あきさんの旅写真

海外旅行をした記憶のために撮った写真を、出来事と一緒に残しました。

再び28番線

2012年01月31日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日つづき


また「ビッカ」に乗った。「ビッカ」に乗らないと階段をのぼらなければならない。




上の駅には28番線が通っている。そのまま西に向かって乗った。
折り返しで、そのまま乗って戻ってくる。

少年3人ほど電車にぶら下がっている。無賃乗車というかぶら下がっている。
誰も注意しない。
この大らかさがいい。自己責任なのだ。





「サンセバスチャン広場」でまた降りた。
そこから、少し夕日に染まるテージョ川を望む。


少し歩くと、とても狭い路地を市電が通るところに来た。
「ぺぺ」という名の犬を連れたおばさん。ぺぺが可愛くてしょうがない。
下の2枚目の写真の左下にペペを抱いたおばさんが写っている。
写真を送ってほしいと頼まれお送りした。「ペペ」宛てに送ったが届いただろうか?









リスボン下町

2012年01月30日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日つづき

エレベータを降りてテージョ川に向かって歩き出した。

昨日に比べて天気がよく、またクリスマスも過ぎていろいろな人が外に出ていた。
まずは、、エレベータを降りたところで写真を撮ってあげた二人。
ポストの写真を撮っているとサッと写らないように気を使ってくれる。
この写真の奥の右がエレベータの上の降り口



つぎは、テンガロンハットのおじいさん。
チャールズとジムという。ジムがおじいさん。
チャールズが「足大丈夫か?」
ジム      「アー何でもない」





その坂道を下って市電の通るところに来ると
「ちょっと降りて来い」
「今忙しいの」
女性のほうが声がでかい。



そこから100mも離れていないところで
「ねーあなた、これどう思う」
「ウーン」



下の二つは想像。


市電も車も右側通行


赤いポストがひとつ。




28番線に乗る

2012年01月29日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日つづき


先ほどの小さな広場(サンセバスチャン広場と云う)に行こう。
その前に、バンド演奏していた食堂が静かになっていた。
一番奥の席に案内される。
イワシの塩焼きがある。それをもらおう。
「イワシとスープとサラダ」たいがいパンは付いてくる。
親父さんが戻ってきた。
「イワシは終わった」
「残念! ミートスパ」
「OK」
隣のマダムはイワシに間に合った。
僕は間に合わなかった。スパが来た。
「旨そうじゃないなー」
「ヤッパシ不味い」パサパサして旨くない。
隣のマダムが笑う。笑う、笑う。
結果、昼食はスープとサラダとパンとコーラ。
「バイバイ」


サンセバスチャンの広場からテージョ川がよく見える。
28番線で行ったり来たりしよう。
3?で市電とケーブルカーとバスとエレベーターが1日乗り放題でした。
1回の運賃は1.3?。




一旦下がる。いわゆるメインストリートの方だ。
アウグスタという通りここで降りる。ここを右に折れて500mほど行くとロシオ広場に出る。その途中を左にターンするとサンタジュスタのエレベーターに行ける。



エレベーターのそのまた上に上がれサンジョルジョのお城がよく見える。
展望台でバンド演奏中。
エレベーターからは高台の街並みにそのまま行け、テージョ川の方に坂を下った。





始めてきたとき宿を探して歩いたロシオ広場が近くに見える。
探した宿は、左側の見えないところになる。



サンジョルジョのお城

2012年01月28日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日つづき

サンジョルジョのお城は近代的な入場券売り場だった。
カードOKの看板が目につき、5?だったがカードで支払った。
大砲がリスボンのメインストリートに向かって数門配置されている。
石と木のお城。
空間と空間を石で仕切り、その仕切りの上は通路になっている。
地図の写真で云うところの右下が入口で、その地図の下半分がお城になる。



サンジョルジョ城




















アルファマ地区

2012年01月27日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日つづき



リベルターデの通りを下る。ロシオ広場も横切って進むと海のような川に突き当たる。テージョ川だ。湾のように広い。ここを左に行く。港湾地区になる。蒲郡という小さな港町で育ったせいか、こういう雰囲気は好きだが岸壁には入れなかった。左手が丘になっている。アルファマ地区だ。
小さな広場の端から街の中に入っていけそうだ。





