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フィリピン国旗の歴史17

2024-06-30 | フィリピンの歴史

米比戦争

1899年1月22日にマロロスで第一フィリピン共和国が樹立されると、その自治体はフィリピン共和国の政府所在地となり、

2月4日の第二次マニラ戦争でアメリカ軍とフィリピン軍の間で敵対行為が勃発した時もその役目を果たしていた。

1899年2月4日、米西戦争の終結後にマニラを占領していたアメリカ軍とフィリピン共和国軍の間で武力衝突が勃発した。

その日、アギナルド大統領は「戦争法で定められた範囲内で、アメリカ人との平和と友好関係を破棄し、アメリカ人を

敵として扱う」ことを命じる布告を出した。

戦闘は急速に第二次マニラ戦争へとエスカレートし、フィリピン共和国軍はマニラから追い出された。

戦闘勃発後、マニラから北進したアメリカ軍は2月10日にカロオカンを占領した。

 3月29日、アメリカ軍がマロロスを脅かすと、政府所在地はヌエバ・エシハ州サン・イシドロに移った。

3月31日、アメリカ軍はフィリピン共和国政府の当初の所在地であったマロロスを占領したが、

撤退するフィリピン共和国軍が放った火によって全焼していた。

エミリオ・アギナルドと革命政府の中核は、その時までにはヌエバ・エシハ州サン・イシドロに移っていた。

1899年4月から5月の短い停戦中にアメリカのシュールマン委員会との和平交渉は失敗に終わり、

5月16日、サン・イシドロはアメリカ軍の手に落ちた。

フィリピン共和国の中核政府はその時までにはタルラック州バンバンに移転し、その後タルラックの町に移転した。

アギナルド一行は、11月13日にアメリカ軍が占領した時点では、フィリピン共和国最後の首都タルラックを

すでに出発していた。

 

アメリカ軍は4月27日にブラカン州カルンピットを占領し、北上しながら5月4日にはほとんど抵抗なく

パンパンガ州アパリットを、5月5日にはパンパンガ州サンフェルナンドを占領した。

これにより、軍事情勢の要求に応じて政権の座を移さざるを得なくなった。

 

1899 年 10 月、アメリカ軍はパンパンガ州サンフェルナンドにあり、フィリピン共和国の本部はそこから

遠く離れていないアンヘレス市にあった。

10月12日、アメリカ軍の北方攻撃により、フィリピン共和国は11月に本拠地をタルラックに移転し、

その後パンガシナン州バヤンバンに移転することを余儀なくされた。

11月13日、アメリカ軍の攻撃を受けて、アギナルドと一行はバヤンバンを鉄道でカラシャオに向けて出発し、

そこからすぐにアメリカ軍の追撃を避けるために東に向かってサンタ・バーバラに向かった。

そこで彼らは、グレゴリオ・デル・ピラール将軍が率いる約1200人の武装勢力に加わった。

 

アギナルドは11月13日のバヤンバンでの会議で、軍隊を分散させてゲリラ戦を開始することを決定した。

その時点から、距離と戦闘の局所的な性質により、彼は革命や軍事作戦に強い影響力を行使することができなくなった。

アメリカ軍が東への逃走を阻止したことを認識し、11月15日に北と西に向きを変え、山を越えてラウニオン州に入った。

アギナルドの一行はアメリカ軍の追撃を逃れ、山岳州サガダ近くのティラド峠を通過し、12月2日にアメリカ軍の進軍を

遅らせ確実に逃走するための後衛行動としてティラド峠の戦いが行われた。戦

闘当時、アギナルドとその一行は峠から約10km南にあるセルバンテスで野営していた。

騎手から戦闘の結果とデル・ピラールの死を知らされた後、アギナルドは陣営の破壊を命じ、一行とともに

カヤン入植地に向けて出発した。

デル・ピラールの部隊とともに旅していたアギナルドの一行は11月15日にパンガシナン州マナオアグに到着した。

そこで部隊は前衛と後衛に分かれ、アギナルドとデル・ピラールが前衛となった。

前衛部隊はラ・ウニオンのトゥバオで一晩宿泊し、11月16日にそこを出発し、 11月19日までにラ・ウニオンの

ナギリアンに到着し、そこでアメリカ軍がサント・トーマスを占領し、アリンゲイに進軍したという知らせを受けた。

アギナルドの部隊は11月19日にラ・ウニオンのバラオアンに到着し、翌日進撃し、11月23日に自然の難所である

ティラド峠に到着した。

デル・ピラール将軍はアメリカ軍の追撃を遅らせるためにティラド峠に阻止部隊を置くことを決定した。

アギナルドの一行が先に進む間、部隊は前進した。

 

ティラド峠の戦いは1899年12月2日に起こった。

ピラール率いる60名の部隊のうち、ピラール自身を含む52名が死亡した。

しかし、ピラール指揮下のフィリピン軍はアメリカ軍を食い止め、アギナルド隊は脱出に成功した。

アギナルドは、峠の南約10kmのイロコス・スル州セルバンテスで部隊と共に野営し、騎手から戦いの結果を知らされ、

進軍を続けた。

部隊は12月7日にバナーヌの集落に到着し、アギナルドはそこで今後の計画を検討するために立ち止まった。

12月16日、部隊はマヌエル・ティニオ将軍と合流するためアブラに向けて出発した。

部隊はポリス山の頂上にある峠を徒歩で通過し、翌朝アンバユアンに到着した。

部隊はアメリカ軍に追われながらバナーヌへと進んだ。

この時点で、アギナルドの隊は1人の野戦将校、11人の前線将校、107人の兵士で構成されていた。

1899年12月の残りの期間は継続的な旅に費やされた。

 

1900年3月23日、アギナルドの31歳の誕生日に、一行はアブラ州とカガヤン州の境界にいた。

各地を転々とする行軍は、1900年5月22日頃まで続き、その頃アギナルドはティエラ・ビルゲンに新しい本部を設立した。

1900年8月27日、アメリカ軍がカガヤン州アパリに上陸した後、アギナルドはティエラ・ビルゲンは本部としては

不適切であると判断し、イサベラ州パラナンへ行軍することを決めた。

1900年12月6日、一行はドゥマサリに到着し、翌朝パラナンに到着した。

アギナルドは、1901年3月23日に先住民の偵察兵の援助を受けてアメリカ軍に捕らえられるまでパラナンに留まった。

捕らえられた後、アギナルドは1901年4月1日にアメリカへの忠誠を表明し、第一共和制と正式に終結した。

フィリピンに対する米国の主権を認める。

アメリカ軍とフィリピン革命軍の残党との戦闘は、1902年4月16日にミゲル・マルバー将軍が降伏するまで続いた。

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