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あきさんの旅写真

海外旅行をした記憶のために撮った写真を、出来事と一緒に残しました。

帰国 (ネパール編最終回)

2011年12月23日 | ネパール【2005年の旅】
(ネパールの始まりは2011年10月31日からです。)


12月24日
今日帰る。

このホテルは良いホテルだった。
とってもフレンドリー
ゲートのガードマン。

フロントの下アイシャドウのお姉さん。
アルニコルームのマネージャー
yetiトラベルのヒゲの親父

運転手のジョン
また来ることを約束してホテルを後にした。
タクシーはジョンの運転。


空港で、ジョンと別れる。
男同士でハグして別れる。

一応はスターアライアンスのラウンジがあった。

ローカルなのか土地柄なのかこのラウンジに大きなネズミもいた。

出発近くになって待合室に移動した。屈強な人が多い。この人たちは出稼ぎに行くのだろう。傭兵かも知れない。




タイで、深夜の名古屋便に乗り換えて早朝名古屋に着く。紀伊半島では雪の積もった朝焼けがまぶしかった。

これで10月31日から続いたネパール編は終了します。
継続して読んでいただいた方には頭が下がります。
改めてお礼申し上げます。

次は、4年前のポルトガル・スペインを続けられたら良いと思いますが、ネパールほどにカルチャーショックはなく、新しい旅なのに印象が薄いと記憶も薄れていきます。要所のみと写真を掲載しようと考えています。迷惑でなければ時どき見に来てください。
                       あき


最後の夜

2011年12月22日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日明日帰る

タクシーにはそのままホテルまで送ってもらう。
1000NRPを遠慮気味に云われたが、カトマンズ-パクタブル間が200NRP。その時間と距離で考えると800NRPが妥当であるとして、800ルピーで了解を得た。

このあと、ホテルyetiへ行ってカジノを少し楽しんだが前項で済んでいるので省く。

夜の町へ出るのは今夜が初めてになる。タメルまで歩くと10分くらいかかるだろうか、これも初めての力車に乗った。
「タメルまでいくらか?」
「40ルピー」
「まからないか?」
「20」
「OK」
20ルピーは日本の物価感覚で30円ほどかと思う。これを喜んで一生懸命ペタルをこぐ。国に頼らないということは、こう云うことだろう。日本でも個人で国を頼らないが、国も約束を守る国家であってほしい。
力車はあまり良いものではない。背中しか見えない。







喫茶千種でコーヒーを飲む。ネパール人の兄妹がやっていてオーナーは名古屋にいるという。名刺をくれたが、なるほど電話番号が052-・・・・



日本の女の子がタバコをくゆらせひとりいた。何か気に入らないきつい顔をして肘を突いている。

また、ハイカラな洋品店へ行った。帽子・手袋・毛糸の足袋など安くて小さくて軽いものをいくつか買った。

部屋へ戻ると、電話が鳴った。
英語だ。
「$&)’!”#$%7&%・・・・・・TG・・・?・・&’%」
わかったのは「TG」だけだった。
「320、サンニーマル、じゃなくてスリートェンティ」
「OK サンキュー」切れた。
いよいよ明日帰るのだなー。
帰りの便の確認をフロントのあの下アイシャドウのお姉さんがしてる。


アルニコルームのマネジャーの顔を見に行って見るか。
アルニコルームに行って「モモ」を食べた。
「また来いよ」
「また来るわ」
あれから6年。まだいるかな?


パシュパティナート

2011年12月21日 | ネパール【2005年の旅】
1時間ほどの約束でタクシーに待ってもらっている。
戻ってみると車から出てすぐ近くで待っていてくれた。置いていった「地球の歩き方」は、座席の座布団の下に隠してある。こういうことに気の付く人なのだ。
地元の人がこういうことに気を使って生活していることは、安心しきってこの街を歩いている僕らが気をつけないといけないと少し反省。



運転手さんに相談した。
「パシュパティナートに行きたい」
「行きます」おとなしい人だ。
パクタブルから1時間ほどかかった。ここでも待っていてもらうことにした。
歩くと埃の舞う小砂利の参拝の道を行くとどこからともなく案内人が現れる。やはり日本語の勉強している。
ここもゲートがある。250NRPを払って入る。

