道端でネコに出会うと、口から妙な音をさせながら手をひらひらさせてしまう。これは
人類に共通した衝動らしく、どこの国へ行っても同様の行動を取る人間がいる。
ネコや動物が嫌いな人はしないだろうが、それは嫌悪や恐怖によって行動が抑圧されて
いるだけだ。ネコが嫌いではないが、さほど気にならない人もいる。関心の優先順位の
上位に動物が登録されてないタイプだ。関心の上位に登録されているものが辺りにない時
には、このタイプもネコに興味を持つ。
野良猫は猜疑心が強いので簡単には寄ってこない。それは常識なので皆わかっている。
それでも「ちっ、ちっ、ちっ」などど謎の音を出してネコの注意を引き、指先を波打たせ
るように突き出す。目線をできるだけネコの高さに近づけながら、ゆっくり寄っていく。
このような人間の行動を、ネコがどう思っているのかはわからない。最初は警戒している
ネコでも、辛抱強く同じ行動を繰り返していると、そのうちに近くに寄ってくる。
この行動から、人間が呼んでいるのは理解しているようだ。そして行動は意味不明だが、
少なくとも危害を加える様子はないと判断している。しかしそれだけでは寄っていく理由
にならない。何かを期待できない限り、ネコが自分から寄っていく行動を取る必要は
ない。食べ物を持っている匂いはしないし、それを自分に与える理由を思いつかない。
顔見知りでもない人間がどんな理由で呼んでいるのか、論理的な結論には至らない。
論理や状況判断に迷ったネコは本能メモリにアクセスする。すると、遺伝子プリセット
メモリの奥底に、先祖が人間と暮らしていた事、人間はたぶん仲間だということ、なぜか
自分たちと遊びたがり、なぜかエサをくれる存在だというデータが引き出される。
野良猫が長い逡巡の後に寄ってくるのは、このような心的処理が行われた末であり、
人間に擦り寄ると「なにかいい事が起こる可能性が高い」という判断に至ったと考える
ことができる。
で、人間に近づいてみると、頭や顎や背中をなでてくる。もうやたらになでまくるのだ。
この「撫でる」という行為は、猿系以外の動物には難しい。大抵の動物の愛情表現は
「舐める」だ。だからいきなり「撫でる」という行為をしてくる人間の行動は、理解
しにくいので戸惑う。しかし痛いわけでもなく、どちらかというと心地よい感覚なので、
しばらく身を任せて様子を見てみる。
ネコ自身、興味をひく小さい動物にちょっかいを出すことは珍しくない。その際、手を
出して突っついてみたり、転がしてみたりする。そのような経験から、この大きな二足
歩行動物も、自分に興味を持ってつつき回すつもりなのだなと思う一方、それは遊ぼう
という誘惑なのだと理解する。観察してみると、この大きな動物は意外にどんくさい。
俊敏さは自分にはるかに劣るようだ。もし調子にのって危害を加えようとするなら、
いくらでも反撃できるという確信を持つ。さあ、やれるならやってみろ。
そういう心理状態なのかどうかは想像だが、初対面時のネコは大抵同じような反応だ。
哺乳類共通のプロコトルがあるように思える。
人間がちょっかいを出したくなるのは、犬・ハムスター・ウサギなどにも共通する。
しかし犬は人に慣れすぎ、寄ってくる可能性が高すぎて手懐ける達成感が少ない。
ハムスターは小さすぎ、行動パターンが単純すぎる。ウサギもかわいいがどうしても
「おいしそう」という感情が芽生えてくる。これらの動物には「自我」が足りない。
「自分の都合」で生きているという知能に乏しく、その主体性のなさが物足りない。
そこへいくとネコは自己都合で生きており、人間側がいろんな交渉を仕掛ける余地が
ある。つまり交渉が上手ければネコを攻略できる醍醐味や達成感があるのだ。
そのネコよりも達成感や醍醐味があるのが人間の赤ん坊や子供だ。大抵の者が赤ん坊を
見ると、その状況が許される限りにおいてちょっかいを出したくなる。
pcfxは、スーパーのレジなどで並んでいるときに、前にいる母親がおんぶした赤ん坊が
こちらを向いていると、「あやさなければ」という強い衝動にかられる。しかし周囲は
衆人環視であり、全くの他人である変なオヤジが手を出せば怪しまれる。そこで無言で
赤ん坊に「変な顔を見せる」という、消極的かつ変態的な行動に出てしまうのだ。
成功率は半々で、喜んで笑う赤ん坊もいれば、警戒した目で見つめ続ける赤子もいる。
最悪なのは、変な顔をしたまさにその時、母親が振り向いて目があってしまう時だ。