その小さな広場からの上り口近くに来ると歌声が聞こえてくる。ファドだと直感した。練習している。
その上り口にファドの店があり、親父さんが掃除している。
「やぁ」
「ヤァ」
「ファドか?」
「そうだ、夜の8時からだ。 うちは良い歌手が来る。8時に来い」
「わかった。8時に来る」
中に入れてくれた。
普通のギターと丸いギターがあった。中が暗いせいか写真がぶれた。



そこから、路地を左にに行き、階段を上へと登る。
白い街
10分ほど行くと市電の通りに出た。そこはベランダになっていてテージョ川が見渡せる。
市電は、かの有名な28番線だ。
また、そこはサンジョルジョのお城への上り口でもあった。
市電の通りと城への道は二股で分かれている。左に下がるのが市電で、お城には右へ登って行かなければならない。
テラスのある小さな食堂があった。中からは生バンドが演奏中だ。帰りにしよう。
古い民家が立ち並ぶ界隈。洗濯物が高い位置に干してある。干してあるもので現代であると認識できるが、ここの風情は昔のままなのだろう.
計画通りことは進んでいる。







リスボンにて

2012年01月26日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月26日 リスボン



「エル・コルテ・イングレス」のエレベータのドアのデザイン。
日本では見たことがない。

翌朝、デパート「エル・コルテ・イングレス(El Corte Ingles)」行く。
どっちか云うと、スパーマーケットと家電店とスポーツデポとか、そういう店舗を6階建てにしたようなデパートだが、販売員は親切で助かった。

コンセントプラグを購入。
店員さんに『これに合うものポルファボーレ』と言って日本の2口コンセントを渡した。
いろいろなプラグ中から一つをバラシテくれた。
結局カルダスで買ったものと同じものを僕と違って壊さず処置できた。
構造を知るものの強みか。
ビニールテープで固定するようお願いした。

できたときは、握手を求められ二人で笑った。『よかった、よかった。ワハハハ・・。』
カルダスの街より前のオビドスでは、どうしたかと言うと、ここだけの話で、安全ピンをスタンドのスイッチの2次側に刺して洗濯バサミで挟んでカメラのバッテリだけ充電した。電流が小さいからできたことだけど、一時はどうしようかと思った。

次は、メモリー。故障の原因がわからない末の結果はメモリーを購入することにした。

右が僕がバンソコウで処置したもの。その左が店員さんが処置したもの、その左がおまけ

SD-カードリーダーを買おうと思ったが、Sandiskのキャンペーン中で4Gのメモリーを買うと、小さなカードリーダーがついてくる。
もしカードリーダーが壊れても、4Gを買い足しておけばこの先の写真はパソコンに保存しなくてもSDだけで足りるという計算もして、その4Gを購入した。
当時7000円ほどで国は違っても、そんなにそんな買い物ではないと思った。「これで安心」
El crate Ingres・・・このデパートには助けられた。CADISでの両替時もここで出来た。

また、リベルターデの通りを南下する。いわゆるテージョ川に向かって歩く。

これらの石畳は5㎝角の石を丁寧にゲンノウで砕いてひとつづつ並べていく。根気のいる仕事だと思う。ポルトガルは石畳の比率がスペインより多いと思う。

今日は、いろいろな店が開いている。
昨日は、高級ホテルでの昼食。今日の朝食は同じ通りのカフェに入って、名前は忘れたがあまり聞いたことのないサンドウィッチを頼んだ。口にあわなかった。


ここから、テージョ川沿いにある港まで行って、そこから丘に登り、サンジョルジョのお城に行こうと考えた。


リスボンで夕食

2012年01月25日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月25日つづき



「ビッカ」の下の乗り場付近からバス乗った。
行き先は、サンアポロの駅そこまで行ってみよう。
夕暮れと雨で暗くなった駅からアベニーダに戻る。
シティホテルなら切手は置いているかもと思い、アベニーダパレスに行きフロントに確認したが、置いていない。替わりに郵便局のあるところを教えてくれた。そんなに遠くないので行ってみたが「もう仕舞いだ」といって入れてくれなかった。まだ多くの人が中にいるのに。

