あきさんの旅写真

海外旅行をした記憶のために撮った写真を、出来事と一緒に残しました。

電車に乗って

2011年12月31日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月23日

翌朝8時に覚める。
昨日、道を尋ねた店へ行ってみよう。右側が喫茶店?だ。
ちょうど、日本の喫茶店のモーニングサービスに来た人達のような数人のお客さんが朝食を摂っている。
僕もその仲間に入って、クロワッサンを頼んだ。昨夜親切にしてくれた、ちょっと肉付きの良い女性はいなかった。




今日は、ロカ岬に行って、そこからシントラに行き、さらにオビドスまで行って宿泊する計画だ。
写真は、昨夜道を尋ねたレストランの前からアベニーダホテルを見る。左側の建物がそうだ。
沢木耕太郎さんが「1号線を北上せよ」の紀行文の中に出てくるホテルで格式が高い。というか高かった。始めここに泊まろうと思ったがネットで確認したが断念した。


ロカ岬には、電車でカスカイスまで行きそこからバスで行くことになる。
まずは地下鉄でロシオからカイスドソレイユへ、カイスドソレイユで電車に乗り換える。この路線は電車がまだ新しい。テージョ川の河口に沿って行く。
線路と川の間は公園になっている。パイナップルのような棕櫚の木が計算されたように並んでいる。4月28日橋が逆光の中ににび色に光っている。これは、ガラスの汚れも含んだ色だろう。


やがて右手に有名な「ジェロニモス修道院」、左手にベレンのモニュメントが見える。
車窓から続く景色に延々と平行してある景色が、いろいろな壁面の落書きである。落書きが認可されているのか延々と続く。


駅には改札がない。ひょっとすると只でも乗れるのではないだろうかと、考える人がいるかもしれない。そんな危惧を車掌さんたちの行動からキセルの摘発対策を見た。
電車には、4人の車掌が乗っている。彼らは駅に着くと全員で乗降客を確認する。どの車両にどんな人が乗ったか、それに基づいて車掌が動く。
「うーんこれもすごい」


各電車にこのシステムで行った場合、何人の車掌がいるだろうか?駅に人を配置するのとどっちがコストが安いのだろうか。1日数本しか走らない線区ならメリットがありそうだ。でも、日本の田舎はワンマン電車と無人駅の制度がある。それが一番安いかも。
先日(2011年12月26日)の函館本線のように無人駅+ワンマンカー+1両編成。

ちょっと余談
あの時書き忘れたけれど、函館の写真を見て、撮っていて感じたことは「るるぶ」の写真のように、「きれいな風景それを持って帰る」あるいは「こんなとこあるよという紹介写真」という写真の領域から抜けられない。今回の旅なんかは「るるぶ」そのものだと思う。まーそれで良いんだろうな。僕の写真の原点だと思う。




1日かかった。

2011年12月30日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月22日の旅

リスボンの飛行場は、出迎えの人でごったがえしている。
クリスマスで帰省する人を家族が迎えに来た。
挨拶がキッス。
タイやカトマンズと違って、客引きのいないところは安心してバスを探せる。

市内へはバスと決めている。
どこをどういう具合に来たのか覚えていないがバス停にはスムーズにやって来た。

30分以上待つがここのバス停には1台も止まらない。

間違っていないか近くに居る人に聞いてみたが、ここでいいようだ。
バス停の路線図で再確認していると赤いバスが来た。
乗り込む人は少なかった。7・8人だった。みんな車が迎えにきていたのだろうか?

どこで降りるのかよくわからないので運転手のそばに座って
「ロシオ広場で降りたい」
「OK、教える」
バスは暗い道を行く。

しかし、なかなか声がかからない。忘れてしまったんじゃないだろうか?
「まだいいか?」
「座わっていろ」
風景が市街の中心部になってきた木立の広い道を進む。やがて、四方が建物に囲まれた広場にバスが止まる。

「ここだ」
「オブリガード」

着いたな。
このロシオ広場の一角にホテルはあるはず。
(ネットでのホテルガイドの写真)

丁度バス停の前当たりがホテルの紹介の地図に当たる。だがそれらしき建物がない。
工事中の建物があって丁度この位置になる。
裏の路地を探すが見当たらない。
そこらにあるホテルに泊まってしまうか、とも考えたが、まずは誰かに聞いてみよう。
でも、23時をまわっていて歩行者はいない。
喫茶店のような所が開いていて、ホテルの所在を尋ねた。
「アメリカーノ・レジデンシャルホテルを探している」
親切な人で店を裏口から出て20mほど進んで「あそこだ」と教えてくれた。


