横浜高から大洋入り。昨年、ルーキーの年に4勝を稼ぎ将来に期待がかかる十九歳だ。「六回真弓さんから始まったところがヤマ。完封はその時まだ意識してなかったけど、六回を乗り切ってよし完投だと思いました」札幌で大洋の若い有望株が芽を一つ出した。


相川が六月十三日の阪神戦(甲子園)以来の白星を挙げた。「久々の勝ちでしょ。九回は緊張しましたよ」強心臓の相川にしてはおとなしい発言。「杉浦さんに本塁打を打たれてからは五回までのつもりで。その後は何も考えずに投げていた」と言う。散発3安打ながら8与四死球とコントロールは荒れ気味だったが「一発長打を警戒しすぎて。逆に荒れていたのが良かったのかも」昨季の勝ち星「4」まであと一つ。「何とか勝ちたいですね。投げさせてくれるかな」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相川英明

2025-08-14 21:53:48 | 日記
1986年

「桑田君、オレだって横浜高のエースだった」逆転のピンチに相川は出てきた。四回一死一、二塁。打者は篠塚、クロマティと続く。「欠端から、十八歳の高卒ルーキーに任せるには、勇気と決断がいる場面だったけどね」と近藤監督。しかし、相川は監督の胸中にこたえた。「どうしようかな、と思いましたヨ。ボールがコースに決まらないし…」999試合目の若菜は度胸一番、真ん中にミットを構える。「真ん中へ投げてみて、球が左右に散ってくれたらいいと思って投げました」「篠塚は抜いたシュートで空振り三振。クロマティも遊ゴロに仕留めた。監督からのアドバイス、「受け身に回ったらダメだ」の一言そのままのマウンドだった。今季高卒のルーキーとしては遠山(阪神)桑田(巨人)に続く勝利。「ボクとは格も違うし、向こうは先発だから。でも中山にはちょっと悪いナー」前日(十三日)、母校・横浜高を訪ねた際、渡辺監督と初勝利の時は祝電をもらう約束をしていたそうで、早くもそれが実現した。門田、堀井とともに、大洋中継ぎ投手の一角を担っている。「いい場面で使ってくれるし、投げるのが楽しい。またヒジを壊さないよう強化に努めています」「まだ若いからボークをやったり、見ていられないが、打者の手元で球が切れるのがいい。試合に出るごとに力を付けているネ」と、近藤監督。Aクラスにかける監督の腹のくくり方が、十八歳の少年にジンと伝わったような相川のピッチングだった。

相川投手の母親・道子さん(41)の話 英明がプロ野球で1勝、それもこんなに早く勝てるなんて、夢みたいです。兄の光明(22)と一緒にテレビを見ていたんですが、見ているうちに自分の体が固くなってきてしまって…。見ていられない気持ちと、本人はちゃんと投げてほしいという願いが一緒になりまして、今月上旬の北海道遠征の前に、一度顔を見せました。グラウンドで投げている姿は、まだ見たことないんです。顔を合わせたら、おめでとう、と言ってやりますけど、まだキツネにつつまれたみたいで…。出来過ぎです。

今季初の5連勝、五十四年以来、七年ぶりの対阪神戦勝ち超しーとこの1勝、横浜大洋にとっては「大きな白星」だった。前夜に続く平田の2ラン、ポンセ、ローマンの適時打、そして若菜のソロアーチと早々5点のリードを得た相川が、プロ2勝目をマークした。140㌔台の直球、カーブがポンポンと決まる。五回まで猛打の阪神を零点に抑えた。前回、六月十九日、広島13回戦(横浜)で先発したときは一死しか取れず初回、3失点KOされたのに比べ格段の成長ぶりだ。「この前、先発したときにいい恥をかいてしまいましたからね。(勝利投手の権利が生まれる)五回は特に気合が入りました」試合前、硬い表情だった相川はニッコリ。「六回は一番からだったので気を付けすぎて変化球が外れ、真弓さんに四球を出してしまいました。長いイニングは久しぶりなので少しバテてましたし」降板のもととなった真弓の四球には悔しそうだった。六日からの巨人戦(後楽園)に向け、エースの遠藤、木田を温存できた近藤監督は笑いをこらえ切れない。「投手が苦しい中、相川がよくやってくれた。破れなかった壁が敗れたね。阪神にV2をさせない、というボクの今年の仕事の半分近い部分だったからね」と、話すそばから白い歯がこぼれてしまう。十八歳の若者がつかんでくれた勝利とあっては、余計にうれしかったろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤剛

2025-08-04 20:31:45 | 日記
2000年 
日本ハムの二年目右腕、伊藤がプロ初完投勝利を飾った。140㌔台の直球を軸に、本塁付近に吹く向かい風を利用してフォーク、カーブなど。変化球を駆使。七回二死から代打石井に適時打されて初完封こそ逃したが、ロッテ打線を6安打2失点に抑えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小橋正佳

2025-08-03 17:09:02 | 日記
1997年


昨年ファーム初勝利。長身から投げおろすタマには角度があり、楽しみな存在。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増田政行

2025-08-03 17:07:08 | 日記
1994年


疲労性肋骨骨折も完治。政行から改名もした。カウント稼ぎの変化球を会得して一軍定着を目指す。


1995年
1年目には一軍で先発のマウンドも踏んだ。素質はあるだけに昇格のきっかけをつかみたいところ。


1997年


92年以来の先発マウンドを踏んだ昨年、6月29日阪神戦で念願のプロ初勝利。22試合に登板した成長株。145㌔前後の速球を生かせば勝ち星も増える。


1998年


140㌔級の速球で昨年開幕一軍。ファーム防御率2位。背番号変更で一念発起。


1999年


威力あふれるストレート。きっかけ次第で結果を残せる。まず登板数を増やしたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アキラ(伊藤彰)

2025-08-03 17:01:21 | 日記
1997年
同じ調布リトルの出身、憧れのアラキ(荒木大輔氏)の「1」を背負うアキラ。高2夏甲子園2回戦、3年夏1回戦。「ストレート(MAX144キロ)とカーブで三振を取れる投手に。


1999年


昨オフの左肩手術からファームで2試合登板するまでに回復。あせらず、大きく育て。


2000年


ドロンとした大きく緩いカーブが武器。タマの出所も見づらい。1~2年後が楽しみな投手。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平松省二

2025-08-03 16:57:46 | 日記
1997年
デビュー戦となった4月9日の西武戦(西武)大差をつけられて7回からの登板だったが、いきなりジャクソンに打たれ、河田には右翼席に弾丸の2ランをたたきこまれてマウンドに沈んだ。非力とも思える打者に軽々とスタンドまで運ばれたプロのパワーは、社会人で鳴らした平松にとっても想像以上のものだったにちがいない。初先発した5月6日の近鉄戦(藤井寺)でも折角味方打線の援護を受けながら3回に吉田剛、5回C・Dに一発を浴び勝利をフイにしている。厳しいプロの洗礼を浴びた平松が、これからどう自分の道を切り開いていくのか、注目したい。


1999年


一昨年秋に手術した右肩も徐々に回復してきた。昨年イースタン29試合に登板し、再び投げられる喜びを十分に噛み締めることも出来た。もう迷いはない。8月4日のイースタン巨人戦では完投勝利を挙げ、確かな手応えを感じ取った。沼田、黒木とのNHKトリオの中で昨年はひとり乗り遅れた格好となっていたが、右肩も完治し、明るい材料が増えた今季こそその遅れを取り戻したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤剛

2025-08-03 16:54:44 | 日記
2002年
年毎にその存在感が薄れてきているのが寂しい。あの豪快なピッチングがカゲを潜めている。昨年のキャンプ前に腰を痛め、自分で納得のいく調整が出来なかったのも微妙に影響してきた。ちょっと投げ込んだだけで疲れを残してしまう。やりくりに大わらわの投手陣にあって連投のきかない体では踏ん張れなかった。体調が戻った昨年秋の鴨川キャンプで、これまでとはひと味違う伊藤を見ることが出来た。浅野コーチのアドバイスを受け、シュートをマスターしようと懸命に投げ込む意欲的な姿である。やや横からの腕の振りも、このタマには有効だ。打者の内ぶくろを突く強気な攻めで顔前に立ちふさがるぶ厚いカベを突き崩すことが出来るか。140㌔台後半の速球に得意のツーシーム、そしてこの新球シュートをひっさげて一気にブレイクして欲しいものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野仁