猿も神の使いだろうか寺院のいたるところで見かける。石の階段を下りると川に出る。


この川は、バグマティ川と云いインドのバラナシを流れる聖なる川ガンジスの支流になる。カトマンズで亡くなった人は、ここで荼毘にふされ灰になって川に流される。それを望んでいる。

川の手前に火葬場がある。橋を渡って対岸にはそれを見られるように石段になっていた。荼毘に付す場所は橋の上流に2ヶ所、下流に3ヶ所ある。自称案内人は一番上流が、
バラモンBrahman(司祭)次が、
クシャトリヤ   Kshatriya 王侯、武士
ヴァイシャ   Vaisha   庶民(農・牧・商)
シュードラ    Shudra   隷属民
という順に使用されてきたが、今では橋より下はあまり差別なく空いている所を使用すると云っていた。

僕の行っていたときは、橋のひとつ上流側が使用されていた。喪主は白装束を着て奥の方にひとりで胡坐をかいて座っている。焼く人は長い棒で焼いているそばにいる。
黄色い布に包まれた遺体が川のそばに横たわっている。


その後方には白い建物があるが、それは病院であっても病院ではない。もう助からないと診断された人が「そこで待つ」病院なのだ。
現実だが、そういう最後もいい。俗世間に未練のない最後が迎えられるのかもしれない。

でもさすがにここでは写真を撮る気にならなかった。


いい街パクタブル

2011年12月20日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日つづき

ちょっとした寺院の門があり、その門をくぐるとひとり中年の女性が編み物をしている。
その前には魚がお盆に干されていた。
イサキだろうか?この海から遠く離れたネパールの地にイサキはないだろう。
干物の習慣は世界共通なのだろうか?
カメラを向けて「撮っていい?」
言葉は通じていないが、ニコッと微笑んだ。









そこに中学生くらいの男の子がやってきて英語で話しかけてくる。この子が流暢な英語を話す。
なんか自慢げな態度にちょっと腹が立ってきた。
と言って英語で嫌味を言う語学力も無く無視を決める。

クルマに戻る途中、毛沢東派の街宣車と出合った。黄色いビラを配りながら街宣している。
ビラの文字はヒンドゥー語
毛派は田舎ほど支持が多いという。
乗っているのは若者が多い。



でもいい街だ。
日本で云うと飛騨高山かな。
そんなに観光化されていないし、京都かな?
そこまで文化的でないし、角館かな?
でも、そんなに部分的でもないし、妻籠かな?
その雰囲気はあると思うが宿場町でも無いし、竹富町(石垣島)?
この雰囲気もあるだろうな、でももっと史跡もある。岡山の吹屋かな?
でも色の雰囲気が似ているが、もっと大きい。
これらを全部併せて割ったようないい街です。
カメラを持ち替えてもう一度来ようと思う。



孔雀窓

2011年12月19日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日つづき

路地を進むと少し広くなった道にチャイティヤがあった。
チャボが放し飼いで、静かな路地を地元の人が歩く。
こんなところで過ごせたら月日の経つのを忘れそうだ。



そのまま進むと、ゲートがあった。反対側つまり東のゲートまで来た。ここで出ずに右に道を取りながら戻っていく。古い建物の集まる広場だ。


ここで、クジャクの窓を尋ねるが通じない。ここらまで来ると英語を話す人が少ないのか。
適度な通行人の数とその雰囲気。
良い街を醸し出してくれている。





クジャクの窓があった。
その家は、1階が土産物屋さんになっている。
道路から写真を撮っていたら、その向かいの土産物屋さんが声をかけてきた。
「うちの2階からとるともっといい写真が撮れる」
「なるほど、対面だ」
狭い階段を上がるとそこも土産物が多い。
窓際へ、丁度孔雀窓の正面だ。孔雀が羽を広げた格子の彫り物の窓。そして隣のには孔雀が羽を閉じた窓があった。
この窓から下を見れば、土産物の通りを地元の人が通る。そこの広場もそうだが、観光客の姿は少なく地元の人のまばらな動きがこの街のよさを引き立てていると思う。