ホテルは、そこがホテルとは聞いてもわからないほど路地に溶け込んでいた。
出っ張った看板も無く、いりぐちは、通りの壁と同じ平面で、ガラス張りの玄関があるというだけのものだ。
中に入ってもドア2枚分の幅で5mほどのエントランスがあり、階段の手前に人ひとりのカウンターがある。
女性が座っている。

「マイネームイズ、Akio」
ようやく部屋に入れた。12時近い。

日本を10時に出て、現地時間の24時に着いた。
何時間かかったのだろうか。
時差を入れると21時間か。
ということは朝の7時だ。
(先日、ひこにゃんのブログではKLMでオランダまで11時間で、そこからバルセロナに行かれたのですがこんなに時間はかからなかったようです)
暗く天井が斜めになった部屋で、カメラの電池の充電をし、湯が少ししか出ないシャワーを浴びて寝た。


ドイツからイベリアへ

2011年12月29日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月22日

ポルトガル航空は1時間30分の遅れで
ダンケシェーンからオブリガードの国に

フランクフルトからリスボンにはTAPエアー(ポルトガルの航空会社)B767だった。
おもしろいことにビジネスとエコノミーの席に区別が無く、ビジネスは3人掛けを2人で使用する。
真ん中のシートは座席が無く台になっている。
そして大きな違いは機内食で、ビジネス客にしか食事が出なかった。
フライト時間が約3時間だからなのかな。

食事のとき、横の席の男性が、メニューの見方について説明してくれる。
CAさんに食事を頼んだ。
隣の男性は「Vitor Cunha」という。
彼が、「何を頼んだ?」
「ソードフィッシュ(舌平目?)とバナナのソテーだ」
「グッドチョイス」だ。

この、メインディッシュに、オリーブOILと酢と岩塩をかけるのだそうだ。小さなビンが2本付いてくる。
幸先の良い食事だ。

彼は、メキシコからクリスマス休暇で帰ってきた。さりげなく気持ちが優しい、いい親父だ。
今(2011年)は、ドバイに居る。バスに搭載するエアコンのセールだそうだ。

窓外に黄色いランプの街灯がおびただしくみえる。
日本の空から見える光は白い。
黄色のフォグランプの色が続いて、やがて大きくなって静かに着陸した。

日本を出て23時間がかかった。
到着したのは現地時間で22時。
税関はフランクフルトで済んでいるため即、表に出られる。


今日2度目の朝

2011年12月28日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月22日

無かった道が1本2本と見えてきた。
北欧の国から徐々にフランクフルトに近づく。

夜食の配膳に機内が少しざわついている。
冬の北周りは夜の中を通ってユーラシアの西側に出る。
今日2度目の日の出が西の空に見える。
濃い藍色の空がピンクに染まってきた。


2度目の夜が明けると
下の大地に少し人の気配がしてくる。
道があり、人家も見える。真っ白な大地の中。


隣の席でドミニコは日本語の勉強をしている。
小学校の低学年向けの国語の教科書くらいの文章を読んでいる。
「難しい?」
「うん」
「国に帰るのか?」
「そうだ、シチリアだ。いいとこだ、一度来い」
彼は、トヨタのデザイナーで正月休みに仲間とシチリアに帰省する途中だ。
彼は3年間の本社勤務を終えて、現在(2011年)ベルギートヨタでデザインを担当している。

降下が霧を抜けると
いきなり高速道路が現れた。
すぐに飛行場だ。
もう少し、雪木立の景色が見たかった。

乗り継ぎに2時間ほどあるが、なぜか急ぎ足になる。ポルシェデザインのショップがあった。ウィンドウ内から「イェーイ」のピ-スサイン。僕の持つ鞄を目ざとく見つけてくれた。

37番の搭乗ゲートを確認し、そのまま通過してラウンジに行く。
果物(みかん・リンゴ)とコーヒー・クラッカーで少しおなかを満たし搭乗ゲート付近のベンチで待つ。
空港の中はとにかくデカイ、いろいろ方向に行く廊下があるがでもわかりやすい飛行場だ。
それは移動に上下動が少ないからだろうか。
搭乗口前には、いろいろな国の人がいて結構飽きない。


