minority resistance

pcfx復活ブログ

ちょっかい衝動

2011年02月23日 | そのた
道端でネコに出会うと、口から妙な音をさせながら手をひらひらさせてしまう。これは
人類に共通した衝動らしく、どこの国へ行っても同様の行動を取る人間がいる。
ネコや動物が嫌いな人はしないだろうが、それは嫌悪や恐怖によって行動が抑圧されて
いるだけだ。ネコが嫌いではないが、さほど気にならない人もいる。関心の優先順位の
上位に動物が登録されてないタイプだ。関心の上位に登録されているものが辺りにない時
には、このタイプもネコに興味を持つ。

野良猫は猜疑心が強いので簡単には寄ってこない。それは常識なので皆わかっている。
それでも「ちっ、ちっ、ちっ」などど謎の音を出してネコの注意を引き、指先を波打たせ
るように突き出す。目線をできるだけネコの高さに近づけながら、ゆっくり寄っていく。

このような人間の行動を、ネコがどう思っているのかはわからない。最初は警戒している
ネコでも、辛抱強く同じ行動を繰り返していると、そのうちに近くに寄ってくる。

この行動から、人間が呼んでいるのは理解しているようだ。そして行動は意味不明だが、
少なくとも危害を加える様子はないと判断している。しかしそれだけでは寄っていく理由
にならない。何かを期待できない限り、ネコが自分から寄っていく行動を取る必要は
ない。食べ物を持っている匂いはしないし、それを自分に与える理由を思いつかない。
顔見知りでもない人間がどんな理由で呼んでいるのか、論理的な結論には至らない。

論理や状況判断に迷ったネコは本能メモリにアクセスする。すると、遺伝子プリセット
メモリの奥底に、先祖が人間と暮らしていた事、人間はたぶん仲間だということ、なぜか
自分たちと遊びたがり、なぜかエサをくれる存在だというデータが引き出される。

野良猫が長い逡巡の後に寄ってくるのは、このような心的処理が行われた末であり、
人間に擦り寄ると「なにかいい事が起こる可能性が高い」という判断に至ったと考える
ことができる。

で、人間に近づいてみると、頭や顎や背中をなでてくる。もうやたらになでまくるのだ。
この「撫でる」という行為は、猿系以外の動物には難しい。大抵の動物の愛情表現は
「舐める」だ。だからいきなり「撫でる」という行為をしてくる人間の行動は、理解
しにくいので戸惑う。しかし痛いわけでもなく、どちらかというと心地よい感覚なので、
しばらく身を任せて様子を見てみる。

ネコ自身、興味をひく小さい動物にちょっかいを出すことは珍しくない。その際、手を
出して突っついてみたり、転がしてみたりする。そのような経験から、この大きな二足
歩行動物も、自分に興味を持ってつつき回すつもりなのだなと思う一方、それは遊ぼう
という誘惑なのだと理解する。観察してみると、この大きな動物は意外にどんくさい。
俊敏さは自分にはるかに劣るようだ。もし調子にのって危害を加えようとするなら、
いくらでも反撃できるという確信を持つ。さあ、やれるならやってみろ。

そういう心理状態なのかどうかは想像だが、初対面時のネコは大抵同じような反応だ。
哺乳類共通のプロコトルがあるように思える。



人間がちょっかいを出したくなるのは、犬・ハムスター・ウサギなどにも共通する。
しかし犬は人に慣れすぎ、寄ってくる可能性が高すぎて手懐ける達成感が少ない。
ハムスターは小さすぎ、行動パターンが単純すぎる。ウサギもかわいいがどうしても
「おいしそう」という感情が芽生えてくる。これらの動物には「自我」が足りない。
「自分の都合」で生きているという知能に乏しく、その主体性のなさが物足りない。

そこへいくとネコは自己都合で生きており、人間側がいろんな交渉を仕掛ける余地が
ある。つまり交渉が上手ければネコを攻略できる醍醐味や達成感があるのだ。



そのネコよりも達成感や醍醐味があるのが人間の赤ん坊や子供だ。大抵の者が赤ん坊を
見ると、その状況が許される限りにおいてちょっかいを出したくなる。

pcfxは、スーパーのレジなどで並んでいるときに、前にいる母親がおんぶした赤ん坊が
こちらを向いていると、「あやさなければ」という強い衝動にかられる。しかし周囲は
衆人環視であり、全くの他人である変なオヤジが手を出せば怪しまれる。そこで無言で
赤ん坊に「変な顔を見せる」という、消極的かつ変態的な行動に出てしまうのだ。
成功率は半々で、喜んで笑う赤ん坊もいれば、警戒した目で見つめ続ける赤子もいる。

