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南北朝(日本)時代と漫画家・車田正美先生の作品を瞑想する部屋。

【車漫】『風魔の小次郎』-誰か、《華悪崇》を知らないか-

2006年12月01日 17時08分58秒 | 車田正美

本宅の長編小説を推敲しています。
読みやすいように文を整理するのが目的で、ちと恥ずかしい表現もあるので、こっそり直してしまおう。そして続きを書こう。昼ドラです。

『風魔の小次郎』-誰か、《華悪崇》を知らないか-

『風魔の小次郎』は「夜叉篇」「聖剣戦争篇」「風魔叛乱篇」で構成され、なぎらはこれを「起・承・転」ととらえています。
「結」がなぁい。ケツは大事だ。
そのケツが気になって長編小説を起こしたのですが、書くにあたって《華悪崇(カオス)》の存在は不可欠。そこで、《華悪崇》の5W1Hです。

  • Who・・・・・誰
  • What・・・・何
  • When・・・・何時
  • Where・・・何処
  • Why・・・・・何故
  • How・・・・・どうやって

これは知りたいですね(なぎらの小説はでっちあげですから)。
原作を読むかぎり、《聖剣戦争》は突発事故のようなものであり、それ在りきで《華悪崇》が存在するのではないらしい。
彼らを人格としてよいのかどうかも曖昧。個人を超越したある意思の顕現ならば、そこに神格の匂いを感じます。権現か。

《秩序(コスモ)》と《華悪崇》を善悪で認識しようとするかぎり、《聖剣戦争》は終わりそうもない。
でも、小次郎にかかると「往生際が悪い!」で撃沈させられそうですね。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
な…なぎら さま。こんばんわ! (ろくや)
2006-12-02 02:23:46
な…なぎら さま。こんばんわ!
ろ…ろくや です(ドギマギ)

こちらでは初めまして でございます。
(先日は あ…ありがとうございました!!もう感涙…)

あれから、聖剣戦争って何だろう?って足りないオツム(笑)
でちょっと考えてみました。

神の意志としては、争いのない大地を実現させるために聖剣を作った
という話のようですが。。皮肉なことに それがすべての始まり。。。
聖剣あるかぎり、聖剣戦争も輪廻のごとく続いてしまうわけですね…

彼ら華悪崇は極悪非道な殺戮集団(うう…)とは言われておりますが、
神の意志をちゃんと(?)知っていたのは、華悪崇(皇帝)だったり
するのかなあ、と。
なるほど 華悪崇は その神の意志を知った上で この大地の為に
10本の聖剣をすべて手にしようとしたのかー と勝手に納得して
しまいました。。
(うわあ…風魔ソルジャースキー様から猛攻撃を受けそうだ
 アワワすいません…)

確かに、秩序と華悪崇の間には 善悪を超えた何かを感じます。

>神格の匂い
・・・ああ!華悪崇の皆さんにぴったりな言葉です////
(私、偏ってます…)

たまに、いろいろ考えすぎちゃうこともあるのですが、
そんなとき、小次郎君の「じゃかあしいーー!」って言葉が頭に
浮かんで、脳内を一掃してくれます(笑)

フフフ・・・小説 楽しみなのです。何てったって、
「彼」が生きてますから♪

何かワケのわからないコメントになってしまって
申し訳ないです(勉強不足)
とにかく、華悪崇はステキだと思いました
(ほんとに華悪崇スキーなゴメンナサイな奴です)

夜分 どうも失礼いたしましたm(_ _)mm(_ _)m
返信する
なぎらさま、おはようございます。 (きつね)
2006-12-02 09:46:45
なぎらさま、おはようございます。

華悪祟についての見解、興味深く拝見させていただきました。
難しいことはわからないのですが。。

「神格の匂い」という視点は面白いですね。
私としてはそれは同時に「エセの香り」の印象もあります。
選民意識とでもいうのかな。
「輪廻」「宿命」なんてコトバには強くそれを感じます。
小次郎や武蔵が罵倒するのはまさにその部分であったのではないかと。。

何度か読み返しているときに思ったのですが。
聖地での戦いって、大義と行動が十字軍遠征に似ている気がする。
華悪祟とコスモ、どちらも十字軍になり得そうです。
神の「聖剣による治世」という意思は「エンドレスな聖剣戦争」と表裏一体のものだったようにも思えます。