大抵は「ああ、赤ん坊を相手にしてたのね」という理解を瞬時に得られるが、人によって
は「ひっ!」と驚かれてしまい、それが赤ん坊に向けられたものだという事に理解が
及ぶまでに少々の気まずい時間を要する。
そんなリスクをおかしてでも、赤ん坊を見ると「あやさなければ!」という使命感が
何度でもこみあげ、スーパーのレジで変な顔をし続ける自分がいるのだ。
幼稚園児くらいまでの子供にも、似たような衝動を感じる。電車の中などで走りまわって
いる子供が近くに来て、pcfxをじっと見ている時など、「菓子など持ってなかったか」と
自分のバッグの中身をスキャンしてしまう。しかしこういうご時世のため、例え持って
いても子供に渡すわけにはいかない。そのくらいでペド犯罪者として逮捕されることは
ないと思うが、その菓子の成分がどうとか、アトピーがどうとか、知らない人に物を
もらったらどうとか、そういう厄介な拒否を受けたくないからだ。
そのような行為が許される国へいくと、pcfxは子供に菓子を与え、ヒザに抱え、絵を
書いたりおもちゃで遊んだりして、際限のない子供の無限要求に全て答える。そうする
と親にも感謝され、子供も満足し、自分のちょっかい衝動も満たされるのだ。誰も損を
しないすばらしい環境だ。
人間の子供も小動物も、このようにちょっかいを出したくなる衝動を喚起させる。
しかし人間の子供はもう阻害されており、最近は外をフラフラしてる飼い犬も
見かけない。そういう心寂しい世の中で、唯一道端にいるヒマそうな高等哺乳類が
野良猫だ。
今日も駐輪場でpcfxのバイクのシートに我が物顔で寝そべっている。こちらを見ているが
降りようとする気配はない。ゆっくり近づくと徐々に体勢を変えるが、バイクにキーを
差し込んでもまだ降りない。明らかにどこまで許されるのか試している。セルモーターを
回してエンジンがかかると驚いて飛び降りるが、近くでまだこちらを見ている。
本当はそのネコを手懐けていつまでも遊びたいが、用事があるから出かけるのだ。
ネコは自分の寝床を奪って走り去るpcfxを見送っている。寝床が発進するってどういう
気持ちなんだろう、と想像しながら、まだネコに未練を感じているpcfxだった。
人類に共通した衝動らしく、どこの国へ行っても同様の行動を取る人間がいる。
ネコや動物が嫌いな人はしないだろうが、それは嫌悪や恐怖によって行動が抑圧されて
いるだけだ。ネコが嫌いではないが、さほど気にならない人もいる。関心の優先順位の
上位に動物が登録されてないタイプだ。関心の上位に登録されているものが辺りにない時
には、このタイプもネコに興味を持つ。
野良猫は猜疑心が強いので簡単には寄ってこない。それは常識なので皆わかっている。
それでも「ちっ、ちっ、ちっ」などど謎の音を出してネコの注意を引き、指先を波打たせ
るように突き出す。目線をできるだけネコの高さに近づけながら、ゆっくり寄っていく。
このような人間の行動を、ネコがどう思っているのかはわからない。最初は警戒している
ネコでも、辛抱強く同じ行動を繰り返していると、そのうちに近くに寄ってくる。
この行動から、人間が呼んでいるのは理解しているようだ。そして行動は意味不明だが、
少なくとも危害を加える様子はないと判断している。しかしそれだけでは寄っていく理由
にならない。何かを期待できない限り、ネコが自分から寄っていく行動を取る必要は
ない。食べ物を持っている匂いはしないし、それを自分に与える理由を思いつかない。
顔見知りでもない人間がどんな理由で呼んでいるのか、論理的な結論には至らない。
論理や状況判断に迷ったネコは本能メモリにアクセスする。すると、遺伝子プリセット
メモリの奥底に、先祖が人間と暮らしていた事、人間はたぶん仲間だということ、なぜか
自分たちと遊びたがり、なぜかエサをくれる存在だというデータが引き出される。
野良猫が長い逡巡の後に寄ってくるのは、このような心的処理が行われた末であり、
人間に擦り寄ると「なにかいい事が起こる可能性が高い」という判断に至ったと考える
ことができる。
で、人間に近づいてみると、頭や顎や背中をなでてくる。もうやたらになでまくるのだ。
この「撫でる」という行為は、猿系以外の動物には難しい。大抵の動物の愛情表現は
「舐める」だ。だからいきなり「撫でる」という行為をしてくる人間の行動は、理解