1日が10時間の不思議な日

2011年12月27日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月22日

もう夕方だ。
時計は3時を指しているが、経度の差で、まだ1時か2時だろう。
なのに、紺色の空と白い霞の大地の間がピンク染まっている。

月の輝きが少しずつ増している。
そして闇がきた。

CAさんがワインを運んでくる。
隣の外国人(ドミニコ)さん、フランス・イタリア・ドイツと飲み比べてフランスを選択した。一緒のものを貰う。なるほど、まろやかで、渋みの無い、そしてふくよかに甘い赤だった。しかし全部飲めなかった。
食事が出る。昼ごはんになるのだろうか。それにしては豪華だ、ボタッとしたステーキが出たがもう少しセンスのいい食事にならないものか、ドイツ料理と和食の差なのか。
ワインが回ってすこし心臓がパクつく、脈が100くらいになっているだろうか寝ることにした。


日が暮れて4時間
外に明るさが戻ってきた。
ここでは、朝日は南から上がるのか・・

だんだんと明るくなって、
朝日が機体をピンクに染めた。


なんとも不思議だ、一日が10時間で過ぎていった。
時計を見ながら空の変化と時間の経過を
計算していても不思議なのに、
時計を持たなかったらどんな感動があったのだろうか。
ちょっと、悔やんだ。


さあ出かけよう。

2011年12月26日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月22日

さあ出かけよう。

LH737便座席に着いて、鞄からカメラを出そうと鞄の中を探すがカメラが無い。
いかん、忘れた。

「すみませんが、イクスキューズ、ちょっと!」
周囲はデカイ外国人のキャビンアテンダント(CA)さんばかり、
日本人の中肉中背のきれいなCAさんが来てくれた。感謝!
「ラウンジにカメラを忘れた」
「少しお待ちください」

飛行機、動いちゃうんじゃないだろうか。心配心配。
しばらくして、別のもっと若い日本人女性が持ってきてくれた。
「すみません、確認なんですがメーカーはどちらでしょうか?」
「canonですが」
「じゃ、これで間違いありませんか?」
よかった。カメラがなかったら旅そのものが意味しない。

岩木山と弘前が見えた。

ほどなく北海道の西の空から徐々に日本を離れて行く。
眼下に凍った大地が続く。
この広い台地に人の気配が無い。

不思議な感じだ。
さっきから月が同じ位置で見える。
白と青の大地と空の間に浮かんでいる月が。


大きな川が蛇行する。

何という川だろう。
これが、アムール川なんだろうか?
今まで多くの川を眼下に見てきた。
三日月湖を多く残した、曲がりくねった
幾多の川を
でも、これは桁違いに大きい。

ここを、その昔に伊勢の漁師、大黒屋光太夫が旅をしたのだろうか。それには夏よりも冬のほうが旅をしやすいのだと、夏は蚊に悩まされるが、冬は蚊がいないうえ凍った大地、湖面、川をそのまま犬そりで進める。それにしても難儀だっただろうな。


新しい旅の記録プロローグ②

2011年12月25日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月

旅費の現地引き下ろしの方法も今回は検討した。
ネパールではいたるところに両替商がいてまったく困らなかったが、今回の旅では街中の両替商は期待できないと思うことと、発展した町であることを考えATMの恩恵を受けようと思う。銀行カードでの引き下ろしを検討したが三菱UFJがこのシステムを新規分から中止していた。

そこで調査したのがJTBのグローバルカード、銀行と同じであらかじめ預けておいて引き出すものだが、銀行と違って日本国内では引き下ろしができない。が、今回はこのグローバルカードを持って行く。なお、2011年はCitibankと新生銀行とみずほが可能で昨年のフランスは新生銀行を利用した。そして、JTBのグローバルカードは今年中止になって、預けてあった分から手数料を引いた額を返金してきた。

もうひとつ検討したことは、宿泊先をどうするかだ。

旅程中にクリスマスイブと大晦日があって、夜に各都市に到着することを考えると、あらかじめ予約をしておいたほうが時間を節約できると判断した。全宿泊先を決めるため訪問すべき街を先に決めた。

