先週木曜日(1月30日)の昼過ぎに父の具合がかなり悪いので早めに帰るようにと姉から電話。
あわてて岡山に向けて車をとばし、施設の父のもとへ。
その日は無事に越えられたものの依然危ない状況は続き翌日から二晩、姉と一緒に施設に泊まり込んで静養室の父に寄り添っていました。
もう食事を摂ることができす点滴も入らなくなったので、あとはどれだけ父の体力が残っているかという辛い現実。
お昼はずっと母が枕元で話しかけ、大好きだった演歌のCDをかけて聴かせてあげていました。
一秒でも長い生の時間を祈り続けていましたが 2月2日の朝方から呼吸がだんだんと弱くなって8時28分息を引き取りました。
最期は母、姉、私、そして孫たちが手を握り、大好きだった「北国の春」を聴きながらの穏やかな旅立ちでした。
10年前にアルツハイマーと診断され自宅で母が介護をしていましたが、7年前に施設に入り今年1月8日に家の近くの施設に転院できた矢先のこと。
昨日、2月4日に葬儀を終え私は今日大阪に戻ってきました。
通夜にはお忙しい中、遠いところから駆けつけてくださった仕事関係の方もいらっしゃって本当にうれしく思いました。
皆さまのお気持ち、父も心から喜んでいると思います。
父と一緒の写真は少なかったのですが、昔のアルバムを探してみました。「晶子(私)3歳。阪神パークにて」と書かれていました。5才上の姉と。
父は私が母のお腹にいる時に、勝手に男の子と決めて「太郎」という名前を準備していたそうです。
5才離れた姉がいるので、次は男の子が欲しかったのでしょう。
男の子ではなかったのですが、私は小さいころから父とプロレスをしたり釣りに行ったり、大人になってからは一緒にお酒を飲んだりと
父の息子願望に知らないうちに染まっていったのかもしれませんね(笑)
徳島の田舎町に生まれ大阪で大工の修行を積み、苦労を重ねながら一家を支えてくれました。
岡山で会社勤めをするようになり69歳まで勤め上げ、その後はゆっくりと趣味の木工作業をしながら過ごしておりました。
父を一言で表すなら「温厚」 その言葉に尽きます。
私は怒られた記憶がないのです。人の悪口や愚痴も聞いたことがありません。
そして口癖は「わしゃ~、幸せじゃあ。」お酒を飲むと嬉しそうにこのフレーズを繰り返していました。
息を引き取った後の父の表情がとても柔らかく穏やかだったのは生前の父の徳があったからだと私は信じています。
大切な人を亡くした経験のある方はこの後、悲しみがじわりじわりとやってくるとおっしゃいます。
白い箱に入ってしまった父が信じられず、また笑顔の父に会えそうな気がしていますので、時間の経過とともに受け入れざるを得ない現実に苦しむかもしれません。
しかし、父が安心して浄土への旅ができるよう「ありがとう」をたくさん届けていきたいと思います。
父の娘として生まれたことにありがとう。
父の娘としてこれからも生きていけることにありがとう。