おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


御殿場の浅間神社ぜんぶまわる その11 東田中 和田義盛と孝行息子

2024年02月08日 23時13分00秒 | 御殿場の浅間神社ぜんぶまわる
愛猫るなが10日間の家出から無事帰宅して2週間。
世の中には重いニュースが続いておりますが、
我が家はすっかり日常に戻りニャン達と穏やかな2月を過ごしております。



さて
御殿場の浅間神社。11番目は東田中です。





東田中の浅間神社は平成後期に開通した新橋深沢線沿いにあります。

周辺の田畑が分譲地等に開発され
自然が減ってしまったのでガランとした御殿場らしくない風景。


そんな変わりつつある御殿場の風景の中に残された浅間神社。


なんだか「ちいさいおうち」っぽい佇まい。






社殿が新しく社叢と呼べる木々がほとんど伐採されてるので明るく開放的な雰囲気。

そのためか神社自体の歴史が浅いと勘違いされることもあるようです。



(昭和18年 五万分の一地形図)

この付近は源頼朝の富士の巻狩りで和田義盛が陣を張った場所で、和田という地名が残っています。
(東田中という文字で見えませんが浅間神社は緑色の位置)

巻狩り開催地周辺には和田義盛の伝説が多いです。
裾野市には和田一族が落ち延びた下和田という地名もあります。
鎌倉時代の豪傑として頼朝に次ぐ人気者だったのでしょうね。





現在の浅間神社のある場所はかつては和田の森と呼ばれていました。
義盛が箸代わりに使った楓の枝を地面に挿したところ根付いて森になったそうです。すごい。
広報ごてんば 御殿場に伝わる富士の巻狩より)

どんな森だったのか、今では想像の余地もありませんが
人気者の和田義盛の名が残るくらいなので
地域の人々から大事にされていたでしょうし、神聖視もされていたかもしれません。



境内の幣饌料供進社の碑には田中神社とあります。
大正8年当時はここの名称は田中神社でした。

田中村はかつて御殿場に存在した大きな村で、正保元年(1647)小田原藩による検知で西田中村、東田中村に分かれたそうです。

田中神社が田中村の鎮守だとすると1647年以前から存在していたことになります。

和田義盛所縁の森になんらかの社ができ
その後田中村の鎮守となり
大正以降に浅間神社と名称が変わった。

という認識に落ち着いてきます。



道祖神



他にもいくつか石碑が



面白いのがこれ
「孝子佐五右衛門の碑」


寛政年間に東田中村住みの佐五右衛門という人が孝行息子として小田原藩に表彰され、
のちに大正天皇御成婚の際に顕彰碑が建てられました。

石碑の文字は読みづらいですが
勝間田二郎氏の「続 御殿場・小山の伝説」に詳しい孝行話が掲載されています。

当時の藩では時折こうして農民を表彰して励ましていた、
というか
貧しくても頑張れ!とやる気を出させていたようです。


鳥居前から見た富士山



素敵な写真お借りしてきました。
実は東田中浅間神社の鳥居越しにこんな素晴らしいダイアモンド富士が撮れるんですって。
知らなかったー