2025-08-03 16:51:09 | 日記
1998年
昨年8月30日の広島戦で、プロ初先発を見事な白星で飾った。堀内恒夫・現ヘッドコーチ以来、31年ぶりのルーキー初先発勝利は、秋田経法大付高時代に、高校生では初めて、五輪候補としてドラフトから除外される凍結選手になった大器ぶりを証明した。持ち味は、長い腕を生かした切れのいい速球だ。この春の宮崎キャンプでも、400勝投手で大先輩の金田正一さんから、大きなフォームで投げることをアドバイスされ、先発を任される大型左腕としての歩みを早めた。今季は「速球を生かすためにも、緩い変化球をマスターしたい」と投球の幅を広げることにも取り組んでいる。プロ1年目は、細かなコントロールに気をつかい、大胆さを欠く面も見られたが、「今年は、打者に向かっていく思い切りのいい投球を見せたい」と意気込んでいる。


1999年


昨季は、左の先発不足に泣いた巨人。今季、首脳陣は、小野、岡島、平松のローテーション入りに期待を寄せている。中でも小野は、入団以来、何度も先発のチャンスを与えられながら勝ち星が伸びず、昨年も2勝止まり。制球難が災いし、最速で150㌔近い速球を生かせなかった。


高校2年時に既に甲子園大会で快速球が注目され、3年時には高校生として初めてアマチュアの全日本に選出され、世界最強豪・キューバチームが誇れるリナレス・キンデランの三、四番から三振を奪っているのだ。ともに149㌔を記録する快速球で奪った三振で、この快投後小野は、「10年に一人」の形容で語り続けられる。高校卒業後入社した日本石油では本来のスピードが戻らず、高校時代から指摘されていた制球難も克服できず、96年アトランタ五輪では2試合、2回1/3投げて防御率19.29の記録だけが残った。プロから即戦力の活躍が期待される社会人選手にとって、この成績は致命傷だ。しかし、この年のドラフト会議で小野は2位指名され、巨人入団を果たしている。いかに小野の持つ素質が破格か、このことだけでもよくわかる。プロ入団後、アマチュア時代の欠点を持ち越した小野は苦戦する。1年目の97年は1軍で11試合に投げ1勝0敗、防御率は6点台、2年目の昨年は15試合に投げ2勝7敗、防御率は5点台だった。「カーブのコントロールをよくするよう心がけています。フォークは下(二軍)では勝負球に使って三振の数も多かったんだけど、一軍では使わなかったんです。左投手で成功している人は皆、カーブがいいですから、カウントを取る球にもしたいし、勝負する球にもしたい」課題のコントロールに対しては「記録的に見てもそれほど悪いとは思わない」と言う。「ストレートでもカーブでもストライクは取れるが、勝負球が甘い。しかし、それまでの過程ではいいボールがいいコースにいっている」というのが小野の自己分析だ。


2003年


昨年秋から横手投げをスリークォーターに戻し、完全復活を目指す。秋田経法大時代から才能を絶賛された未完の大器。課題となる精神面のタフさと制球力が増せば、新天地で一軍に定着し、先発で2ケタ勝てる力はある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤彰

2025-07-31 07:26:06 | 日記
1996年
山梨学院大付高。2年時は中継ぎ、今夏はエースとして県大会で61奪三振をマーク。優勝の原動力となり、2年連続で甲子園に出場。今中(中日)二世と高い評判。安定したフォームから、142㌔を超える速球と縦に割れるカーブが武器。肩痛に不安も。182㌢、78㌔。左投げ左打ち。17歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野剛

2025-07-19 08:48:32 | 日記
2000年


首都大学二部リーグながら通算37勝を挙げた本格派。上体に頼ったピッチングで完成度は低いが、化ければ大きく育つ可能性も。

巨人の中村、藤本両スカウトは20日、東京・豊島区にある武蔵大を訪ね、ドラフト7位指名の小野剛投手(22)に指名あいさつを行った。約40分間の話し合いを終えた小野は、今季限りで退団するバルビーノ・ガルベス投手(36)2世を襲名し、同投手がつけていた背番号59を希望した。高校時代は無名、武蔵大進学後も地味な存在だった小野だが、その言動はなかなか立派。この日の話し合いでも、中村スカウトから巨人サイドに2つのお願いをしていた。まずは名前にちなんで登録名を「GO(ごう)」にすること、さらに剛球を投げたいという希望から背番号の「59」をお願いしたのだった。その登録名について中村スカウトから「巨人では名字以外を登録名にすることはあまりないので」とやんわり拒否されたが、背番号「59」についてはどうやらものにできそうになっていて、「ガルベスくらい熱く投げたいですね」と2世襲名を宣言した。ガルベスには乱暴者のイメージがつきまとうが、小野は気にも留めない。「あれくらい闘志を見せた方がいいと思います。巨人にはエリートというかクールな人が多いようですけど、ボクはそういうスターとは違いますからね」と雑草派をアピール。大学2年まではやじられると、マウンドからどなり返していたという。子供のころは「水泳とサッカーが好きだったけど、それじゃ食べていけないので」と野球を始めた変わり種。ガルベス同様「野球をやりはじめてから肩痛になんてなったことがない」というたくましい右腕は22日、都内のホテルで仮契約を結んで、エリート軍団の一員となる。