例の郵便ポストのマークではなく、馬が走っている図柄が郵便局のマークだ。よく見るとラッパを拭いている。ドイツなどはホルンのマークが郵便局だが、ラッパで共通性を持たせたのか。
まだ切手が買えずにいる。

リスボン初ディナーは何にしようかな。

夕ご飯を何にしようか困った。と言うのもクリスマスはレストランが開いていない。
日中まったく気にせずにアッチコッチ動いていたが、さあーご飯というときに困った。
郵便局から下がると、始めてバスで降りたロシオ広場の方に行くが、ここらあたりにはレストランやカフェ、クラブのような看板が多く見られるが、シャッターが閉まっている。
ウロウロ歩いていると明るい所があった。中国料理店が開いていた。中国人にクリスマスは関係なく商売をやっていてくれた。ありがたい。

高級店ではなく普通の中国料理のお店だが、仕事は丁寧にやってくれている。少し味にインパクトが無かったが、まー旨かった。



夜のリスボンを散歩して帰った。









ビッカ

2012年01月24日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月5日つづき



小さな広場を市電が一周する所があった。
そこで市電に乗ると丁度うまいことに「ビッカ」の上の乗り場付近に行くことができた。
「ビッカ」は他の2箇所よりも少し傾斜がきついように思われる。スキーに行って初心者のころ「ここキツイナ」と思える斜度。20度くらいだろうか。


前の2箇所はケーブルカーの床はフラットで車両機構分が斜めになっていて低い側に長いスカートを穿いた格好だが、「ビッカ」は3箇所の入り口が段違いになっていって全座席の人が前の景色を見られる形になっている。デザイン的にはこっちのほうが好きだ。その3箇所の入り口からはボックス席になっていて3人しか入れない。

運転手の後にバーが有ってそこに立つと前の風景が見えなくなってしまう。乗った人は、そこのところを気遣ってバーの所には立たなかったが、出発真直に乗ってきた中国人の親子3人が真中の入り口から入ってきた。何か云いながら運転手うしろのバーの所に並んで立った。そして前の景色を写真に収めていた。

雨の降りがきつくなってきた。下の駅で少し待ってころあいを見て歩く。
ベルトの専門店があった。買って帰ろうと思ったが、なぜか長さに合うものが無い。工房のようになっていてハンドメイドで作っているようなお店なのに。

「ビッカ」にもう一度乗ろう。今度は登りに乗った。
一番後ろに乗った。
なぜ他の二つのケーブルカーと形状が違うのか乗ってみて分かった。
「ビッカ」は途中から傾斜が変わる。床がフラットで長いと傾斜がきつくなったときに床が傾斜するからだろう。「アー賢い。」

そして、また降りた。
その出発を待っているときケーブルカー横を歩いている小母さん滑ってこけた。
写真を撮ったあと申し訳ないと思って起こしに行ったがしばらく痛くて起き上がれない状態だ。しかし骨には異常ないと言ったが通じてない。




グロリア

2012年01月23日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月25日つづき



「ラブラ」の上の駅をお降りるとそこは住宅地になっている。閑静な住宅地の路地を街の景色が見える方に進んで行くと小さな公園があった。手すりのある広場で下を見るとプライベートを垣間見られるような位置であった。
この「ラブラ」誰が使うのだろうか?どのような時刻表なのだろうか、それで採算は合っているのだろうか?敷設当初は市民の足だろう。今は観光が主体でと市民の足としての利用は車に少しずつ移行したのだろう。この後に乗る「グロリア」も「ビッカ」もそう感じる。



