フィリピンは外国人に対し、安易にお金を稼げる。
このような風潮がいまだに残っている。
外国人を見たら手を出す。
手を出し恵んでくれた外国人が首都圏はじめフィリピン国内から消え去るように少なくなった。
コロナの影響で、外国人相手のブガウ達の稼ぎ相手が皆無になってしまったマラテ、マビーニ界隈。
惨憺たるものである。このような表現が正しいと感じる2020年。
界隈のブガウ(ポン引きの意味です)の稼ぎで一番大きな手数料は売春斡旋。特にマラテマビーニ界隈の歴史は古い。
1970年頃からのマビーニ界隈、特にディルピラー通りは「不夜城」と言われ、GOGOバーが林立。
早朝まで買春目的の外国人で溢れかえっていた。
1992年マニラ市のリム市長(当時)が、市内のゴーゴーバを一掃する「浄化キャンペーン」を開始
あっというまに灯が消えた。
当時、マカティは発展を開始した時期であったが多少小さなカラオケはあったが、遊興施設などのない時代で、
多くのビジネスマンはこぞってマビーニへ集結遊びまくっていた時代。
1980年代のマビーニマラテは多くの日本人はじめ外国人はラマダホテルへ宿泊していた。
歓楽街のど真ん中の好立地でもあった。記憶が薄いが確か一泊8000円くらいだった。
当時の両替は1万円で1200ペソ位だった。1ペソ8円から9円くらいで推移していた記憶がある。
ペソレートも20円から一気に8円台へ下がった時期でもある。
ディルピラーのGOGOバーのバーファインは300ペソから高い店で500ペソ位だった。
買春費用はショートで500ペソから600ペソくらいだった。
ラマダホテルのラウンジの奥にもGOGOバーが併設されていて、エントランスのソファーに
多くのおねーちゃんがいた。つまり流しの売春婦軍団であった。
アメリカ人宿泊客が多いホテルで、ターゲットはアメリカ人だったかも。
ロハスブリアード、パサイの民家街、マカティの3軒の置屋、ケソンボリバードのショーシアター、
中でもおねーちゃん数で圧倒していたのがパサイのミスユニバース。二階の個室もあり
とにかく凄まじい外国人で溢れ、絶えずステージには素っ裸に背番号をつけたおねーちゃんが
2、30人くらい踊りモデリングを行い客を求めていた。
ここもバーファインや料金は似たようなもの。
おねーちゃんを選ぶのは、ままと称するスタッフと一緒にガラス越しに覗き選んでいたが、
雛壇には一室100人以上が並んでいた。
買春の街マビーニマラテ。
この当時のブガウで客の多い者は車を購入、空港までの送迎も始めていた。
当時は、観光で入国した場合に5日間の滞在が可能。もちろん更新もできたが
法外な費用を詐取されていてもすぐに更新できる手段を選んだ日本人は当時からカモ
だったのかもしれない。
代表的なブガウが、ラスパルマスホテル隣にあった置屋のMR.ボーイだったかもしれない。
a-mabini通りにも結構なバーがあった。当然、全て持ち帰りができた。
マラテ界隈で一番おねーちゃんがいたのは置屋サンパキータで、午後8時過ぎにはほとんど
ソルドアウトになるほど、結構な美人が揃っていた。パンパンガ方面の色白が多かった記憶がある。
年々灯が消え、今では多くが日本カラオケ。
イロ街(例え方が悪くすみません)として大きく栄えたマニラ。
今年のコロナで壊滅的な打撃を受けたこの界隈。再起もなかなか難しいと思う。
この15年くらいはL.Aカフェの回春足が多くなってきていますが、現在も3000ぺそくらいから
交渉次第。
思うには、マニラの人間の買春費用価値観は1980年くらいから止まっているのかもしれない。
むしろ時代が経過安くなっている。
今でもマラテマビーニ界隈に、当時からラスパルマスホテル入り口を縄張りにするブガウをしている
ネストーがただ一人現存する。
当時は、金をいくら使っても使い切れなかった。が、時代とともに現在は家もなく、軒下で生活、
運良く客を拾えたら木賃宿で宿泊シャワーをしているとか。
でもマラテマビーニ、特にデイィルピラー通り界隈リム市長が掲げた政策、ビジネス街へ発展と言っていたのだが
ほとんど変わっていない。
昔を省みると、韓国の金銭で大騒ぎ後、台湾へ。酒家で豪遊して、最終目的地マニラ。
韓国、台湾と比較半分以下で遊べたような記憶が蘇ってくる。
ローカルプライスはいまだに変更されてませんねw
現在の為替は2.1から2.3位で推移していると思います。
当時は20円から16円くらいでしたので、結構お金がかかったフィリピンです。でも全く為替換算すると変わらない金額がこれだけ長く続いています。生活がきつくなるのは当然なのかもしれません。
コメントありがとうございます。