明日の朝も、今朝のように、目覚めると思っているのか。
今日も、昨日のように、「ただいま」と帰宅すると思っているのか。
その通りとは思うが、その確証は、脆弱なものでしかない。
目を閉じ、深く息を吸い込み、長く、少しづつ、肺胞内の空気を吐出する。
聴覚も、自ら鼓動する心音も、皮膚の感覚も、本来自由に動く指先も、意識的にゼロ化させていく。
意識だけが自分自身であると錯覚する世界を、自らの意識のチカラで体験する。
そして、その意識が存在しない世界。
死、だ。
神の言葉も、自らの記憶のその前の存在も、未来もソコには、ない。
その先は、ないのだ。
そして、この状態は、いつ何時自分に、訪れるかは、わからない。
あと、5分後かも知れない。
若い頃、この世界の存在は全て自分のものだと思っていたし、自分のために存在すると思っていた。しかし、それは自らの存在を正当化するための自己欺瞞でしか、ない。表裏が逆だった。
人は、存在そのものが、その存在意義に他ならない。
亡骸と言う概念は存在しえない。それは、ただの物体に過ぎない。彼の存在の痕跡そのものではあるが、そこに、彼はいない。彼がいないことは、彼にとって何も意味がないことなのだ。
思いやりと愛情を持って接していた、あの人も、そのようにして、死んだ。今は、いない。
そして、それは、自分にもやってくるものなのだ。今、自分自身の、この人体で感じていることも、いつか、なくなる。
今、自分が存在しているうちに、やらねばならぬことは、多い。