巨人がドラフト7位指名した武蔵大の小野剛投手(22)=187㌢、88㌔、中津市出身、右投げ右打ち=の入団が二十二日、決まった。中村スカウトらが東京都内のホテルで交渉し、契約金三千万円、年棒五百五十万円で仮契約した。巨人がガルベスを来季の保留者名簿から外す方向で、退団が決定的なため「(ガルベスのような)熱い投手になりたい」と、ガルベスの背番号59を希望。首都大学リーグ二部で阪神の藪が持っていた最多勝記録を更新する通算37勝を挙げた右腕は「(最高145㌔の)直球を見てもらいたい」と強気に話した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松川誉弘

2025-07-16 21:50:22 | 日記
2004年


思い切りの良さならだれにも負けません。体力、技術ともに一日も早くトップレベルで通用する力をつけて、西武ドームのマウンドに立ちたいです。

2005年


「今年はファームの試合で昨年の倍は投げたいですね。そうすれば一軍へのチャンスももらえると思う。まずは一軍を体験しないことにはなにも分かりませんから」満員のスタジアムで投げることが夢だと語る松川投手は、背伸びすることなく、自然体で2年目の目標を掲げた。ルーキーイヤーの昨年は、初めて対戦するプロの打者からのプレッシャーで、試合になるとコントロールを乱すことが多かったという。しかし、投球フォームを何度も繰り返しチェックして、自分のスタイルを作ることで、その課題を克服しつつある。「早く結果を残して、顔を覚えてもらうことを第一の目標に頑張ります」


2006年


入団当初、「自分はプロで通用するのか」という不安を感じていたと言う松川投手。だが、イースタンリーグで20試合に登板した2年目の昨シーズン、フォークボールの習得によって、自身が芽生えた。「握りを変えたら、コントロールが安定してきたんです。高低の投げ分けができるようになって、カウントを整えることも、勝負することもできるボールになりました」また、他球団の一軍選手と対戦した昨秋のフェニックスリーグでは、フォークボールを使った投球が通用したことで、ますます自信を深めた。「いつまでも新人でいられないですから」一回り大きくなった体と自信を武器に、今年は一軍を目指す。


2007年


4年目のシーズンを迎え、初の一軍登板へ松川誉弘投手はキャンプから意欲的に練習に取り組んでいる。「球のキレを磨くために遠投を多く取り入れたり、意識して体全体を使って投げるようにしています。これまで投げたことがないですし、もちろん一軍で早く投げたいという気持ちは強いです。でも焦らず、飛ばし過ぎず、目的をもって練習するように心がけています」直球とフォークボールを主体とした本格派のサウスポーは、チームにとっても待ちかねた存在だ。本人もそのことは十分に自覚している。「必ずチャンスはあると思うんです。だから、それを確実にモノにしたい。いつ声がかかってもいいように、常に万全の状態をキープしておきたいですね。今シーズンは必ず一軍のマウンドに立つことをファンの皆さんにお約束します」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福井強

2025-07-16 21:44:54 | 日記
2000年


8位の福井強(プリンスホテル)は、直球と変化球のコンビネーション、制球で勝負するタイプで、ポスト橋本の呼び声も高い。

投手としては174㌢の小柄な体だが闘志がいっぱい詰まっている。最下位・8位の福井は、セールスポイントを聞かれると「根性です」と胸を張った。大阪桐蔭高から社会人入りして2年目。本来なら、まだプロ入りができないが、廃部による特例措置が適用された。西武には橋本、土肥、星野と、プリンスホテル出身の左腕投手が3人もいる。「技術じゃかないませんが、打者に向かっていく気持ちだけはだれにも負けません」先輩たちもこれからはライバルだ。そしてもうひとり、レオ投手陣には同じ20歳の怪物・松坂がいる。「同じ年でも、むこうは№1ですから。1日でも早く近づきたい」1位の大沼とも、契約金や年棒でいきなり大差をつけられたドンジリ入団。高い高い山の頂上を目指す戦いが始まった。