しにくいので戸惑う。しかし痛いわけでもなく、どちらかというと心地よい感覚なので、
しばらく身を任せて様子を見てみる。
ネコ自身、興味をひく小さい動物にちょっかいを出すことは珍しくない。その際、手を
出して突っついてみたり、転がしてみたりする。そのような経験から、この大きな二足
歩行動物も、自分に興味を持ってつつき回すつもりなのだなと思う一方、それは遊ぼう
という誘惑なのだと理解する。観察してみると、この大きな動物は意外にどんくさい。
俊敏さは自分にはるかに劣るようだ。もし調子にのって危害を加えようとするなら、
いくらでも反撃できるという確信を持つ。さあ、やれるならやってみろ。
そういう心理状態なのかどうかは想像だが、初対面時のネコは大抵同じような反応だ。
哺乳類共通のプロコトルがあるように思える。
人間がちょっかいを出したくなるのは、犬・ハムスター・ウサギなどにも共通する。
しかし犬は人に慣れすぎ、寄ってくる可能性が高すぎて手懐ける達成感が少ない。
ハムスターは小さすぎ、行動パターンが単純すぎる。ウサギもかわいいがどうしても
「おいしそう」という感情が芽生えてくる。これらの動物には「自我」が足りない。
「自分の都合」で生きているという知能に乏しく、その主体性のなさが物足りない。
そこへいくとネコは自己都合で生きており、人間側がいろんな交渉を仕掛ける余地が
ある。つまり交渉が上手ければネコを攻略できる醍醐味や達成感があるのだ。
そのネコよりも達成感や醍醐味があるのが人間の赤ん坊や子供だ。大抵の者が赤ん坊を
見ると、その状況が許される限りにおいてちょっかいを出したくなる。
pcfxは、スーパーのレジなどで並んでいるときに、前にいる母親がおんぶした赤ん坊が
こちらを向いていると、「あやさなければ」という強い衝動にかられる。しかし周囲は
衆人環視であり、全くの他人である変なオヤジが手を出せば怪しまれる。そこで無言で
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最悪なのは、変な顔をしたまさにその時、母親が振り向いて目があってしまう時だ。
大抵は「ああ、赤ん坊を相手にしてたのね」という理解を瞬時に得られるが、人によって
は「ひっ!」と驚かれてしまい、それが赤ん坊に向けられたものだという事に理解が
及ぶまでに少々の気まずい時間を要する。
そんなリスクをおかしてでも、赤ん坊を見ると「あやさなければ!」という使命感が
何度でもこみあげ、スーパーのレジで変な顔をし続ける自分がいるのだ。
幼稚園児くらいまでの子供にも、似たような衝動を感じる。電車の中などで走りまわって
いる子供が近くに来て、pcfxをじっと見ている時など、「菓子など持ってなかったか」と
自分のバッグの中身をスキャンしてしまう。しかしこういうご時世のため、例え持って
いても子供に渡すわけにはいかない。そのくらいでペド犯罪者として逮捕されることは
ないと思うが、その菓子の成分がどうとか、アトピーがどうとか、知らない人に物を
もらったらどうとか、そういう厄介な拒否を受けたくないからだ。
そのような行為が許される国へいくと、pcfxは子供に菓子を与え、ヒザに抱え、絵を
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と親にも感謝され、子供も満足し、自分のちょっかい衝動も満たされるのだ。誰も損を
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人間の子供も小動物も、このようにちょっかいを出したくなる衝動を喚起させる。
しかし人間の子供はもう阻害されており、最近は外をフラフラしてる飼い犬も
見かけない。そういう心寂しい世の中で、唯一道端にいるヒマそうな高等哺乳類が
野良猫だ。
今日も駐輪場でpcfxのバイクのシートに我が物顔で寝そべっている。こちらを見ているが
降りようとする気配はない。ゆっくり近づくと徐々に体勢を変えるが、バイクにキーを
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本当はそのネコを手懐けていつまでも遊びたいが、用事があるから出かけるのだ。
ネコは自分の寝床を奪って走り去るpcfxを見送っている。寝床が発進するってどういう
気持ちなんだろう、と想像しながら、まだネコに未練を感じているpcfxだった。