愛知県大府市にあるネパール料理店「ナンマスター」に孔雀窓レプリカがある。
店主がネパールに頼んだものだ。
本物とは違うが立派なものだった。
ここのナンは旨い。

子供たちと

2011年12月18日 | ネパール【2005年の旅】
路地で、写真を撮っていると子供たちが出てきた。
写真を撮れという。


最初は恥らっていた子も慣れてくるとポーズ?をとる。
園児服を着た数名の子も出てきた。
ガキ大将がやはりいて、好きな女の子をガードする。








ポカラでもそうだが、写真に対して気取らない子供たち、大人も写真に対して自然と向き合ってくれる。
今思えば、ヨーロッパの人達も自然と向き合ってくれた。
それが、日本では少し事情が違うようだ。
「写るよ・・・ちょっとまって」
「ピース」
「チーズ」
日本の写真文化で、チーズとピースが弊害になって自然さが失われているのかもしれない。
時どき、若い子を撮ることがあるが、最初はピースのまま撮り、そのあと
「今度はピース無しで」
と言うことにしている。

この場でプリントして手渡したい気持ちなるがそれは無理。
次に来る機会があったら、そうしようと思った。


バクタブルの街角

2011年12月17日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月23日パクタブル

入場門がある。

ここの入場券はUS10$もする。Nrpに換算すると1800nrp。
パタンなどでは200nrpであった。それだけの価値はあるのだろう。
券売所もしっかりしている。
自称案内人とか、日本語を勉強している人も見かけない。


門を入った近辺は寺院のある広い広場になっていてカトマンズほど埃っぽくなく、僕の生まれ故郷の町内をも彷彿とした雰囲気がある。
それは、木の柱と木の枠組みがお寺の遊び場とした縁側(えんがわ)に似ているのかもしれない。








街を行きかう人がカトマンズとは違う。
特に女性の服装。地元の伝統的な着物であったり、山のから出てきたままの服装に見える。





あてもなく歩いて、あてもない路地を入る。
いい雰囲気だなー。空気がきれいだなー。
古い街でいたるところで建物を修繕している。
水場では、洗濯物をしている、またそこでは若い女性が体を拭いている。当然乳房を出してのからだ拭きだ。臆することがないのかな。郷に入らば郷に従え、習慣なんだろう。



陶器の天日干し。
日本の陶器と違って瓦の色をしている。





パクタブルへ

2011年12月16日 | ネパール【2005年の旅】
12月23日
明日帰る。あと1日
そして、このたびの目的地へ、旅は佳境に入る。

今日はバクタブルに行こう。通りに出て、適度にきれいなマルチスズキを選んで聞く。
「バクタブルまでいくら?」
「200ルピー」
「OK、行こう」
マルチスズキは王宮前の通りすなわち先日警官と学生の衝突のあった通りを南下する。途中バスターミナルがあった。広く多くのバスがいて理解できそうもなさそうだ。


南下を続けて左にカーブして行く。
運転手さんがアルニコハイウェーだと言う。
「うーんハイウェーか?」
片側1車線の通り。
行きかう車は多い。
ここを横断する人も多い。横断もやむえないと思う。
横断歩道が無い。


40分ほどすると左に曲がる。
角の電柱の配電線に戸上電機製の気中開閉器がついている。
「6kV配電かな?」
「ODAかな?」
細い木陰の道で避暑地のような道が続く。
しかしここは避暑地ではなかった。巻かれた鉄条網が道にシケイン状態で置かれスピードダウンを余儀なくされる。そして検問の前を通過する。

バクタブルに付いた。
地球の歩き方にここでは「帰りのタクシーが拾えないので待たせておくこと」とあり、待っていていただくことをお願いした。しかし、タクシーは多く停まっている。みんな待たしているのか?
「地球の歩き方」の本はタクシーに置いて行く。


やっぱりカレーと、そしてカジノ

2011年12月15日 | ネパール【2005年の旅】
一部の方には申しわけありませんが、2日前に順序を間違えて投稿してしまいましたが、改めて投稿しました。

2005年12月22日つづき

インディアンレストランに行ってカレーを頼んだ
また、特製キーマカレーだ。今回はナンは1枚で済ます。
この前の、ギターとボンゴの演奏がやはりあって、時間が遅いことかもしれないがカラオケの演奏もしていた。
背の高い紳士が出てきた。
この人は上手かった。この人の後では歌うことを遠慮しなければならない。それまでは少しだけ「頼まれた歌ってみよう」と考えていたが。


