フィリピンりぱぶりっく狂笑国

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2024-02-28 | フィリピン

不夜城

首都圏マニラを訪れる多くの買春観光客は、現在のロビンソンデパートにあったラマダHotel(のちミッドタウンで閉館)あるいは、ハリソンプラザにあったシェラトンが定宿。また、マラテ地区の安ホテルを定宿としていた。

当時は、無査証で7日間だったと記憶している。滞在日数も3泊4日くらいが多かった。

ダコタマンション、リビエラマンション、マビーニマンション、ラス・パルマスHotel、ボリバードマンションなどの安宿にも多くの日本人や中東人が滞在、夜な夜な不夜城で売春婦と遊びほけていた時代である。

朝方6時くらいまで、とにかく賑わい「不夜城」と言われた所以でもある。

赤枠で囲まれた部分を一周するのに要する時間。車でおおよそ10分間。

1982年当時、この一帯を車で通過するのに1時間半から2時間要した。

当時のタクシーは3倍払っても嫌がる大渋滞地区であった。

凄まじい渋滞。そして爆音をけたたましくあげながら走るジプニー。オイル臭とゴミ特有の匂いが漂う一本通り。この両側に連れ出し専門のバーファインが軒を連ねて並んでいた。

6時を過ぎた頃、ケバケバしい化粧、如何わしい洋服を着た売春婦たちが、ジプニーから降り立ち店へ入り始める。

店に一斉にネオンがギラギラと灯り始めると爆音が鳴り響く。

7時過ぎには、各道路は大渋滞、摩訶不思議なハーモニーとなる。つまり時代遅れの爆音音楽と車のクラクション。そこをかき分け目指すのがバーファインバーやポールダンスバー。

白人、中近東の客が非常に多く、日本人は買春観光ツアーや、フィリピンクラブができ始めた当時でもあり、プロモーターと称するフィリピン人女性呼び屋もクラブオーナーを連れ通う姿が多く見られた。

不夜城と称されるディルピラー通りは全てが売春専門のバーファインバーやポールダンスバー。

連れ出しのバーファインが150ペソくらい。女性の回春料金が300ペソくらいだったと記憶している。

Aマビーニ通りには、カラオケの他、サンパキータと言うマビーニ最大いやフィリピン最大の置屋があり、常時200名くらいの売春婦がいた。

名目はショーハウスもしくはカラオケ風の置屋。

セブンスター、カルティダンヒル(この3店舗は軒を並べていた)マビーニ、マラテ界隈には売春宿が立ち並び買春客であふれていた。

置屋は時代ともに淘汰され、売買春形態が大きく変化した頃でもある。

そして当時カラオケでありながら売春をしない店「スポーツマンクラブ」があった。

現在のボコボ通りとマルバーの交差点付近であった。

ホステスは、タレントと称し、日本の在留資格「興行」の査証を利用し渡航を希望する女性が100名ほど住み込みで働いていたようだ。店の多くの客は日本人のプロモーターと称する呼び屋が多かった。各テーブルへ女性をはびこらせ深夜まで飲みほけていた。

当時は、最高紙幣が100ペソ。1ペソが20円くらいで、カラオケで支払う金額が2500ペソから4000ペソ。当時の銀座のクラブより高かった。

タレントを送り出すエージェンシーが経営する訓練を兼ねたカラオケ。後々、マニラ市会議員になったウイリーの経営する店であった。

当時のラマダホテル(のちミッドタウンホテル)から徒歩圏内にあり、呼びやと称する日本人が通い詰めた唯一のカラオケ店であった。

写真:現在のディルピラー通り。町並みは40年経過した今でもあまり代わり映えしていない。

 

マニラミッドタウンホテル

不夜城と言われたマビーニマラテ界隈の買春ツアーの定宿と言われたマニラミッドタウンホテル。旧名ラマダホテルである。

このホテルはロビーに5、60人の売春婦がスタンバイしていた。

エントランスのボーイと売春婦が結託、私設エントランス料金もしくは売春報酬からのチップを得てロビーへ通していた。

エントランスを入って右側にラウンジがあって、その奥がディスコ。つまり売春婦の巣であった。

ホテルだけに身なりの良い売春婦がおおかった。

マニラの中心地としては料金も安く、日本レストランやスイミングプールもあり、歓楽街に近いこともあり繁盛していたホテルである。このホテル裏にあるシーフードマーケットへ売春婦と一緒に食事に出かける日本人客が多かった。

 

客がチェックインするとラウンジでウエルカムドリンクなどが供され、部屋へ案内されるのを待つ。すぐに売春婦が近寄ってきて部屋番号を尋ねる。

売春料金はさほど高くなく、窃盗などを起こせばホテルへ入れなくなる規則のようでわりと安全に遊べたホテルである。

ホテルのエントランスのガードは界隈のホテルと比較、日本語の堪能なガードが多かった。

夜になると、時間に関係なく深夜まで売春婦斡旋の電話がなった。なんとなく聞き慣れた声の男性が日本語で「女いるか」「250ペソだけ」との案内電話が頻繁にかかってきた。そして、日本人滞在ルーム番号は売春婦へ即情報が流れていた。

交渉成立すれば非番のガードマンが部屋まで連れてきた。

事情通の間では、マニラの買春ホテルと揶揄されていた頃である。

このホテルの後方に小さなロビンソンスーパーマーケットがあった。

ホテルの二階にあった日本食堂の脇にあったせまい通路からスーパーマーケットまで連絡通路があり、直接出入りができた。

この便利な通路先にパデラファウラ通りがあり、小さな置屋が並んでいて、ホテル通路入り口でブガウが大活躍していた。ホテルはまるで売春宿という風評が広がったのと、マカティの発展で綺麗なホテルが立ち並び、ミッドタウンホテルにも陰りが見えてきたこと。ホテル前の駐車場は雨が降ると大洪水が起こり、身動きが取れなくなることも多く、ゴコンウエイ系不動産開発ロビンソンズ・ランドは2003年5月いっぱいでホテルを閉館した。ホテルは解体され、その跡地に現在のロビンソンデパートが建設された。

閉館後、解体が始まったミッドタウンホテル。

雇用者による未払い賃金のストライキが延々と続いていた。

現在は、ロビンソンマニラのメインエントランス。隣にはAdriatico place高層マンションが建ち並んでいる。

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