リベルターデの通りを横切って、「グロリア」に乗ろう。横断歩道を渡ろうと待っていると
真っ赤なシトロエン2CVが来た。背景も車も1950年代だと言っても通用するのだろうか、午後2時のメインストリート。モノクロで焼いてみたい。
「グロリア」、ここも長さが300m程度。上に上がった雰囲気は「ラブラ」と少し違う。学校のような、あるいは教会のような、古い商人の会社のような街のイメージ。「ラブラ」の住宅地と違って広い通りが有り、車の行き来も多い生活感のあるエリアだった。
雨が降ってきた。「ビッカ」の方に歩く。
少し広場があって赤いポストと青いポストが狭い歩道に並んで立っている。赤と青の違いは何だろうか?そのポストのある前の建物は雑貨のような物とコーラなど飲み物など販売している。入って行って切手の有無を聞く。
「Me de スタンパ」
「ナォ」
無かった。










丘の街のケーブルカー「リブラ」

2012年01月22日 | ポルトガル・西【2007年の旅】

2007年12月25日つづき



カルダス・ダ・ライーニャの街で調達したコンセント。これは応急的にポルトガル仕様を日本のコンセントに合うように直して使用したもので接触が悪く、途中で充電していないこともあったり、また、接触不具合からの発熱も危惧されるため、キチッとしたコンセントのアダプターが必要だ。それと、昨日からSDカードを読み込むカードリーダーがデータを読み込んでくれない。それも必要で買いに行かなければならない。フロントで聞く。
「電気屋は近くにあるかい?」
「クリスマスは休んでいると思う、デパートも休みだと思うが、サンセバスチャンの駅にある」
「ありがとう」
サンセバスチャンの地下鉄駅に隣接して「エル・コルテ・イングレス(El Corte Ingles)」というデパートがあった。
閉まっていた。
ポルトガルのクリスマスは旅行者にとっては不便で暗く静かな日だ。

そのまま、歩いてアベニーダの方に進む。クリスマスは何もかもが休みなのだ。
カルダスのホテルで朝ごはんを食べたっきりだ、どこかで食べたいのだがレストランは休みばっかしだ。
アベニーダ近くまで歩いてくるとTivoliというホテルがあった。高級そうだ。ここのカフェがやっていた。サンドイッチとコーラでとりあえず腹ごしらえをした。

この後は、リスボン名物のケーブルカーを乗りに行こう。
丘は7つある。が、ケーブルカーは三つだ。











「ラヴラ線」「グロリア線」「ビッカ線」の三つです。
一番東にある「ラブラ」に乗って、リベルターデの通りを横切って、「グロリア」に乗り、少し離れているが最後に「ビッカ」にしよう。
1回1.3?、当時のレートは1?=167円。夢のような円安でした。
1回217円相当だが、これは少し高いと思う。1?=100円が妥当かな。
木製の椅子。50年前に乗った豊橋の市電をイメージできる。このケーブルカーもそのような歴史があると思う。
ケーブルカーの通り道は歩行者の生活道路にもなっていて、距離にして300M、しかも下りに1.3?は使えないよね。


リスボンへ

2012年01月21日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月25日

高速道路を使ってバスは行く。
楽しくない景色が続く。なんとなく目的地に近づいたなと感じたころ、郊外にあるターミナルにバスは入っていった。セッテリオスのバスターミナル。
このターミナルには国鉄と地下鉄の両方が乗り入れている。駅名が、セットリオスが国鉄で、セッテリオスが地下鉄の駅名になる。バスターミナルからは細い歩行者専用の跨線橋を渡って地下鉄の駅にいけるが、バスを降りたときはだだっ広いターミナルのコンコースでどっちだろうかと迷ったが、跨線橋がわかれば後は案内表示がしっかりしている。
ただ、リスボン市外のどのあたりに到着したのかイメージが湧かない。が北の方だろう。
しかし、この文章を寄稿するとき位置関係を確認すると25日に泊まるホテルは意外と近かった。直線で2kmはなかった。
ターミナル駅にしては静かだ。昼頃の時間なんだが人がいない。国鉄の休みが影響しているのだろう。地下鉄とバスは、国鉄に比較して組合が弱いのだろうか。よく考えれば、自己主張よりも顧客優先の考え方だろうか。