話は翌日の夕方に飛ぶが・・・。
翌日は、道を隔てた向かいのホテルのカジノを覗いた。僕の泊まっているホテルとは格が違うようだ。札幌で云うとグランドホテル。東京で云うと帝国ホテル(帝国ホテルが一番というわけでなく、老舗であることを考慮)のような感じになる。




カジノの入り口にカメラを向けると制服のガードマンが飛んでくる。Hotel Yak and Yeti ここも5星HOTEL。ホテルの左側にカジノがあった。「カジノ・ロイヤル」ジェームス・ボンドを思い出す。
1階に有って、客層はインド人と地元の人が多い。ここも歩いている黒服の方に声をかけてチップに交換する。
わかった、ネパールルピーでチップを交換するが、1枚当たりの単価はインドルピーで換算してる。ネパールとインドではインドルピーのほうが高い。それで、中途半端なチップの数になってしまった。

バカラはレートが高そうでドル建てになる、やはりルーレットで遊ぶ。昨日のカジノ・アンナでは、これでいいのかと手探りで博打をしていたが、場所は違うが2日目の今日は飲み物(無料)をいただいたり台を変えたり場の雰囲気も楽しんだ。結果は場の雰囲気を楽しんだだけで、両替までには至っていない。だが、両替はネパールルピー・インドルピー・ドルに両替できるが為替相場のままに両替できる。


カジノ

2011年12月14日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

ホテルに戻ったがやることが無くて、カジノに行ってみることにした。
カジノはロビーから正面玄関を出て右側の独立した建物だ。
建物の入り口は駐車場があり、ジョンやガードマンがいる。
1階を入るとスロットマシンが並んでいるが人がほとんどいない。
2階に上がるとルーレットのマシンが多く、ひとつのテーブルに5人くらいいて、これが10台以上あるだろうか。
しばらく歩きながら、立ち止まりながら見ていた。
目に付くのだろう女性がやってきて
「わかる?」
「わかるが、チップはどこで替えるのか?」
女性が手を上げた。
黒服の男性が来た。
「いくら替えますか」
「2000ルピー」
チップを16枚くれた。 ???一人考えた。
チップ一枚いくら? かな?
手数料が20%?


4人いたテーブルに座る
適当に賭けていた、偶数であったり、黒であったり前3分の1で
あったり、そんなことで儲かるはずもなく一進一退からついには
無くなってしまった。
右側のテーブルでは、お客とデーラーが1対1でやっている。レートも高そう。ゴソッとお客が負けた。

両替して、スロットに挑戦したがまったくおもしろくない。これは、ルピーの硬貨を直接投入してハンドルで廻す。
自然に停まるのを待つだけ。目押しもリーチ目も無くマシン任せでつまらないこととまったく揃わない。
また、ルーレットに戻る。
この時の記録が先日出てきた。
出目を書くカードだ。それによると
赤黒の目を読んだようだ。
赤赤赤黒赤赤赤赤黒赤赤赤黒赤赤黒
赤が3-4か続いて黒が来る。そこを読んで黒に賭ける。
当った。
沢木耕太郎の気分。
偶数・奇数の目を読む。22・28・18・6・12偶数が続いた。次は、奇数だ!
19・奇数が来た。
しかし、これも規則性はなくトータルで4000ルピーを費やした。

本格的なルーレットをやったわけだ。
写真禁止のちょっと場末のカジノで。
4000ルピーで2時間、遊びのコストパフォーマンスとしては安いだろうか?ひょっとすると日本のパチンコとそんなに違わないかもしれない。
でも、スロットは、日本のほうがおもしろいし楽しめる。
北斗の拳「アチョー!!タッタッ・・・」 

懐かしい。


再びカトマンズ

2011年12月13日 | ネパール【2005年の旅】
昨日投稿したものと順番を間違えてしまった。
こちらが先になります。

2005年12月22日つづき

ホテルに着くと、ホテルのゲート前にある公衆電話を使ってロケを行っている。





ゲートに立っている顔見知りの守衛さんに
「ロケか」
「そうだ」
「有名な役者か?」
「有名な役者だ」
「彼の名前はなんと言う?」
「わからない」
二人で大笑いした。