「ケツ」は大事です。
暗殺帖にそれが見られるかと期待しているのですが。
小次郎には思い切り「正義」のケツをひっぱたいてほしいですね。
(武蔵の参加も切望しております。。)
返信する
ろくや様 (なぎら)
2006-12-04 15:34:19
ろくや様

こちらでは初めまして。いつも拙宅へ足を運んでくださりありがとうございます。

>聖剣戦争って何だろう?
これを考え始めると『風魔の小次郎』における「神」とはなんぞや? という疑問に直面します。
聖剣は「大地の邪悪を打ち静めるために」(JC5巻)生まれたもの。その究極の目的は「争いのない大地」である、とろくやさんは解釈されたのですね。
神はどうやら、大地に邪悪が在り得ることを前提にしている。
そして《華悪崇》の方が己の理想を実現する好機として《聖剣戦争》を肯定していた。
よって、《聖剣戦争》とは「大地にとって何が邪悪なのか」を人の手によって決する戦いだったのではないでしょうか。
少なくとも華悪崇皇帝はそれを自覚していたように思います。「国家」を謳うからには、その後の大地の行方も背負う覚悟があったのでしょう(そうでなければ死んだ者が浮かばれませんからね(^^;))。
これは決着がつかないでしょうねえ・・・4000年もかかりますわな。何が邪悪なのか、は個々の価値観ですから。
で、同じように「いろいろ考えすぎちゃう」のですが、そんな時はあれです、

(小次郎)「じゃっかましぃいいぃ!」(御託はいいんだよ!・・・俺、よくわかんないから)

袋小路を打破する名言(?)です。『柳生暗殺帖』でもこの勢いなので、ご一緒に見守ってまいりましょう。
華悪崇スキー様よりの嬉しいお言葉、ありがとうございました(^^〃)。またよろしくお願い申し上げます。
返信する
きつね様 (なぎら)
2006-12-04 19:37:03
きつね様

こんばんは。お待たせいたしました(^^;)ゞ。《華悪崇》に接する機会があまりないので、コメントを寄せてくださり嬉しく思います。

>神の「聖剣による治世」
聖剣によるべきかどうかは別として、「神の治世」とは「超越した存在による統治(ある程度の関与)を人が期待する世」を指す、と考えてもよろしいでしょうか(異見の場合はご指摘ください)。

-大地に光なし
-されど
-天に我あるがごとく
-地に十本の聖剣あり
-その聖剣の力 我にひとしく

「聖剣=神」ではなく、その力が神に等しいのであって、手にして振るったからといって人が神になるわけではありません。《秩序》も《華悪崇》もそれは云わずもがなだったようで、彼らは神を騙らず、「人として」聖剣の扱いに非常に能動的でした。
で、華悪崇皇帝の動機ですが、『SILENT KNIGHT 翔』に登場するイーグルのアーサーに近い心情ではなかったか、となぎらは想像しております。「人の世は人がなんとかしよう」という意志です。
ところが、危機感のせいかあまりにも急進的だったため、反発から悲劇が繰り返され、聖地に立つ最後の1人となった小次郎からある言葉を引き出す結果となりました。

「こんなものがあるから闘いが生まれ、闘いが絶えることはなかったのだ」(JC9巻)

正直なところ、これは「敗北宣言」だと思います。
聖剣があったから《聖剣戦争》が始まった、というのは「そこに自動車があったので乗ったら、人を轢いた」という考えに似て、自らをどうすることもできない人の未熟、愚かさを認めたことになるからです。
だから、時として人は神を求めたくなるのでしょう。保証や罵倒の対象として。それが「エセ」でも。
この弱さを受け入れることが必要だった、という意味で、なぎらは《華悪崇》に「神格の匂いを感じる」と書きました。
しかし、悔しい。このままで終わりたくない。
小次郎はきっと、「風魔内戦」「鬼面党事変」でこの未熟さ、愚かさを体験して変わったのだと思います。彼のもっとも大切な部分を除いて。
その彼が『柳生暗殺帖』で、ついに神と対峙しようとしている。
どん底から這い上がってきた人の力を見せてくれ、と祈るばかりです。その小次郎のケツをたたくのは、彼にとって運命の人・武蔵かもしれませんね(^^〃)。ケツ末やいかに。
きつねさんのご意見がなければ、このように考察することもなかったでしょう。本当にありがとうございました。連載の再開が楽しみですね。
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