泊まるホテルの駅はサンセバスチャン、ここから歩くことになる。人通りの少ない道を歩く。途中、木立のある通りを行き右に曲がる。両サイドに車が駐車された道路の中ほどにコンクリート(モルタル)作りの古い建物がホテルだ。一見アパートのような外観であるが中は明るく小ぎれいだ。ドアを開けて中に入ると2つ目のドアがある。これは開かない。
ドア横の壁に押しボタンがあって、このボタンで来訪を知らせる。泊り客が少ないのだろうか静かだ。










国鉄が休み

2012年01月20日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月24日イブ~25日

数人でバスは出発した。
約40分でカルダス・ダ・ライーニャのバスターミナルに戻った。
食事をしようと街に出てみたが今日はだめだ。開いているところがない。あの「ニコル」も閉まっている。
ショーウィンドウだけが明るい。
なんと大胆なディスプレーだ。思わずパチッ




ホテルに戻り
「食事できる所をごぞんじないか?」
「駅前の方にやっている所がある」
「わかるか?」
「右側に小さい所だが明るい」
「オブリガード」
なるほど、商店街の外れ駅に近いところに明かりがある。
中は、若者の溜り場のようだが、ショーケースの中にオカズが数種類ある。
皿に、炒めたご飯と豚肉を炒めたものともうひとつチョイスして貰いコーラと一緒に食べた。
テーブルが5個ほどの奥に行くほど狭くなってくる小さな店の奥の方で、立ち話の数人の若者と、年老いたテーブルにひとり座って食事をする労務者のような人と、混ぜこぜで、混ぜこぜの食事をする。

翌朝、朝食はホテルでいただく。
フロントで、リスボンに帰る電車の時間を聞く。
「電車の時間をおしえて?」
「クリスマスは駅に行かないとわからないが動いていないかもしれない」
「オブリガード」
日本は正月でも電車は動く。ここではクリスマスは動かないらしい。


11時09分を確認しに駅に行ってみる。
駅員がいない。国鉄が休みだ。「ありかよー」
バスターミナルへ行ってみよう。この段階で帰りに寄ろうとしていたトーレスとサンタクルスはあきらめた。


『リスボン ウーノ ポルファボーレ』
『ナォ』
『ホント?』 
『ノン』
バスもないのか、ホントかよー。タクシーでリスボン行きも本気で考えた。
もう一度、切符売り場へ戻って見ているとリスボンの切符を買っていく小母さんがいた。
『リスボン ウーノ』 
『エキスプレス?』 
『シ!』
買えた。鈍行は無いらしい。


ナザレ 夕日

2012年01月19日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月24日イブ  つづき

海岸沿いをレプーブリカ通りの行き止まりまで歩く。
壁一面のアズレージョの家。
おまわりさんが駐車禁止を取り締まっている。
砂浜では漁師さんが魚網を直している。
ナザレの主婦は道端でナッツを売っている。焼き栗やピスタチオやアーモンドなどの豆類だ。
安いのだけれど、栗にカビが生えており3分の1は捨てた。
別のおばさんから買ったピスタチオは塩辛い。
買わずに写真も撮りにくいからね。
暮れの海に人はいないが夏場は人口が4万人ほど増えるそうだ。ビーチには一面規則正しくパラソルが並ぶが、今は冬。とってもすばらしい砂浜を歩ける。
ここを歩いているものは、僕とカモメと波の音だけ。


写真が続きますが、下にも文があります。





























夕陽に透ける波がクリアグリーンに光る。
南の空が薄赤く雲がオーロラのようになってきてやがて陽が沈む。
バスの時間は、18時40分まだ時間がある。


路地を歩くとまた「Jacinta」物干しの前に来てしまった。青い小さなパンツはなかった。これのみ取り込んだのだろうか。デカイ白いパンツが、「今夜はここで過ごすのか・・・」と独り吾ちていた。
陽の落ちた街並みを崖の上から見たかったが、40分では無理だろう。海に向かって路地が並ぶが、これが家1軒ごとに路地ができる。その一つ一つの路地がイブとその他の日とでは違う様相だろうな。今日は鰯をまったく焼いていない夕暮れなのだが、明日からは鰯を焼く喧騒の日々だろうと想像する。
バスターミナルに戻った。近くにケーキ(リング)と鶏のモモを焼く店があった。「完売だ」とおばさんがにこやかに言う。バス停近くのパン屋さんで紅茶とパンを貰う。ポルトガルのパンは旨くないがここのは旨かった