これが大変だった。

飛行機は、リスボン着、マドリッド発を取ってある。
リスボンからどこへ行くか、ロカ岬、シントラ、ナザレ、オビドス、ポルト、壇一雄がサンタクルスなどいったん北に上がってから、サグレスを目指して南下しよう。そこから、大西洋を東に移動し、国境を越えスペインに入る。セビリアから、カディス、そして地中海沿岸に沿って移動して、どこかで白い街に訪れ、グラナダからマドリッドに行こうと大まかに決めた。

実際に宿泊先を決定する段になった時は移動時間の詳細を調査し選択することになった。その段階で、ポルト、グラナダなど次回の機会に回すという考えで自分を納得させる。

宿泊先をあらかじめ決定しておくことのデメリットはこの時点ではあまり意識していなかったが、このデメリットも苦労したが結構楽しかった。これは本文中で書くことになる。


新しい旅の記録プロローグ①

2011年12月24日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
4年前の話。2007年12月の話になる。

さらに半年前。
正月休みに海外へ行こうと考え、カミさんと職場に伏線を張るため少しずつそれとなく話をする。
それから準備を始める。
12月に最適な場所はどこか?
2005年も12月に最適な場所はどこかということで、ネパールを旅した。暑くも無く寒くも無く、最適なところはどこだろうか。司馬遼太郎さんの「街道を行く」と沢木耕太郎さんの「深夜特急」がどうも僕の旅に影響が大きい。そんなこんなでサグレスに行こうと決めた。
サグレスは、ユーラシア大陸の端っこ。経度的には西の果てはロカ岬になるが、ユーラシアの西の果てと言えばやはりサグレスになる。
ズーッと昔から気になっているところだ。行って見よう。

名古屋発ヨーロッパ行き、スターアライアンスで探す。ルフトハンザになった。フランクフルトでの乗り継ぎになる。
ネパールの旅を参考にして持って行くものなど検討する。「地球の歩き方」は持っていかない。「辞書」も持っていかない。そうだカメラをグレードアップしよう。リコーのカプリオR7の手ぶれ機能とズームに魅力を感じて検討をしたが、最終的にはCanonのパワーショットG9にした。理由はいい写真が取れそうな気がした。
ネパールではリュックサックに軽登山靴(短靴)で行ったが、今回は肩掛けできるポルシェデザインの旅行鞄とスウェードのアイパスのボード用のズックにした。それと富士通のモバイルパソコンを持った。もうひとつ本を持っていったが、帰りに置いてこられる本ということで文藝春秋の1月号とにしたが、広告ページはほとんどを取り除いた。紙一枚軽くすることに気を使った。


帰国 (ネパール編最終回)

2011年12月23日 | ネパール【2005年の旅】
(ネパールの始まりは2011年10月31日からです。)


12月24日
今日帰る。

このホテルは良いホテルだった。
とってもフレンドリー
ゲートのガードマン。

フロントの下アイシャドウのお姉さん。
アルニコルームのマネージャー
yetiトラベルのヒゲの親父

運転手のジョン
また来ることを約束してホテルを後にした。
タクシーはジョンの運転。


空港で、ジョンと別れる。
男同士でハグして別れる。

一応はスターアライアンスのラウンジがあった。

ローカルなのか土地柄なのかこのラウンジに大きなネズミもいた。

出発近くになって待合室に移動した。屈強な人が多い。この人たちは出稼ぎに行くのだろう。傭兵かも知れない。




タイで、深夜の名古屋便に乗り換えて早朝名古屋に着く。紀伊半島では雪の積もった朝焼けがまぶしかった。

これで10月31日から続いたネパール編は終了します。
継続して読んでいただいた方には頭が下がります。
改めてお礼申し上げます。

次は、4年前のポルトガル・スペインを続けられたら良いと思いますが、ネパールほどにカルチャーショックはなく、新しい旅なのに印象が薄いと記憶も薄れていきます。要所のみと写真を掲載しようと考えています。迷惑でなければ時どき見に来てください。
                       あき


最後の夜

2011年12月22日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日明日帰る

タクシーにはそのままホテルまで送ってもらう。
1000NRPを遠慮気味に云われたが、カトマンズ-パクタブル間が200NRP。その時間と距離で考えると800NRPが妥当であるとして、800ルピーで了解を得た。

