☆ 今 日 の 幸 せ ☆

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悲しみは、人の絆を深めるか?

2006-04-22 | 記憶に残したい言葉
悲しみは、いくら言葉で、説明しようとしても、できないものなのだろう。

昨日、JR福知山線の事故からほぼ1年たったということ(4月25日でしたね)で、ドラマ仕立ての、家族の、事故当時の様子や、現在が、放映されていた。

その3日後に、同居人の突然死。 その時は、何も考えられなかったけれども、このJR事故で、将来ある子供や、愛する者を亡くした家族の心痛を思い、なんとか、自分の心を慰めようとした記憶がある。

最近みたDVD, 息子の部屋

これに入っているボーナストラックをみていたら、監督インタビューで、こんな言葉がでてきた。

「悲しみは、人の絆を強める」という言葉があるけれども、逆にバラバラにすることもある。

しみじみと、わかるような気がする。

blogで、その心情を綴ったところで、現実のまわりに居る人が真剣に読んでくれるわけでなし、生活背景の違う人間が、勝手な解釈で、読むわけで、書いてるほうだって、それは意識してる。

ところが、現実の場において、いつまでも、グズグズといってると、それは、「グチ」と大同小異。 慰める言葉をもたない人間にとっては、「ウザイ」ということになるのかもしれない。

「幸せは、一様に幸せだけれども、不幸は様々に不幸である」という有名な言葉を借りるなら

喜びは、だれでも、同じように感じられるけれども、悲しみは、同じように悲しんでくれ、とは言えない。

この「息子の部屋」に出てくるお父さんは、精神分析医の役なのだけれども、分析医は「受容と客観視」ができなければ、勤まらない。 患者と同じように、悲しみを抱えてしまった今は、仕事ができないと、中断してしまう。 すべてを話したのに、どうしてくれるんだ、と詰め寄る患者。 それは、「悲しみを同じように、感じてほしい」と、相手に要求することから、発せっられた言葉なのだろう。

家族ならば、身近な人間ならば、どうなのだろう? 同じように、悲しんでいるのだろうか?  お葬式で、皆が涙を流しても、その涙の色は、どんなに、親しいものであっても、同じではない。 悲しみって、そんな様々な色をもっているのだろう。

そして、今、読みすすんでる、曾野綾子さんの「哀歌」、厳しい環境の中で、日常的に起こる、死や事件。 それに対して、日本人のシスターの目から、いろんな感想が綴られる。

人の悲しみは、受容するのであって、理解するものではない。

”雨ニモ マケズ、風ニモ マケズ...”