南国ナザレに雪が降る

2012年01月18日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月24日つづき

下りは歩いていこう。


コンクリートの1~2m幅の道がくねってブライアの街に消えて行く。
8割かた降りると人家も増えてくる。そして高度を稼ぐために車道が円を描いた道があり、その中は丸い石畳の広場になっている。


黒猫がそこにいた。
話しかけると「なんだ、このおっさん」といぶかしがりこっちを見ながら駐車場を横切って去って行く。

ケーブルカーの駅よりももっと海から遠くなる。
ここらあたりは普通の住宅だ。
このまま南に、つまり町の中心部の方に進んで行くと普通の町の商店街になった。
ナザレファッションのおかみさんが忙しなくイブの午後の商店街を早足で歩いている。


ここへ来たら鰯の塩焼きを食べることが使命と考え、探すが意外と見つからない。路地に鰯を焼くコンロが出ているがもう片付けてある。

日差しが夕日になる前に写真を撮りたくて、食事を後回しにしたことが失敗だった。
4時を過ぎると店がやっていない。火を落としたとか言って断られた。そうか今日はイブだ。
早く終わってしまう。

南国ナザレに雪が降っていた。
サンタクロースがやってきて子供たちにサービスしている。
小さな広場がある。海岸線を走るメインの通りをレプーブリカ通りと言って、その海沿いの途中にある。そこだけ雪が降っている。雪に見たてた泡を降らして南国の子供たちあるいはここを訪れた人たちへのサービスだ。
この広場の一角にあるレストラン(喫茶店+α)で食事をしたが鰯はなかった。フレンドリーな店主がカウンターの中で応対してくれる。結局コーラとホットドッグしか食べられなかった。




ナザレ シティオ

2012年01月17日 | ポルトガル・西【2007年の旅】
2007年12月24日つづき

ケーブルカーは下の町の海岸線から100mほど入った所にあった。少しわかりにくい。と言うのもガラスとステンレスでできた建物で、駅というイメージとずれていた。まだ新しいのだろう。これが無かったころは足で登ったのだろうか。


ケーブルカーで丘の上の町に来た。
教会と、広場と土産物屋さんが続く。





でも少し行くと生活感がたっぷりの町になる。
ナザレファッションのおかみさんたちが話している街角のベランダには、サンタクロースが侵入しようとぶら下がっている。
どこの町でも午後のひと時は憂さ晴らしのおしゃべりタイムだろうか。

この上の町をオ・シティオ地区といい、下の町はア・ブライアと呼ばれている。このシティオ地区の頂上部がブライアの街並みを望む断崖の上になり標高は110m。

そこには、大きな教会と小さな礼拝堂がある。
大きな教会はノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会といいベンガラ色の屋根と石造りのどっしりとしたもので、前広場には太い椰子の木が2本並んで植えられており、ここは南国なのだと思わせる。昼下がりの広場は静かだった。


小さな礼拝堂は中に階段があって下へ降りると小さな窓がありこの窓は絶壁の上部に位置し100m下の海岸線が中空からの俯瞰図のように見え、崩れたらやばいなーと思わせる。

小学校の校庭ほどの広場の南側は絶壁で、約50cmの厚みの石の塀がある。
この塀というか防御壁というかこの途中途中に椅子が拵えてあって老人が休んでいた。


その横から下を除く。
アクアグリーンとコバルトグリーンの海が透けて見える。
この絶壁にテラスがある。低い小さな縁もあって昔からこのテラスがあってそこに人は立ったのかと思うと、なぜ?と考えてしまう。