部屋が2階になったが、間取りは同じだ。
まだしっかり冷えたペパーミントのお茶が置いてあった。



下へ行くと、ヒゲの旅行社の親父が
「ポカラはどうだった?」と声をかけてきた。
「良いところだ」
「そうだろう」
「でも、変な親父がいなかったら、日長一日ロッジでボーとしていただろう」
「そうか良かったな」
意味が通じていない。
領収書の中にひげのおやじの旅行社のものがあった。名前が書いてあって、それには「Yeti travels pvt Ltd」とある。
雪男旅行社かな。Pvt ってなんだろう?
名前がバサント。
このあと、タメル地区に行った。
土産物を探しに行った。

そう云えば、夜食べる予定のカレーは、ナンが一枚では物足りないし、2枚では多いし、そうだ今から少し食べておこう。
街中にはベーカリーもある。
パンは店で焼いている。日本と同じシステムで好きなパンをチョイスし、レジで飲み物を云って料金を払う。
お釣に真っ黒な1ルピー札が混ざっていた。これが流通するのか、早いとこどっかで使ってしまおう。
この札をさわってから、パンを食べるのも「ちょっとなー」





来た日に約束した毛糸の帽子屋へ行った。
指が出せる手袋と耳当て帽子を買った。
店員がネパール人から白人に代わっていた。バイトかな?

150ルピーを
「この前来た時、100ルピーにすると言った」
「OK」
100ルピーで買った。
指が出せる手袋は、最近重宝している。冬、雪が降る中での撮影はまず、指がジンジンしてくる。この手袋はこういうときにいい。2・3年前から有名になった前田真三賞を取った女流写真家のYさんにも、薄い白いゴム引きの手袋と小さいホカロンとセットで差し上げた。
少し街中を行くとハイカラな店があった。(これは6年前、今はこういうハイカラな店も多いかも知れない)
セーターや、手袋、帽子、マフラーなどいろいろ買ってしまった。


カトマンズに戻る

2011年12月11日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

ロッジに戻る前に、近くの店屋に行った。
手編みのセーターを2つ買った。
これはいまでも気に入って着ている。
僕が着ると、カミさんも合わせて着るときもある。
そして「ちょっとチクチクする」といつも言う。

ロッジをチェックアウトして飛行場へ行く。

先日ロッジの領収書が出てきた。
トマトスープ単品で130NRP(200円)(床屋も、街で食べたピザとコーヒー合わせて200円)
ポークピカタ  300nrp
sabzi・・・  300nrp 何か覚えていない
Masalatea 100nrp

翌日の Buffet 700nrp

朝ご飯の領収書がないことから、朝食付きの部屋代のようだ。
ちなみに、2泊$90だった。
(今はずいぶん値上がりしたのかも。前に書いた旅行会社の費用$365は、ナガルコットの料金を入れたもので、実際は$240ほどでした。これは、往復の飛行機代とロッジの2泊分。安かったと思う)


さっききれいに見えていた山が雲に隠れている。
やはり、気温の上がらないうちに見ておくものだとつくづく思う。
インド人の新婚旅行者はもう行ってしまった。

来た時は気がつかなかったが、小さな土産物屋さんもある。
搭乗までの間、建物から出て飛行場内に行きたかったがやはりそれは無理だった。
関係者ものんびりくつろいでいた。


搭乗OKのアナウンスは無く、係りのおじさんが来て入り口のロープを外し、
「行っていい」

みんななんとなく、気付かれないように急ぎ足で歩き、左側の席を取ろうとする。

そして、席はご覧のとおり全員窓際。


カトマンズに到着して
手荷物の受け取りは勝手に持って行って良い。
飛行機から降ろした荷物はコロコンベアーに載せられそれを反対側から自分のものだけを持って行く。




19人だからできるのだろう。



タパと別れて

2011年12月10日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

山を下るとき、長男も一緒に乗って行こうと学校まで送ることにした。車中、長男と後部席に座る。
狭いから鞄は膝の上に抱いている。
「鞄買えるといいね」と指でつまむ。
長男。「ニコッ」
いい家族だ。