最悪なのは、変な顔をしたまさにその時、母親が振り向いて目があってしまう時だ。
大抵は「ああ、赤ん坊を相手にしてたのね」という理解を瞬時に得られるが、人によって
は「ひっ!」と驚かれてしまい、それが赤ん坊に向けられたものだという事に理解が
及ぶまでに少々の気まずい時間を要する。

そんなリスクをおかしてでも、赤ん坊を見ると「あやさなければ!」という使命感が
何度でもこみあげ、スーパーのレジで変な顔をし続ける自分がいるのだ。



幼稚園児くらいまでの子供にも、似たような衝動を感じる。電車の中などで走りまわって
いる子供が近くに来て、pcfxをじっと見ている時など、「菓子など持ってなかったか」と
自分のバッグの中身をスキャンしてしまう。しかしこういうご時世のため、例え持って
いても子供に渡すわけにはいかない。そのくらいでペド犯罪者として逮捕されることは
ないと思うが、その菓子の成分がどうとか、アトピーがどうとか、知らない人に物を
もらったらどうとか、そういう厄介な拒否を受けたくないからだ。

そのような行為が許される国へいくと、pcfxは子供に菓子を与え、ヒザに抱え、絵を
書いたりおもちゃで遊んだりして、際限のない子供の無限要求に全て答える。そうする
と親にも感謝され、子供も満足し、自分のちょっかい衝動も満たされるのだ。誰も損を
しないすばらしい環境だ。


人間の子供も小動物も、このようにちょっかいを出したくなる衝動を喚起させる。
しかし人間の子供はもう阻害されており、最近は外をフラフラしてる飼い犬も
見かけない。そういう心寂しい世の中で、唯一道端にいるヒマそうな高等哺乳類が
野良猫だ。

今日も駐輪場でpcfxのバイクのシートに我が物顔で寝そべっている。こちらを見ているが
降りようとする気配はない。ゆっくり近づくと徐々に体勢を変えるが、バイクにキーを
差し込んでもまだ降りない。明らかにどこまで許されるのか試している。セルモーターを
回してエンジンがかかると驚いて飛び降りるが、近くでまだこちらを見ている。

本当はそのネコを手懐けていつまでも遊びたいが、用事があるから出かけるのだ。
ネコは自分の寝床を奪って走り去るpcfxを見送っている。寝床が発進するってどういう
気持ちなんだろう、と想像しながら、まだネコに未練を感じているpcfxだった。

水と日本人

2011年02月23日 | ドライブとかりょこうとか
資本主義が未発達な大昔から、日本人はマネーロンダリングを民間レベルで行ってきた。

西洋資本主義ではマネーロンダリングを金融業者を媒介して行うのが常であるが、日本人
は神様を媒介して行う。

マネーロンダリングは「資金浄化」と訳され、資金の出処がチョーヤバイ系だった場合に
一旦投資して回収したり、銀行に預けてから別の口座に振り込んだりして、出処をわから
なくしてしまう裏テクだ。

それに対して日本人は「弁天様の湧き水で銭を洗うとお金が増える」というスタイルの
「資金浄化」を平安の時代から行なってきた。「銭洗い弁天」である。

「なんじゃそれ、ぜんぜんマネロンとちがうくね?」という感想だろうか。しかし通貨を
洗浄してキレイにすることで、通貨が大事だという認識を再確認し、大切に使おうとする
意識から節約をするようになり、その結果物価が最適化され、生産のコストダウンや
流通の簡素化や販売方式の効率化が生まる。最終的に財産が増える事になるのだ。

また、貨幣は流通している間に汚れる。そのうちに真っ黒になり、真贋を見分けるのが
困難になってしまう。だからといって一旦全ての貨幣を政府が回収してクリーニングする
のは無理だし、やったとしても手間もコストもかかる。しかしほっておくと真贋を見分け
られなくなって偽金が横行し、国の経済が疲弊してしまう。
「だったら民間人に持ってる銭を自分で洗わせるようにすればよくね?」という発想が
「銭洗弁天」だ。

マネーロンダリングは違法な資金を流通させ、その結果本人だけは儲かるが、経済全体は
不健康な状態に陥る。儲かるなら何をやっても良いという風潮が生まれ、風俗は乱れ、
治安も悪くなる。社会コストが増大し国家経済が疲弊してしまう。

どちらの「資金浄化」の概念が優れているかは一目瞭然だ。


日本で流通しているお札はキレイだ。しわくちゃな紙幣などここ数十年みたことない。
ところが経済が未発達な国へいけばいくほど、お札は汚れておりシワシワ。落書きされ
たり穴を空けられていたり破れていたり。コインも同様に汚い。

