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南北朝(日本)時代と漫画家・車田正美先生の作品を瞑想する部屋。

【楠正儀】「楠三代」について考える(2)-正成(1)-

2008年05月04日 14時04分03秒 | 楠正儀
  • 永仁02(1294)年04月25日:楠正成、生まれる。

彼が生まれた日を、『大楠公恩師滝覚御房史蹟』は観心寺古伝により同年4月27日としているそうです。でも、

楠木正成の討死は朝廷にとっては実に大きな損失であり、天皇の御追惜かぎりなく、延元二(1337)年南木明神の神号と神像を下された。建水分神社の境内にまつり、南木神社と呼んで郷士の人々は、まつりつづけている。(神社由緒記)春四月二十五日を近郷幾十の村落では「楠木さん」と呼び南木神社のお祭に参詣する。この日は楠公さんの誕生日と伝え、一般に農を休み「よもぎ餅」をつくって春の一日を楽しく暮す。

『河南町誌』第二編

《神事》[例祭]

四月二十五日(くすのきさん)大楠公の生誕日。午後四時頃に餅まきがある。

(建水分神社の参拝案内より)

とあるので、氏子の方々を信じて「25日」とします。

『尊卑分脈(橘氏系図)』

正遠の子。大夫判官。摂津河内守。多門兵衛尉。建武三年丙戌二十五於兵庫湊川自害。

『群書類従(楠氏系図)』

正康の子。河内判官。

『系図纂要(橘氏系図)』

正澄の子。母信貴阿門律師金剛別当橘盛仲女。永仁二年生。小名多門丸。後称多門兵衛。延慶二年二ノ十三元服。拠千剣破赤坂両城元弘元年八ノ二十八広徴参上笠置即日叙正五位下任。右兵衛大尉補検非違使称河内新判官。同四年六ノ一賜摂河泉三州守護職。延元元年五ノ二十五於摂州湊川与足利尊氏戦兄弟一族十三人兵士六十余人於広厳宝禅寺自害年四十六、号霊光寺大円義竜卍堂。詔贈正三位左近衛中将。祟南木大明神。

例によってまちまちな系図。生年も定かではありません。これはほんの、なぎらの手許にある資料で探したらもっと出てくるでしょう。ははは。

従五位上楠正玄嫡男俊親、二男大夫判官摂津河内守・多門兵衛尉正成、三男和田和泉守七郎正氏也。

『高槻町全誌』

  • 元弘元/元徳03(1331)年:悪党楠兵衛尉、臨川寺(※01)領の若松荘(※02)を押妨。

※01:京都府京都市右京区嵯峨天竜寺造路町。世良親王「川端別業」跡。
※02:大阪府堺市。

この記事は楠一族を調べたことのある方ならご存知かと思います(正慶元(1332)年六月日「故大宰帥世良親王家御遺領等目録」/『天龍寺文書』)。正成が挙兵前に兵粮を調達した、という推理も当たっているのではないかと。
その前後に。

  • 元弘元/元徳03(1331)年:楠正成、和泉の穴師神社(※03)に石燈籠一基を奉献。

泉穴師神社(1997年10月16日撮影) 元弘元年摂河泉の守楠正成公兵を挙ぐるに当り、国家安寧武運長久を祈り当社に石燈籠一基を奉献して居りまして、現に本殿広前に建って居り、其の形まことに古雅であります。

『泉穴師神社由緒』

祭神は二柱で、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)。

楠木社 祭神 楠木正成公(1997年10月16日撮影) 天忍穂耳尊はいくさのカミサマなので、明らかに戦勝祈願です。石燈籠は風化し、刻まれたはずの由緒は読むことができませんでした。奉献の縁からか、境内には楠木社もあります。
笠置山で「南木」の夢を見た後醍醐帝に召し出される前、彼はすでにやる気満々だったのでは。
どうしてこの件が引っかかるのか。
うーっと過ごすうちにやっと思い至りました。南朝と所縁(ゆかり)の深い吉野山の勝手神社(※04)が 天忍穂耳尊を祀っていた。それそれ。
※03:泉穴師神社(大阪府泉大津市豊中町)。
※04:奈良県吉野郡吉野町。不審火により焼失(2001年09月27日)。

もうひとつ。「楠木家氏神」の建水分神社(※05)には、
楠正成奉献の石燈籠(1997年10月16日撮影)

  • 本殿:天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
  • 左殿:天水分神(あめのみくまりのかみ)、罔象女神(みつはめのかみ)
  • 右殿:国水分神(くにのみくまりのかみ)、瀬織津姫(せおりつひめ)

が祀られており、

天照大神
     ∥―――
天忍穂耳尊
瀬織津姫       
   ∥
                 栲幡千々姫命

という情報を得ました。
※05:大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分。

八幡社で拍手を打つ正成、というのはぴんと来ない。
ご利益のある“軍神”ならどのカミサマでもよかったわけではなく、正成は祖神に戦勝を祈願したのではないでしょうか。このことは「葛木」と関連があるかもしれません。

左から(1997年10月16日撮影) 右から(1997年10月16日撮影)

これほどまでに覚悟して挙兵した正成。真意はどこにあったのか。
彼の事蹟は多くの研究が為されており、それらをまとめるだけなら典拠に当たる方がよっぽど勉強になると思いますので、ここからは、それをしてなぎらの首を南北朝(日本)時代へ突っ込ませた動機をもって進めます。

なぜ『太平記』は存在するのか。これが動機です。

(続く)

参考文献:
『門真市史』第二巻
『楠木正成のすべて』(新人物往来社)
『太平記の群像』(森茂暁/角川選書)
『千早赤阪の史跡』(千早赤阪楠公史跡保存会)


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