☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神想観によってあなたの健康を

2014-03-13 00:00:18 | 今日の光明法語


人間の実相は本来完全であるという真理の前提に立って、その本来の健康をあらわすためには、

やはり、その実相の完全さを心に描いて、それを凝視し、礼拝し感謝するがよいのである。


病気を“みとめて”、それを治そうとして、単に、「 手段 」のために「 完全さ 」を心に描いて

礼拝しても、「 人間は不完全で、病気になる 」という前提が、心の奥ふかくつかまれているならば、

心の奥ふかくつかまれている想念の姿が、形の世界にあらわれるのであるから、

「 人間本来病むべきもの 」という迷いの観念を 心から放してしまうことが 先ず 必要なのである。


それが即ち 神想観の最初の“ 唱(とな)え言(ごと)”「 われ今、五官の世界を去って

実相の世界にいる 」である。


心が五官の世界を去ったら、「 人間本来病むべきもの 」という現象界の前提がなくなる訳である。




『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号

「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 五日の法語  谷口雅春先生





子供を優良にするには

2014-03-12 00:00:18 | 今日の光明法語


実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、

その円満完全さは観じて礼拝することによって現実となるのであるという方法論を


生活に応用すれば、生活が裕かになり、教育に応用すれば子供が良くなり、

治病に応用すれば、健康が増進するのである。


神想観の姿勢をとり、合掌瞑目して、自分の子供が既に円満完全であるところの

理想的姿を眼瞼(まぶた)の裏に描いて、それをジッと見詰めながら、

“ ありがとうございます。私の良い子よ ” と念じて礼拝し感謝するがよい。


この行事を毎日つづけるならば、あなたの子供の完全なる実相が現実化して、

本当に優良な子供になって来るであろう。


但し、「 この子は、“ どうも不良であるから ”、こうしてその不良を治すのだ 」 などと

考えてはならない。


「 不良である 」 という前提を深く信念に握っている限り、

その信念が現実化するから不良が治らないのである。


「 この子は、神の子であって、本来も、今も既に完全である 」 と見立てて、

礼拝し感謝するのでなければならない。




『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号

「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 四日の法語  谷口雅春先生






実相の完全さを礼拝せよ

2014-03-11 00:00:18 | 今日の光明法語


万物に内在する絶対価値を見出すには、浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、

心を引っかからせてはならないのである。


浮動変化して常なき有様が ー 時には現象の表面に不完全な様相をあらわすような事があっても、

それは唯、外見であって、内には完全円満な“ 如来 ”を蔵するものである。


その内に埋没せる“ 如来 ”は、外面の不完全さのみを見ていては 現れて来ないのである。


どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、

実相の完全さを見るとき、それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、

“ 内在の如来 ”の完全さがあらわれて来るのである。



『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号

「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 三日の法語  谷口雅春先生




天地の万物一切に絶対価値を見出すこと

2014-03-10 00:00:18 | 今日の光明法語


「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、「 有情(うじょう)・非情(ひじょう)

