おだにゃら記

地元小田原市中心のゆるゆるフィールドワーク備忘録。
歴史、神社関連、あとはいろいろ。

山中城とおたまじゃくしと武将たちと

2022年05月20日 14時45分00秒 | お出かけ
山中バイパスができてから寄る機会の少なくなってしまった山中城。
もう5年くらい訪れていなかった。

ふと山中城のおたまじゃくしのことを思い出し、
またゾワゾワしたくなりGW最後の日曜に出かけた。





台風19号による被害は聞いてたけど、昨年も崩落があったなんて。
でも遺構には影響ないようで良かった。



こことか

ここなどに被害が。







ツツジにはちょっと遅かったかな?と思ってたら
逆に早かったようで。
(ガイドさんがいて話が聞けた)
今年は5月中旬ころがちょうど良かったみたい。



藤はほぼ満開だった。


それで、
おたまじゃくしのことなんだけど。
ここ田尻の池にこの季節に来ますとね、



おたまじゃくしの大群がこのように集塊化してまして。

グロいのでこの程度の写真にしておくけど、向こう岸なんて真っ黒な帯みたいになってウネウネゾワゾワ。

10何年か前に初めて見て衝撃を受け、怖いもの見たさで山中城はこの時期に訪れることにしていた。



久しぶりに宗閑寺に参拝。



小田原の歴史が大きく変わってしまった天正18年(1590)

その3月29日に
山中城で討死した武将達の墓が宗閑寺にある。



立ち並ぶ墓に眠るのは
城主松田康長、北条家筆頭家老の家柄。
援将間宮康敏、小田原二十将衆。函南の間宮出身。
箕輪城主多米長定、北条氏の御由緒六家。
「新九郎、奔る!」(ゆうきまさみ著)では多米権兵衛は横井家の家人としてカッコよく登場し新九郎をピンチから救う。

そして敵方、豊臣秀吉子飼いの大将一柳直末。

山中城の戦いはあっけなく落城、なんて言われるけど、
豊臣軍7万を迎え撃った北条軍はたった4千。
圧倒的な兵力の差がありながら敵方にも多くの死者を出し、特に先鋒の一柳隊は大将が討死するほどの壊滅状態に。
この戦いの、どこがあっけなかったのか?

と、私は宗閑寺に詣でるたびに思うのだ。




帰り際に、昨年整備復元された箱根旧街道の腰巻地区をちょっとだけ歩いた。



山中城の売店から数メートル離れるだけでこの静けさ。



いつかは旧街道制覇と夢見てはいるんだけど、
やっぱ無理かな。
膝痛いし。
この日も疲れちゃって岱崎出丸には行かなかったし。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。