2001年


契約金3000万。小柄だが、思い切ったピッチングをするのがいい。鋭いカーブが武器だ。高校卒2年目だが、プリンスホテル野球部が廃部になったため、特例措置でプロ入りした。2、3年先の一軍入りを目指す。


最後のプリンス戦士。スライダー、シュート、フォークと多彩な変化球のキレで勝負する技巧派タイプ。7位入団の水田とは大淀ボーイズリーグ、大阪桐蔭、プリンスホテルと同僚で、身長、体重、血液型まで同じ親友。目標は小柄な左腕・西武橋本。


持ち味の速球で勝負します。その姿を多くのファンに見てもらうためにも、1日も早く一軍のマウンドに上がれるように頑張ります。


2002年


持ち前のキレのいい直球で勝負できるピッチャーになりたい。早く一軍のマウンドで投げたいです。


2003年


まずは一軍で投げること。そのためにも、しっかりと体を作り、コントロール、スピードともさらにレベルをアップしたい。球のキレには自信があります。 自慢のストレートを早く一軍で披露できるよう頑張ります。


2004年


左バッターを完璧に抑えることが僕の仕事。それが一軍のマウンドへとつながるはずです。自分の武器である球のキレを増し、課題のコントロールをつけるために、下半身を重点的に鍛えました。まずは一軍入りを目指します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤宏光

2025-07-12 16:42:14 | 日記
1982年
3連敗している伊藤が、この日は見違えるような好投だった。シュートとスライダーがコーナーに決まり、ヤクルト打線は詰まった当たりの内野ゴロと凡フライの山。四回の角の二塁打1本だけだった。ところが土壇場の途端場になって代打岩下に四球を出す。カウント2-3からの6球目は、外角いっぱいに入ったように見えたのだが、小林主審は無情にもボールと判定、一塁を指した。そして、次の杉浦が左前へ。「きょうは開幕のつもりで頑張った、強気でインサイドを攻めたのがよかった。」と言う伊藤は、九回の悔しさを次の試合にどう生かすだろうか。


1986年


巨人打線は、速球とスライダー、カーブをまぜ、内外角をつく伊藤の前に序盤を完全に押えられ、四回二死からクロマティが左単打したのが初のヒット。


四年ぶり三度目の完封勝利に阪神の伊藤は「とにかくフォークボールがキレたからね」と得意顔。試合前のブルペンでの練習からそのコントロールが良かったそうで、「そのままいい結果が出せた」と喜んだ。


伊藤の勝負のパターンは右打者は外角スライダー、左打者は外角シュート気味の球が多かったが、巨人打者はこれにひっかけては凡打に倒れていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1984年 プロ野球退団選手

2025-06-29 15:41:59 | 日記
1984年
現役は退くが、コーチやマネジャー、あるいは打撃投手などとして、球界にとどまる選手もいる。渋い打撃が定評だった基満男(38)は、大洋の二軍打撃コーチに専任。巨人、阪急を経て五十六年から阪神の捕手だった笠間雄二(31)も二軍コーチとなった。近鉄一筋に十七年間活躍した小川亨(29)、脚力が売り物だった藤瀬史朗(31)、南海内野手の鐘井裕治(27)、中日投手の高橋三千丈(28)もコーチに。広島の上本孝一捕手(21)は審判へ。百八十度の変身を見せたのは巨人の外野手だった中井康之(30)と捕手の藤本貴久(22)。中井は十一月五日、東京都文京区に居酒屋「なかい」をオープンさせた。藤本はその店長。「夏ごろから準備を進めた。おかげさまで固定客もつきはじめた」とにこにこ顔の中井オーナー。同じように、飲食関係に進むのは、南海の北田嘉秀(22)、羽田広伸(22)のバッテリー、ヤクルトの後藤雄一投手(25)ら。近い将来の「開店」をめざして、すし店などで調理師の見習いに汗を流している。畑違いな分野に進む選手も多い。阪急、阪神で過ごした八木茂内野手(31)は電気関係、中日の正岡真二内野手(35)は事務職、日本ハムの和田博盛外野手(27)は印刷会社の営業、尾鼻晃吉捕手(20)は運送会社員、ロッテの佐藤薫(20)は縫製会社。新天地で花咲かせようと燃えている。しかし、ヤクルト(サンケイ)と巨人で十八年間投げた浅野啓司(35)らは「ただいま求職中」郷里へ帰って、再出発準備中の選手も多い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする