あきさんの旅写真

海外旅行をした記憶のために撮った写真を、出来事と一緒に残しました。

パクタブルへ

2011年12月16日 | ネパール【2005年の旅】
12月23日
明日帰る。あと1日
そして、このたびの目的地へ、旅は佳境に入る。

今日はバクタブルに行こう。通りに出て、適度にきれいなマルチスズキを選んで聞く。
「バクタブルまでいくら?」
「200ルピー」
「OK、行こう」
マルチスズキは王宮前の通りすなわち先日警官と学生の衝突のあった通りを南下する。途中バスターミナルがあった。広く多くのバスがいて理解できそうもなさそうだ。


南下を続けて左にカーブして行く。
運転手さんがアルニコハイウェーだと言う。
「うーんハイウェーか?」
片側1車線の通り。
行きかう車は多い。
ここを横断する人も多い。横断もやむえないと思う。
横断歩道が無い。


40分ほどすると左に曲がる。
角の電柱の配電線に戸上電機製の気中開閉器がついている。
「6kV配電かな?」
「ODAかな?」
細い木陰の道で避暑地のような道が続く。
しかしここは避暑地ではなかった。巻かれた鉄条網が道にシケイン状態で置かれスピードダウンを余儀なくされる。そして検問の前を通過する。

バクタブルに付いた。
地球の歩き方にここでは「帰りのタクシーが拾えないので待たせておくこと」とあり、待っていていただくことをお願いした。しかし、タクシーは多く停まっている。みんな待たしているのか?
「地球の歩き方」の本はタクシーに置いて行く。


やっぱりカレーと、そしてカジノ

2011年12月15日 | ネパール【2005年の旅】
一部の方には申しわけありませんが、2日前に順序を間違えて投稿してしまいましたが、改めて投稿しました。

2005年12月22日つづき

インディアンレストランに行ってカレーを頼んだ
また、特製キーマカレーだ。今回はナンは1枚で済ます。
この前の、ギターとボンゴの演奏がやはりあって、時間が遅いことかもしれないがカラオケの演奏もしていた。
背の高い紳士が出てきた。
この人は上手かった。この人の後では歌うことを遠慮しなければならない。それまでは少しだけ「頼まれた歌ってみよう」と考えていたが。


話は翌日の夕方に飛ぶが・・・。
翌日は、道を隔てた向かいのホテルのカジノを覗いた。僕の泊まっているホテルとは格が違うようだ。札幌で云うとグランドホテル。東京で云うと帝国ホテル(帝国ホテルが一番というわけでなく、老舗であることを考慮)のような感じになる。




カジノの入り口にカメラを向けると制服のガードマンが飛んでくる。Hotel Yak and Yeti ここも5星HOTEL。ホテルの左側にカジノがあった。「カジノ・ロイヤル」ジェームス・ボンドを思い出す。
1階に有って、客層はインド人と地元の人が多い。ここも歩いている黒服の方に声をかけてチップに交換する。
わかった、ネパールルピーでチップを交換するが、1枚当たりの単価はインドルピーで換算してる。ネパールとインドではインドルピーのほうが高い。それで、中途半端なチップの数になってしまった。

バカラはレートが高そうでドル建てになる、やはりルーレットで遊ぶ。昨日のカジノ・アンナでは、これでいいのかと手探りで博打をしていたが、場所は違うが2日目の今日は飲み物(無料)をいただいたり台を変えたり場の雰囲気も楽しんだ。結果は場の雰囲気を楽しんだだけで、両替までには至っていない。だが、両替はネパールルピー・インドルピー・ドルに両替できるが為替相場のままに両替できる。


カジノ

2011年12月14日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

ホテルに戻ったがやることが無くて、カジノに行ってみることにした。
カジノはロビーから正面玄関を出て右側の独立した建物だ。
建物の入り口は駐車場があり、ジョンやガードマンがいる。
1階を入るとスロットマシンが並んでいるが人がほとんどいない。
2階に上がるとルーレットのマシンが多く、ひとつのテーブルに5人くらいいて、これが10台以上あるだろうか。
しばらく歩きながら、立ち止まりながら見ていた。
目に付くのだろう女性がやってきて
「わかる?」
「わかるが、チップはどこで替えるのか?」
女性が手を上げた。
黒服の男性が来た。
「いくら替えますか」
「2000ルピー」
チップを16枚くれた。 ???一人考えた。
チップ一枚いくら? かな?
手数料が20%?


4人いたテーブルに座る
適当に賭けていた、偶数であったり、黒であったり前3分の1で
あったり、そんなことで儲かるはずもなく一進一退からついには
無くなってしまった。
右側のテーブルでは、お客とデーラーが1対1でやっている。レートも高そう。ゴソッとお客が負けた。

両替して、スロットに挑戦したがまったくおもしろくない。これは、ルピーの硬貨を直接投入してハンドルで廻す。
自然に停まるのを待つだけ。目押しもリーチ目も無くマシン任せでつまらないこととまったく揃わない。
また、ルーレットに戻る。
この時の記録が先日出てきた。
出目を書くカードだ。それによると
赤黒の目を読んだようだ。
赤赤赤黒赤赤赤赤黒赤赤赤黒赤赤黒
赤が3-4か続いて黒が来る。そこを読んで黒に賭ける。
当った。
沢木耕太郎の気分。
偶数・奇数の目を読む。22・28・18・6・12偶数が続いた。次は、奇数だ!
19・奇数が来た。
しかし、これも規則性はなくトータルで4000ルピーを費やした。

本格的なルーレットをやったわけだ。
写真禁止のちょっと場末のカジノで。
4000ルピーで2時間、遊びのコストパフォーマンスとしては安いだろうか?ひょっとすると日本のパチンコとそんなに違わないかもしれない。
でも、スロットは、日本のほうがおもしろいし楽しめる。
北斗の拳「アチョー!!タッタッ・・・」 

懐かしい。


再びカトマンズ

2011年12月13日 | ネパール【2005年の旅】
昨日投稿したものと順番を間違えてしまった。
こちらが先になります。

2005年12月22日つづき

ホテルに着くと、ホテルのゲート前にある公衆電話を使ってロケを行っている。





ゲートに立っている顔見知りの守衛さんに
「ロケか」
「そうだ」
「有名な役者か?」
「有名な役者だ」
「彼の名前はなんと言う?」
「わからない」
二人で大笑いした。




部屋が2階になったが、間取りは同じだ。
まだしっかり冷えたペパーミントのお茶が置いてあった。



下へ行くと、ヒゲの旅行社の親父が
「ポカラはどうだった?」と声をかけてきた。
「良いところだ」
「そうだろう」
「でも、変な親父がいなかったら、日長一日ロッジでボーとしていただろう」
「そうか良かったな」
意味が通じていない。
領収書の中にひげのおやじの旅行社のものがあった。名前が書いてあって、それには「Yeti travels pvt Ltd」とある。
雪男旅行社かな。Pvt ってなんだろう?
名前がバサント。
このあと、タメル地区に行った。
土産物を探しに行った。

そう云えば、夜食べる予定のカレーは、ナンが一枚では物足りないし、2枚では多いし、そうだ今から少し食べておこう。
街中にはベーカリーもある。
パンは店で焼いている。日本と同じシステムで好きなパンをチョイスし、レジで飲み物を云って料金を払う。
お釣に真っ黒な1ルピー札が混ざっていた。これが流通するのか、早いとこどっかで使ってしまおう。
この札をさわってから、パンを食べるのも「ちょっとなー」





来た日に約束した毛糸の帽子屋へ行った。
指が出せる手袋と耳当て帽子を買った。
店員がネパール人から白人に代わっていた。バイトかな?

150ルピーを
「この前来た時、100ルピーにすると言った」
「OK」
100ルピーで買った。
指が出せる手袋は、最近重宝している。冬、雪が降る中での撮影はまず、指がジンジンしてくる。この手袋はこういうときにいい。2・3年前から有名になった前田真三賞を取った女流写真家のYさんにも、薄い白いゴム引きの手袋と小さいホカロンとセットで差し上げた。
少し街中を行くとハイカラな店があった。(これは6年前、今はこういうハイカラな店も多いかも知れない)
セーターや、手袋、帽子、マフラーなどいろいろ買ってしまった。


カトマンズに戻る

2011年12月11日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

ロッジに戻る前に、近くの店屋に行った。
手編みのセーターを2つ買った。
これはいまでも気に入って着ている。
僕が着ると、カミさんも合わせて着るときもある。
そして「ちょっとチクチクする」といつも言う。

ロッジをチェックアウトして飛行場へ行く。

先日ロッジの領収書が出てきた。
トマトスープ単品で130NRP(200円)(床屋も、街で食べたピザとコーヒー合わせて200円)
ポークピカタ  300nrp
sabzi・・・  300nrp 何か覚えていない
Masalatea 100nrp

翌日の Buffet 700nrp

朝ご飯の領収書がないことから、朝食付きの部屋代のようだ。
ちなみに、2泊$90だった。
(今はずいぶん値上がりしたのかも。前に書いた旅行会社の費用$365は、ナガルコットの料金を入れたもので、実際は$240ほどでした。これは、往復の飛行機代とロッジの2泊分。安かったと思う)


さっききれいに見えていた山が雲に隠れている。
やはり、気温の上がらないうちに見ておくものだとつくづく思う。
インド人の新婚旅行者はもう行ってしまった。

来た時は気がつかなかったが、小さな土産物屋さんもある。
搭乗までの間、建物から出て飛行場内に行きたかったがやはりそれは無理だった。
関係者ものんびりくつろいでいた。


搭乗OKのアナウンスは無く、係りのおじさんが来て入り口のロープを外し、
「行っていい」

みんななんとなく、気付かれないように急ぎ足で歩き、左側の席を取ろうとする。

そして、席はご覧のとおり全員窓際。


カトマンズに到着して
手荷物の受け取りは勝手に持って行って良い。
飛行機から降ろした荷物はコロコンベアーに載せられそれを反対側から自分のものだけを持って行く。




19人だからできるのだろう。



タパと別れて

2011年12月10日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

山を下るとき、長男も一緒に乗って行こうと学校まで送ることにした。車中、長男と後部席に座る。
狭いから鞄は膝の上に抱いている。
「鞄買えるといいね」と指でつまむ。
長男。「ニコッ」
いい家族だ。


来た道を下っているわけだが、道がこんなに細かったとは気が付かなかった。インド製のトラックTATAとすれ違う時全くと言っていいほど狭い。バックして少し広いところを確保してそれでもギリだった。



学校はポカラ市街にある。近道もあるだろうが数キロはあるだろうか、山道を毎日通うことは相当の運動量だろう。グルカ兵が強いわけだ。



街の中を牛が居ることはヒンヅー教では珍しくないと思うが、水牛も街の中を歩いている。これはでかくて灰色の牛で角が例のごとく平べったくて大きく弧を描いている。
水牛はちょっと異様だ。こんなのが街の中を歩いている。
ポカラ市街は都会なのだ。
コンクリートの3階建てが並び、車道と歩道が区別されている。
そして、店先にはワゴンに乗った衣類がバーゲン?販売で、多くの人が行きかっている。
そのような都会に水牛。

筏の乗り場に送ってもらう。
タクシーの運転手に800ルピーを渡してくれと彼は云う。
そして自分にも
「800ほしい。昨日と今日の分」
「OK」
彼は、
「日本に帰ったらみんなに伝えてほしい。ポカラに来てガイドとして自分を雇うように」と。
「了解した」


