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絵じゃないかおじさんぐるーぷ
平成の初めの頃。
* 霧乃さんは一人暮らし
2月の始めのことだった。
霧乃さんは困ったような顔をしていた。
僕には、ぴんと来た。
顔つきで、悩み事はすぐに伝わるのだ。
父親がカナダに転勤になるということだった。
彼女には小学校6年の弟がいる。
5月には、母親とその弟も、
商社勤めの父親の元に行くゆくそうである。
彼女は、日本に居て、
こちらの大学で学びたいという希望を持っている。
両親は、二人とも九州の出身なので、
こちらに親しい知り合いはないという。
そのため一人で生活しなければ、
ならなくなりそうだとも言っていた。
一人暮らしの事を真剣に尋ねられた。
僕は一人暮らしでは、先輩でもあるので色々と教えて上げた。
実際こういうものは、
経験しないと分からない事が多いものである。
しばらく、彼女の憂欝そうな顔が続いたが、
1週間もすれば、落ち着いてきたようだった。
心がまえも出来てきたのだろう。
4月の中ごろには、彼女の下宿も決まった。
タバコ屋さんの二階の6畳の部屋を借りることにしたそうだ。
家賃は2食付きで、3万8千円と言っていた。
僕は、彼女が一人では寂しいと思ったので、
術を使うことにした。
まだ、彼女には、術使いの事は、何も知らせてなかったのだ。
「何かぬいぐるみ持ってる?」
「コアラ持っているけど・・・ それが何か」
「僕、夜の間、コアラの中に入っていてもいい?」
「冗談が好きな人ね。でも、大丈夫よ。
いつかは、一人で暮らさなければならないんだから、
1年だけ、早くなっただけのことよ」
「あのね、僕の心、何にでも潜り込めるんだよ。
コアラに入ってもいい?」
「いいわよ。ありがとう。その気持だけで、嬉しいわ」
彼女はてんで信用しなかった。
しかし、彼女の許可が下りたのだ。
僕は、当分の間、コアラの中に入って、
彼女についていてあげようと思う。
彼女のプライバシーを犯すのはいい事ではないかもしれない。
けれども、一人で置いておくのは心配でもある。
夜の間、僕がついていてあげよう。
僕は、まだ霧乃さんの手を握った事もない。
そのうち二人の仲がすすんでいけば、
そういう事もありうるだろう。
僕にとっては、霧乃さんは宝物であるのだ。
しっかり守ってあげる事にしよう。
何も事件など、起こらないかもしれないけれど、
何かが起こってからでは遅いのだ。
彼女の身近には、僕しか残っていないのだ。
僕は、彼女にとって、選ばれた人間になりたい。
コアラに篭もって、出来る限り見守ってあげたい。
そんなことを思っている最中に、
「坊、女ひとりの部屋に入ることは良くないぞ」
なつかしいエンオッズ先生の声が、
どこからともなく、響いてきた。
「先生、お久しぶりです」
「うん、坊も元気のようじゃのう」
「はい。でも、どうして霧乃さんを見守ってあげる事が
いけないのですか?」
「見守るのはいい。しかし、部屋に入ることがいけないのじゃ」
「何もしません。
彼女を見えない敵から、守ってやりたいのですが・・」
「それは、過剰防衛というもの。
それに、坊は性欲の何たるかもわかっていない。
煩悩の恐ろしさに、出くわしてもいない。
ワシの大先生である、
久米のピン仙先生でも、
赤い腰まきをチラチラさせていた、
田植えオナゴに、目が眩んだのじゃ。
ワシが、足元にも及ばぬと、
尊敬していた大仙人でさえも、
オナゴに惑わされて、悟りを失ったのだ。
オナゴの本性は、この世で、男を堕落させるところにある。
これは、マヌ法典でも指摘しておるわ。
渡瀬信之さんが、訳してくれとる。
ずっと昔からの先人の知恵なのじゃ。
賢い男は、女に心を許さぬものじゃ。心しておけ」
{何というド石頭。
独身でいるのが、わかるような気もする。
いくら先生といえども、霧乃さんのことは譲れない。
僕は彼女と結婚しようとも思っているのだ。
もし、それがダメなら、
一生独身で通そうとも、思っているのだ。
僕は、真剣なのだ。
先生は、恋愛もしたことないのではないか。
それに、女性に対する偏見もはなはだしい}
「こりゃ、何考えとる。筒抜けといったろうが・・愚か者めが」
「先生、霧乃さんは素晴らしい女性です。
先生が、考えておられるような、女の部類には入りません。
彼女は、天使なのです。
水晶のような、心を持った人なのです」
「ワシも昔はそう思ったわ。
誰もが、女のまやかしに惑うようじゃのう。
オナゴの無知で、無自覚な水晶のような心こそ、
現実の垢に、すぐに染まってしまうものじゃ。
しかし、こういう事は口や文字では伝わらんじゃろ・・・
お前も身体でつかんでみるか。
溺れるなよ。
捉われるなよ。
では、坊の好きなようにしてみるか。さらばじゃ」
僕は、ショックだった。
先生が、言われることなのだから、真実に近いのだろう。
けれども、霧乃さんは違う。
彼女だけは、違う。
霧乃さんは、そんな薄っぺらな女性ではない。
この世の女が、
すべて先生の言われるような女であったとしても、
彼女は、例外なのだ。
僕は、霧乃さんに夢を抱いている。
彼女さえよければ、
一生力を合わせて生きてゆきたいのだ。
先生が言われる、堕落させるというような、
ゲスな視点は持ちたくはない。
それが、例え先人の尊い教えだとしても、
僕は、そんなものに騙されはしない。
むしろ、彼女は、
僕を、上へ上へと引き上げてくれる、女神さまなのだ。
彼女は、夜空に輝く、
水をたっぷりたたえた、
育み溢れる、
青い青い、この地球そのものなのだ。
おわり