このあと、ホテルyetiへ行ってカジノを少し楽しんだが前項で済んでいるので省く。

夜の町へ出るのは今夜が初めてになる。タメルまで歩くと10分くらいかかるだろうか、これも初めての力車に乗った。
「タメルまでいくらか?」
「40ルピー」
「まからないか?」
「20」
「OK」
20ルピーは日本の物価感覚で30円ほどかと思う。これを喜んで一生懸命ペタルをこぐ。国に頼らないということは、こう云うことだろう。日本でも個人で国を頼らないが、国も約束を守る国家であってほしい。
力車はあまり良いものではない。背中しか見えない。







喫茶千種でコーヒーを飲む。ネパール人の兄妹がやっていてオーナーは名古屋にいるという。名刺をくれたが、なるほど電話番号が052-・・・・



日本の女の子がタバコをくゆらせひとりいた。何か気に入らないきつい顔をして肘を突いている。

また、ハイカラな洋品店へ行った。帽子・手袋・毛糸の足袋など安くて小さくて軽いものをいくつか買った。

部屋へ戻ると、電話が鳴った。
英語だ。
「$&)’!”#$%7&%・・・・・・TG・・・?・・&’%」
わかったのは「TG」だけだった。
「320、サンニーマル、じゃなくてスリートェンティ」
「OK サンキュー」切れた。
いよいよ明日帰るのだなー。
帰りの便の確認をフロントのあの下アイシャドウのお姉さんがしてる。


アルニコルームのマネジャーの顔を見に行って見るか。
アルニコルームに行って「モモ」を食べた。
「また来いよ」
「また来るわ」
あれから6年。まだいるかな?


パシュパティナート

2011年12月21日 | ネパール【2005年の旅】
1時間ほどの約束でタクシーに待ってもらっている。
戻ってみると車から出てすぐ近くで待っていてくれた。置いていった「地球の歩き方」は、座席の座布団の下に隠してある。こういうことに気の付く人なのだ。
地元の人がこういうことに気を使って生活していることは、安心しきってこの街を歩いている僕らが気をつけないといけないと少し反省。



運転手さんに相談した。
「パシュパティナートに行きたい」
「行きます」おとなしい人だ。
パクタブルから1時間ほどかかった。ここでも待っていてもらうことにした。
歩くと埃の舞う小砂利の参拝の道を行くとどこからともなく案内人が現れる。やはり日本語の勉強している。
ここもゲートがある。250NRPを払って入る。

猿も神の使いだろうか寺院のいたるところで見かける。石の階段を下りると川に出る。


この川は、バグマティ川と云いインドのバラナシを流れる聖なる川ガンジスの支流になる。カトマンズで亡くなった人は、ここで荼毘にふされ灰になって川に流される。それを望んでいる。

川の手前に火葬場がある。橋を渡って対岸にはそれを見られるように石段になっていた。荼毘に付す場所は橋の上流に2ヶ所、下流に3ヶ所ある。自称案内人は一番上流が、
バラモンBrahman(司祭)次が、
クシャトリヤ   Kshatriya 王侯、武士
ヴァイシャ   Vaisha   庶民(農・牧・商)
シュードラ    Shudra   隷属民
という順に使用されてきたが、今では橋より下はあまり差別なく空いている所を使用すると云っていた。

僕の行っていたときは、橋のひとつ上流側が使用されていた。喪主は白装束を着て奥の方にひとりで胡坐をかいて座っている。焼く人は長い棒で焼いているそばにいる。
黄色い布に包まれた遺体が川のそばに横たわっている。


その後方には白い建物があるが、それは病院であっても病院ではない。もう助からないと診断された人が「そこで待つ」病院なのだ。
現実だが、そういう最後もいい。俗世間に未練のない最後が迎えられるのかもしれない。

でもさすがにここでは写真を撮る気にならなかった。


いい街パクタブル

2011年12月20日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日つづき

ちょっとした寺院の門があり、その門をくぐるとひとり中年の女性が編み物をしている。
その前には魚がお盆に干されていた。
イサキだろうか?この海から遠く離れたネパールの地にイサキはないだろう。
干物の習慣は世界共通なのだろうか?
カメラを向けて「撮っていい?」
言葉は通じていないが、ニコッと微笑んだ。









そこに中学生くらいの男の子がやってきて英語で話しかけてくる。この子が流暢な英語を話す。
なんか自慢げな態度にちょっと腹が立ってきた。
と言って英語で嫌味を言う語学力も無く無視を決める。