同時成道(どうじじょうどう)」 の悟りに連るのである。


自分だけが“ 独尊 ”であって、他のものは悉く自分より下等なものであるというような

“ 自己 ”中心的な“ 他個 ” 軽蔑的なものの考え方は凡そ悟りから遠いものなのである。


“ 有情 ” 即ち “ 情(こころ)あるもの ” も

“ 非情 ” 即ち “ 情(こころ)なきもの ”( 無機物 ) に至るまでも悉く、

同時に“ 道 ” の現成であるということが「 有情・非情同時成道 」 である。


“ 道( コトバ ) ” は天地に満つる “ 法 ” であり、

「 太始( はじめ )に道( コトバ )あり 」( ヨハネ伝 )の“ 道( コトバ )”であり、

“ 仏性 ”であり、“ 法身の如来 ”であり、天地の理法であり、“ 神 ”である。


かくして、有情・非情を“ 法身の如来 ” がそこに姿を顕わされたものであるとして見るとき、

天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢(ごうまん)のかげもなく、

その独尊の絶対価値を 天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。



『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号

「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 二日の法語  谷口雅春先生




天上天下唯我独尊の自覚

2014-03-09 17:16:27 | 今日の光明法語


正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅(にれんぜん)河畔(かはん)で迷いを去って

悟りをひらかれた時のように「 天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」 と

知ることであり、


キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り、

「 われ神の子 」 と宣告されたように、


あなたも亦(また)、「 われ神の子、天上天下唯我独尊 」 と悟ることなのである。


この「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、決して、利己主義でも個人主義でもないのである。


自己( 自個 )の内に“ 独尊 ”の絶対価値をみとめるとき、

はじめて“ 他個 ”の中にもある“ 独尊 ”の絶対価値を見ることが出来るのである。


自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、どうして“ 他個 ”のうちに絶対価値をみとめて、

それを礼拝することができるのであろうか。



『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号

「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 一日の法語  谷口雅春先生




霊的覚醒への道

2014-03-06 21:38:24 | 今日の光明法語


『 われ振反りて我に語る声を見んとし、振反り見れば七つの金の燈台あり。

また燈台の間に人の子のごとき者ありて足まで垂るる衣を著、胸に金の帯を束ね、

その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は

炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆くの水の声のごとし。

その右の手に七つの星を持ちその口より両刃の利き剣いで、その顔は烈しく照る日の

ごとし。我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり。

彼その右の手を我に按きて言い給う。

「懼るな、我は最先なり、最後なり、活ける者なり。われ曾て死にたりしが、

視よ世々限りなく生く。また死と陰府との鍵を有てり。されば汝が見しことと今あることと、

後に成らんとする事とを録せ。

即ち 汝が見しところの我が右の手にある七つの星と七つの金の燈台との奥義なり。

七つの星は七つの教会の使いにして、七つの燈台は七つの教会なり。」』

(『黙示録』第一章第十二節―二十節)



これは、パトモス島に流されたヨハネが、祈りの中で久遠に生ける神を仰ぎ、その霊威に打たれ、

そこにひれ伏した霊的感動が記された美しい一節である。


或る熱心な信徒の方から、この一文が、どうして『生命の實相』の第一巻の、

本扉の次の本文の巻頭におかれてあるかという質問があった。

まことに深い霊的洞察である。


ここには谷口雅春先生の神に向われる聖なる御姿が示されているように思われる。

生長の家の人類光明化運動の現象界への出現は、谷口雅春先生が昭和四年十二月十三日、

住吉大神から啓示を受けられた時から始まった。


その生ける神にふれられた時の魂の震撼(しんかん)は、まさしくヨハネの如く

「死にたる者のごとくなる」ほどの心霊の一大体験であられたものと思われる。


爾来(じらい)、今日まで谷口雅春先生は今世紀の偉大なる人類の霊的指導者として、

霊的覚醒の道をひたすらに歩まれ、人類の魂の覚醒の道を伝え、

人類を神たり仏たらしめる人類聖化運動の先端に立って、今日を迎えられたのである。


谷口雅春先生を通して神示を人類に示された生ける神は、今、龍宮住吉本宮に御顕斎されて

いるのである。


その生ける神の霊威と生ける神の御言葉なる神示を「死にたる者のごとくなる」ほどの、

自己滅却と魂の感動をもって受けるところから、私たちの大いなる霊的覚醒が始まるのである。


          『 生長の家 』 誌 昭和五十六年二月号




“西洋式”の名の下に、葬られた大事なこと、それは生長の家が日本という国に出現した意義である

2014-03-02 10:10:56 | 今日の光明法語


『立教85年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典 ライブ配信』の映像を
パソコンで見ました。

顕斎殿の壇上の『実相軸』の前で、外履きの靴をはいたまま、式典が執り行われましたが
違和感を覚えなかったのだろうか。

今、各県の教化部で新しい建物は、玄関や廊下は外履きのまま通れるようですが、室内に入るときは、廊下の下駄箱に靴を入れるようになっているところが多いのではないでしょうか。

あなたは、各教区の教化部の道場の『実相軸』の前の壇上を外履きの靴をはいたまま、登壇して歩けますか。

あなたが教化部長なら、信徒の方に、『実相軸』が掲げられた壇上に外履きの靴のまま、登壇するように指示できますか。

違和感を覚えるのではないでしょうか。今回、そのようなことが“西洋式”の名の下に行われたのです。

受賞者の中で、お一人の方が都合により欠席されたことが、心の救いになっております。