手織りのマフラー

2011年12月09日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

山の中の地道に小さな集落、その地道からわき道を登る。彼の家がある。家は食堂と土産物屋を経営している。
というと聞こえはいい。
食堂は英語表記でレストランと書かれているが、柱とわらぶきの屋根だけのレストラン。
しかし景色は良い。


土産物は手織物。
住家の軒先に機織機がある。目の大きいきれいな人が機を織っている。


親父には子供が二人いる。二人ともまだ家にいた。学校は始まりが遅いのかな。
長男が泣いていて学校に行かない。



次男はさっさと行ってしまっていない。


「なぜ泣いているのか?」
「鞄が破れていて泣いている」
「それは可哀想だな」
見ると本を入れるところが大きく破れて本が落ちてしまう。


教科書を見た、算数の教科書。
英語で書かれている。
インドの隣の国だけあって小学生でも難しい算数をやっている。
変量の関数が入っている。僕の小学生に時は掛け算・割り算・分数くらいだったか?


「鞄はいくらくらいするものか?」
「800ルピー」(1200円)
「フーンそうか」
奥さんが手織物を勧める。

親父が
「これは良いものだ。彼女が織った」
と軒先を指差したが彼女はいなかった。
「バイトで雇ったのか?」

薄いウールの手織りのマフラーと普通の手袋を買った。
「いくらか?」
「800」
800ルピーを払った。
奥さんがくれたチャイも旨かった。

このマフラーはすごく気に入っている。
今でも大事に使っている。やわらかくて、そしてチクチクしない。





アンナプルナ

2011年12月08日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日つづき

今回、サランコットまで行っていない。途中でここが一番景色がいいのだとタパさんが言う。
細い小道。日本で言うところの田舎の裏山に登る細い斜めの小道。
ここを数分昇る。
おそらく標高は1400mくらいだろうか。息が切れる。少し平らになったところに出た。鶏の毛がむしられて散っている。

タパ曰く
ここで鶏を絞めて食事(デイキャンプ)をする所だという。
ここから見えるもう少し行った先の小高い頂がサランコットだろう。

彼の家は写真の左下にある集落になる。家の前がサランコットの頂への道だ。
下はマナスル


アンナプルナ山系が見える。
いわゆる8000m級の山が連なっているわけですごい景色のはずなんだが、それを見た感慨はない。
日本で見る3000M級の山を見た時と感動は同じなのか。
遠くから見るアンナプルナ。
でも、日本の3000M級には1日で直下まで行ける。翌日登頂することもできる。
アンナプルナは1週間かけて麓まで行く、そして限られた人しか登頂できない。
ここからでは、その差が小さく見える。

僕とあの山の間に水蒸気のある空気がある。水蒸気を取り除いてみてみたい景色。
でも、きれいだ。旅行会社の言ったジョムソンは、あのアンナプルナの左になる。


いつかジョムソンまで行こう。
眼下の谷を、ジョムソンからの飛行機がポカラの空港に帰って行く。
「行っていればあの飛行機で帰ってきたはず」

でも、ポカラはポカラなりにいい思い出だ。

彼の家はこの近くらしい。
家によって行けと言う。


サランコットへ

2011年12月07日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月22日
24日に帰る。あと2日。


朝、食堂脇からダウラギリが見えた。
世界で14座ある8000m以上の山のうち第7番目になる。
標高は8167m。
子供の頃初登頂のニュースでこの東壁が印象に残っている。その頃からダウラギリはすごいという印象がこびりついて、この山を実際に見たことを記念したい。

フロントで新婚さんにあった。4時に起きたそうだ。撮った写真を自慢げに見せてくれ喜んでいた。
暗い中、雲が赤く染まった数カット。
「エクセレント、すごいじゃないか」
「お前も行け」
「今から行く」
「遅いわ!」

筏をわたるとき、朝の斜陽が湖面を照らす。まだ少しもやが懸かっており綺麗な朝だ。


タパはもう来ていた。
ここから20分くらい走っただろうか、途中ガソリンを入れ旧市街を抜けて山側に入って行く。
一般的なマルチスズキ。


曲がりくねった地道を昇って行く。サランコットへ向かう。

サランコットは上の写真の手前のくろい頂になる。

上る途中で軍隊と平行して進んだ。


この山中にはマオイストが出没する。
これは、正式名ネパール共産党毛沢東主義派という。彼らは、観光客から協力費と言う名目で山中でお金を集め、その領収書を発行する。
次に、軍隊に出会ったときその領収書を見せると捕まってしまうという。マオイストに協力した罪だ。
軍隊は一人ひとりの間隔を10mほど空けて進む。
政情が不安な中、兵隊には複雑な感情はないんだろーうな。
今の政権(国王)が倒れて、毛派に政権が行ったときどうなるのだろうか?。毛派と戦ってきた兵隊さんは。


新婚さん

2011年12月06日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月21日つづき


裏口観光から戻り
ロッジへの筏の渡しまできて、彼は
「明日、アンナプルナの日の出を見ないか?」
「朝早いのか?」
「5時に迎えに来る」
「そりゃ、早い! 8時にしよう」
「それじゃ朝焼けは見えないが」
「別に構わない」
彼は明朝8時にこの渡し場まで来る。
ことを約束した。

その夜、
ロッジの食事をバイキングにした。
トマトスープを多く飲みたくてバイキングにした。

あの二人が来た。
隣に座ったさい旦那と目が有った。
彼らもカトマンズの空港からポカラの送迎バスから一緒だったことをなんとなく親近感を持っていたのだろうか。
一緒に食事をした。
彼は、デリーの人で新婚旅行にここへ来た。Syarma氏
奥さんはムンバイの人だそうだ。Anujaさん
結婚したがまだしばらくは別々に暮らす。
デリーとムンバイ遠距離の新婚生活ちょっとかわいそうで、それでベタベタなのかも。

彼らは、明朝御来光を見に行く。そのせいかお酒を口にしなかった。下戸なのか宗教的にいけないのかスケジュール的にいけないのか、僕も下戸で丁度よかった。

食堂には暖房用の大きな暖炉があって、人はその周りにくつろげられる。
ほのぼのと暖かく薪が揺らぐ。
新婚の二人が帰ったあと暖かい暖炉脇でうたた寝した。
僕のほかには二人の欧米人がいて、小さく低い流暢な英語が心地よかった。


山岳博物館とグルカ兵

2011年12月05日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月21日つづき

旧市街、ここから国際山岳博物館に行った。
各国の山岳関係者からの支援も受けたが、彼は日本の援助でできたと言っている。展示は山岳民族、アンナプルナ山系の俯瞰模型。登山の歴史と装備類。山の自然、日本人に関連した展示品などがある。




マナスル初登頂者の故今西壽雄氏の多くの登山用品の展示品などこの装備で良くぞ登ったもんだな。登るというより登攀だから。田部井淳子さんのコーナーもありました。また、日本人で初めてチベットに潜入し、チベット旅行記で世界的に有名な河口慧海氏のコーナーもあります。
ここの敷地内からマチャプチャレがよく見える。


聞くところでは、マナスルや、ダウラギリも見えるそうだが確認できなかった。
上の写真の下の方に民家が見えるが。
ポカラの南側の郊外に位置するが、この周辺の住宅地は今までの住居と違う。コンクリートの一軒家で3階建てが多い。
「あれらの家はずいぶん立派だが何で?」
「出稼ぎで稼いだ」
「出稼ぎって、何処へ。インドじゃないだろう」
「兵隊だ」
「傭兵か?」
「まーそうだ」
「グルカ出身か?」
「そうだ」
あまり多くを語らない。
グルカ兵は、イギリスがインドから攻めて来た時に抵抗した種族で結局イギリスはグルカの抵抗に、ネパールをあきらめた歴史がある。
今は亡きクィネルの本に傭兵クリィーシーの物語があるが、息子を狙撃兵として鍛えるのに年老いたグルカ兵を使ったことが書いてある。
グルカ兵はイギリス軍をして勝てず、調印締結のさいにイギリス軍はこのグルカ兵を自国の軍隊に組み込むことをネパール政府に了解させた。軍隊を退役したグルカ種族は傭兵となって外貨を稼いでいる。
ちょっと理屈っぽくなったが現実にそういう人がこの地に結果を残していることを見た。 


ポカラ旧市街

2011年12月04日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月21日つづき

手帳が出てきてネパール人の名前が分かった、ビマセン・タパ。 サランコットに住んでいる。
自称ガイド。日本語堪能。ポカラに来る日本人がいたらぜひ紹介してくれと頼まれている。
手帳にいろいろなことが書いてあって、物の値段など記憶にないことが書かれていた。


タパさんが、ポカラの旧市街を見に行こうと気を利かせてくれる。
旧市街は街の北西に当たり車で10分ほどかかった。




築400年の古い建物、今も生活している。
古い街道沿いの町で、その行く手に名峰「マチャプチャレ」魚のシッポと言う意味の山。6997mというとなんだ6000m級かと思うが7000mの山なんです。急峻な山です。
ポカラからはいたる所で見える。


古い堂があり彼が説明してくれた。
昔、ネパールでは10歳で結婚した。したがって子作りの仕方を教えるのに寺院の彫刻で教えたと言う。そういう彫刻が彫られた堂であった。
これは、カトマンズにも多くある。
江戸時代の日本の春画と同じ役割を寺院の彫刻がしている。


彼の近所の人とであった。
山を降りて買い物に来る。
そういえば、彼も日本で云う昔のゴムぞうりで彼女もそうだ。
このゴムぞうりで山の上から毎日降りてくる。

旧市街を家族が歩いている。
家長がハッキリしている。
「家族を大事にする国だなー」
そういう空気を感じる。



マムズガーデンホテル

2011年12月03日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月21日つづき

レイクサイドのメインストリーを30分くらい歩くと街外れになる。
TATA=インドのトラックが町外れを走っていた。


ここまで来て、普通の生活圏を見られた。
親子と近所の人達で水場で井戸端会議をしている。子供は学校に行かないのかな?
来る途中学校へ行く子がいたが、彼らは制服を着ていた。スクールバス待ちだった。
貧富の差なのかな。




戻ってくる途中広い公差点のバス停付近で日本語が聞こえた。
「あれ!日本語?」
見るとネパール人と日本人が立ち話している。
日本人は、兵庫県の方で、冬の半年間はネパールに居られるそうだ。郊外のホテルに泊まっている。
ネパール人は、その友達らしい。
バスが来て日本人は去って行った。


ネパール人は、(彼の名前を書いた手帳が見つからない)
「日本の人がやっているホテルがある。そこは料理も旨いから案内する。」
タクシーで行く。
ホテルはメインストリーから少し入った閑静な場所にあった。石と木でできた涼しそうで清潔なホテルだった。


マムズガーデンホテルと言って日本人の奥さんが取り仕切っている。
昼を一緒にした彼が注文した。
お勧め料理だろう。
ピリ辛のチキンのから揚げ、と何かあったが失念した。宿泊しているホテル以外では食事をしていなかったが(ここもホテルだが)まー食べられるなー。

このホテルに、今朝このネパール人とヒマラヤの朝焼けを見てきた日本の女の子が泊まっていると言う。彼は彼女の名前を庭から呼んだ。2回の窓から顔を出した。寝ていたそうだ。東京から来た女の子で、一人旅をしている。
彼女に聞いた。
「なぜ一人なの?」
「一緒に来る人がいなかった」
「なるほど」

ホテルのママが部屋を見せてくれた。
バスタブが床に埋まって水面と床が同じ高さにある湯船。体の休まりそうな風呂で気に入った。次に来る機会が有ればこのホテルにしよう。でもロッジのトマトスープが遠のく。


フェワ湖メインストーリ-

2011年12月02日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月21日

旅を始めて5日目の朝


朝、筏で渡った。
広場を真っ直ぐ抜けて、大通りに出る。
左曲がってフェワ湖沿いにいく。
大きな木の茂った通りは、点在する店屋さんに混じって両替屋さんも多い。



スクールバスが子供たちを拾って行く。
制服を着た小学生。



配電線路のトランスとオープンカットアウト、キチッとした設備で安心できそう。


似通った作りの商店が増えてきた。
洋品・飲み物・土産・絨毯といろいろ並ぶ。


洋服屋さんに入る。
毛糸の手織りだろう、姪の子供用にポンチョを買った。このポンチョは帰国後渡したら、後日不評であったと聞いた。それは「チクチクするからやだ!」だった。

ペットボトル用のレース網の肩掛け袋売っていた。買おうと思って入ったが細かいお金が無く帰りに寄るから取っておいてくれ頼んで店を出た。目のクリッとした可愛い子だった。


3時間後ぐらいに寄った。
親父が店番していたので、娘はなんて言うのかなと思いながら「ドーターで通じるのかな?」

「レディは居る?」と声をかけた。
親父は、奥に向かって
「おーい、レディ!」と呼んでくれた。
しかし出てきたのは親父の奥さんだった。
ガクッ!

「違う違う違うょ ヤングだ」
ようやく娘が出てきた。
買って帰ったが、あまり使っていない。


フェアテールロッジ

2011年12月01日 | ネパール【2005年の旅】
2005年12月20日つづき

対岸は島ではなく、山を背負った湖の隘地に数棟のロッジとホテル建物を建造したようだ。
木造の年期の入ったロッジだ。
いつかわかりませんが、わが国の皇太子殿下もここのロッジにお泊りになられたそうです。いたく気に入られたと聞きました。


(ホテルの資料より)

(ロッジの名前を正しく思い出すのに、ネットで調べたら、1泊12,570円(スタンダード:agoraベスト価格)している。現地でアレンジしたほうが安いかもしれない。例のヒゲの旅行会社。)
(ちなみにレイクサイドの他のホテルは2,500円程度、この差はなんだろう)
そして、正式名はフィッシュテールロッジ。

ここポカラはフェワ湖を中心とした観光者向けのエリアと、空港の西・北に広がる都市部、それから少し北になる旧市街地、南に側に富裕層の一軒家が点在する地区に大まかに分かれると思った。


このフェア湖周辺でも、このロッジだけが対岸に位置する。これは山の景色で大きく差が出る。ポカラ最大の名山「マチャプチャレ」(魚のシッポ)の雄姿が多く見られ、また8000m超の「ダウラギリ」も見える立地にある。
(前出チャンドラ氏曰く、朝8時ごろしか見えない)

僕の部屋は、敷地内に4棟点在する八角形のロッジの一室だった。あの、ベタベタの二人はホテル建物の2階だと言っていた。






少し寒い。
暖かければ、部屋の前の椅子でボーっとできるが少し寒い。
敷地内を散歩した。ハンモックがあった。
今日はお客さんが少ないようだ。

日暮れ前に別棟の食堂へ行く。
ベタベタの二人は居なかった。
アラカルトで注文したが記憶にあるのはトマトスープだけだ。このトマトスープが旨かった。具よりスープそのものが旨い。
翌日は、バイキングにしてスープを沢山飲んだことを覚えている。

ベッドはそんなに良いベッドではなかった。
また寒かった。
隙間風なのか、冷え込む。
フロントに寒いといったら、電気ヒーターに送風機の付いたものを持ってきてくれたがあまり効かない。係りの方は、
「ベッドの方に向けないでほしい火事になるから。」
というが、少し離して向けて寝た。

朝起きてトイレに行くとシャワー室の窓が開いていた。
入り口から、寝室を通過して洗面所・トイレ・シャワー室が直線状にあって、シャワー室からの風がそのままベッドに来ていた。寒いわけだ。