来た道を下っているわけだが、道がこんなに細かったとは気が付かなかった。インド製のトラックTATAとすれ違う時全くと言っていいほど狭い。バックして少し広いところを確保してそれでもギリだった。



学校はポカラ市街にある。近道もあるだろうが数キロはあるだろうか、山道を毎日通うことは相当の運動量だろう。グルカ兵が強いわけだ。



街の中を牛が居ることはヒンヅー教では珍しくないと思うが、水牛も街の中を歩いている。これはでかくて灰色の牛で角が例のごとく平べったくて大きく弧を描いている。
水牛はちょっと異様だ。こんなのが街の中を歩いている。
ポカラ市街は都会なのだ。
コンクリートの3階建てが並び、車道と歩道が区別されている。
そして、店先にはワゴンに乗った衣類がバーゲン?販売で、多くの人が行きかっている。
そのような都会に水牛。

筏の乗り場に送ってもらう。
タクシーの運転手に800ルピーを渡してくれと彼は云う。
そして自分にも
「800ほしい。昨日と今日の分」
「OK」
彼は、
「日本に帰ったらみんなに伝えてほしい。ポカラに来てガイドとして自分を雇うように」と。
「了解した」


手織りのマフラー

2011年12月09日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

山の中の地道に小さな集落、その地道からわき道を登る。彼の家がある。家は食堂と土産物屋を経営している。
というと聞こえはいい。
食堂は英語表記でレストランと書かれているが、柱とわらぶきの屋根だけのレストラン。
しかし景色は良い。


土産物は手織物。
住家の軒先に機織機がある。目の大きいきれいな人が機を織っている。


親父には子供が二人いる。二人ともまだ家にいた。学校は始まりが遅いのかな。
長男が泣いていて学校に行かない。



次男はさっさと行ってしまっていない。


「なぜ泣いているのか?」
「鞄が破れていて泣いている」
「それは可哀想だな」
見ると本を入れるところが大きく破れて本が落ちてしまう。


教科書を見た、算数の教科書。
英語で書かれている。
インドの隣の国だけあって小学生でも難しい算数をやっている。
変量の関数が入っている。僕の小学生に時は掛け算・割り算・分数くらいだったか?


「鞄はいくらくらいするものか?」
「800ルピー」(1200円)
「フーンそうか」
奥さんが手織物を勧める。

親父が
「これは良いものだ。彼女が織った」
と軒先を指差したが彼女はいなかった。
「バイトで雇ったのか?」

薄いウールの手織りのマフラーと普通の手袋を買った。
「いくらか?」
「800」
800ルピーを払った。
奥さんがくれたチャイも旨かった。

このマフラーはすごく気に入っている。
今でも大事に使っている。やわらかくて、そしてチクチクしない。





アンナプルナ

2011年12月08日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

今回、サランコットまで行っていない。途中でここが一番景色がいいのだとタパさんが言う。
細い小道。日本で言うところの田舎の裏山に登る細い斜めの小道。
ここを数分昇る。
おそらく標高は1400mくらいだろうか。息が切れる。少し平らになったところに出た。鶏の毛がむしられて散っている。

タパ曰く
ここで鶏を絞めて食事(デイキャンプ)をする所だという。
ここから見えるもう少し行った先の小高い頂がサランコットだろう。

彼の家は写真の左下にある集落になる。家の前がサランコットの頂への道だ。
下はマナスル


アンナプルナ山系が見える。
いわゆる8000m級の山が連なっているわけですごい景色のはずなんだが、それを見た感慨はない。
日本で見る3000M級の山を見た時と感動は同じなのか。
遠くから見るアンナプルナ。
でも、日本の3000M級には1日で直下まで行ける。翌日登頂することもできる。
アンナプルナは1週間かけて麓まで行く、そして限られた人しか登頂できない。
ここからでは、その差が小さく見える。

僕とあの山の間に水蒸気のある空気がある。水蒸気を取り除いてみてみたい景色。
でも、きれいだ。旅行会社の言ったジョムソンは、あのアンナプルナの左になる。


いつかジョムソンまで行こう。
眼下の谷を、ジョムソンからの飛行機がポカラの空港に帰って行く。
「行っていればあの飛行機で帰ってきたはず」

でも、ポカラはポカラなりにいい思い出だ。

彼の家はこの近くらしい。
家によって行けと言う。