ピン札が「正常」の日本のお札は、銭洗弁天の「資金浄化」の概念が、未だ民間レベル
で健在な証拠だ。「キレイなお金が好き」という事は、実は非常に大事な事なんじゃ
ないだろうか。



ドライブしながら日本のアチコチにある「銭洗弁天」を見て、そんな事を考えていると、
今度は「不動の滝」が見えてくる。もう「滝」といえば「不動」なんじゃないかと
思うほど、「不動の滝」はどこにでもある。

日本の地形は多くが山だ。そして日本は地震国だ。この二つを合わせると、「地滑り」
という災害が多い事になる。

不動の滝の云われは数あるが、「山が崩れませんように」という願いが込められている
ものもあろう。「山が崩れる」事を「滝が流れる」事に置き換えて、身代わりになって
もらっているのかもしれない。「身代わり不動」という不動さんもある。

実際に、山が崩れるのは降雨による地盤の弱化が原因であり、山の地中にうまく水が
流れる経路が十分にあれば弱化しにくい。その経路の終点が滝であり、地下水がドバドバ
落ちてくるのだ。しかし地下の水路網が細い場合、山の地表面に水が飽和して軟弱化し、
重力で流れ落ちてしまう。滝があるのは山が健康な証拠だ。

また、滝はどんなチャチなものであっても人の目を惹きつける。山肌からチョロチョロと
染み出てる程度でも、冬場になるとそこで凍りつき、大きな氷塊になって存在を誇示
する。何も無い山の中の観光スポットとしても滝は重宝され、地域の象徴にされてきた。
壮大な滝になると大勢の観光客があつまり、常温で液体の一酸化二水素が重力で自由落下
する様を見物しに、えらい遠くから化石燃料を消費してまでやってくる。
そして滝を見て「なんだかわかんないけど、ありがたいものであるなあ」と感じるのだ。


そんな事を思いながら車に乗っていると、今度はダムが見えてくる。全国どこにでも
ダムがあり、大量の水をこれでもかと貯めている。時には村や町をまるごと沈めてでも
ダムを作る。ダムの水面近くに、昔使われていた道路が地上から水中に向かって伸びて
いたり、地上だった所から生えた樹木のてっぺんが水中から見えていたりする。ダムに
沈んだ村を見て、全然縁のなかったその他人の住居地に身勝手な郷愁を感じたりする。
そして何でも沈める行政に理不尽な怒りを覚えつつ、ダム施設の売店で名物を食べる。
帰る頃には郷愁や怒りは飽きや満腹感にすり替えられており、「でもまあ水不足はイヤ
だし、しょうがないよね」という思考停止で幕を閉じるのだ。

たいていのダムの周囲には道路が一周しており、時折そこに車が止まっている。夏なら
魚とったりキャンプしたり水遊びしたりという想像がつくが、ダムってそんな事して
いい場所だっけ?という疑問がよぎる。しかし真冬の深夜にも無人の車が止まっており、
一体なにをしてるのか想像すらつかない。


そういう疑問を巡らせながら車を走らせていると、温泉地に到着する。鄙びた温泉宿
などではなく、道の駅に隣接したガラス張りでピカピカの温泉浴場だ。何の用意もして
ないが、タオルもシャンプーも下着も売っているからそのまま入れる。全身を泡だらけ
にしたらお湯でドバっと流し、たくさんある浴槽のひとつにつかる。熱い風呂、ぬるい
風呂、薬湯、電気風呂、そして露天風呂もある。頭にタオルを乗せて外をながめている
と、川が流れていたり鉄道が走っていたり。

湯上りに自販機で買ったコーヒー牛乳など飲みつつ、

「ああああ、やっぱ日本っていいわ」

などとニワカにナショナリストを気取る。日本人は水でジャブジャブなのが大好きな
国民であり、平野の少ない山だらけで自然災害だらけの土地に住むリスクを負う代償
として、豊富な水と入浴エンターテイメントを得た。

ヨーロッパなどでは水を使う事に罪悪感すら感じることが時折あるが、日本ではそんな
罪悪感も水に流せる。垢をためて聖人ぶるよりも、禊で神へ礼を表す。体臭を隠す事に
神経を使うよりも、行水して体表から臭いの元を取り去る。

「浄化」の概念の違いは経済だけに留まらない。そんな空想をしながら車は家路を走る。
「隠す文化」と「流す文化」。pcfxはやはり日本のほうが好きだ。