クルマに戻る途中、毛沢東派の街宣車と出合った。黄色いビラを配りながら街宣している。
ビラの文字はヒンドゥー語
毛派は田舎ほど支持が多いという。
乗っているのは若者が多い。



でもいい街だ。
日本で云うと飛騨高山かな。
そんなに観光化されていないし、京都かな?
そこまで文化的でないし、角館かな?
でも、そんなに部分的でもないし、妻籠かな?
その雰囲気はあると思うが宿場町でも無いし、竹富町(石垣島)?
この雰囲気もあるだろうな、でももっと史跡もある。岡山の吹屋かな?
でも色の雰囲気が似ているが、もっと大きい。
これらを全部併せて割ったようないい街です。
カメラを持ち替えてもう一度来ようと思う。



孔雀窓

2011年12月19日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日つづき

路地を進むと少し広くなった道にチャイティヤがあった。
チャボが放し飼いで、静かな路地を地元の人が歩く。
こんなところで過ごせたら月日の経つのを忘れそうだ。



そのまま進むと、ゲートがあった。反対側つまり東のゲートまで来た。ここで出ずに右に道を取りながら戻っていく。古い建物の集まる広場だ。


ここで、クジャクの窓を尋ねるが通じない。ここらまで来ると英語を話す人が少ないのか。
適度な通行人の数とその雰囲気。
良い街を醸し出してくれている。





クジャクの窓があった。
その家は、1階が土産物屋さんになっている。
道路から写真を撮っていたら、その向かいの土産物屋さんが声をかけてきた。
「うちの2階からとるともっといい写真が撮れる」
「なるほど、対面だ」
狭い階段を上がるとそこも土産物が多い。
窓際へ、丁度孔雀窓の正面だ。孔雀が羽を広げた格子の彫り物の窓。そして隣のには孔雀が羽を閉じた窓があった。
この窓から下を見れば、土産物の通りを地元の人が通る。そこの広場もそうだが、観光客の姿は少なく地元の人のまばらな動きがこの街のよさを引き立てていると思う。

愛知県大府市にあるネパール料理店「ナンマスター」に孔雀窓レプリカがある。
店主がネパールに頼んだものだ。
本物とは違うが立派なものだった。
ここのナンは旨い。

子供たちと

2011年12月18日 | ネパール【2005年の旅】
路地で、写真を撮っていると子供たちが出てきた。
写真を撮れという。


最初は恥らっていた子も慣れてくるとポーズ?をとる。
園児服を着た数名の子も出てきた。
ガキ大将がやはりいて、好きな女の子をガードする。








ポカラでもそうだが、写真に対して気取らない子供たち、大人も写真に対して自然と向き合ってくれる。
今思えば、ヨーロッパの人達も自然と向き合ってくれた。
それが、日本では少し事情が違うようだ。
「写るよ・・・ちょっとまって」
「ピース」
「チーズ」
日本の写真文化で、チーズとピースが弊害になって自然さが失われているのかもしれない。
時どき、若い子を撮ることがあるが、最初はピースのまま撮り、そのあと
「今度はピース無しで」
と言うことにしている。

この場でプリントして手渡したい気持ちなるがそれは無理。
次に来る機会があったら、そうしようと思った。


バクタブルの街角

2011年12月17日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日パクタブル

入場門がある。

ここの入場券はUS10$もする。Nrpに換算すると1800nrp。
パタンなどでは200nrpであった。それだけの価値はあるのだろう。
券売所もしっかりしている。
自称案内人とか、日本語を勉強している人も見かけない。


門を入った近辺は寺院のある広い広場になっていてカトマンズほど埃っぽくなく、僕の生まれ故郷の町内をも彷彿とした雰囲気がある。
それは、木の柱と木の枠組みがお寺の遊び場とした縁側(えんがわ)に似ているのかもしれない。








街を行きかう人がカトマンズとは違う。
特に女性の服装。地元の伝統的な着物であったり、山のから出てきたままの服装に見える。





あてもなく歩いて、あてもない路地を入る。
いい雰囲気だなー。空気がきれいだなー。
古い街でいたるところで建物を修繕している。
水場では、洗濯物をしている、またそこでは若い女性が体を拭いている。当然乳房を出してのからだ拭きだ。臆することがないのかな。郷に入らば郷に従え、習慣なんだろう。



陶器の天日干し。
日本の陶器と違って瓦の色をしている。