
神の御求めになるのは、きれいな立派な人ではなく、
悪いことをしながらも、それに気付いたら、すぐに
帰ることのできる人です。
(「ルカによる福音書」下11―24章 蓮見和男著 新教出版社 )
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キリスト教でよく言われる「神への回心」とは上記引用文のようなことである。
「悪いこと」を悪いことだと気づかせてくださるのは主ご自身である。ある意味でいわゆる「悪い人」というのは神ととなりあわせの人である。「回心」とは自分の心を自分の意志で神の方へと向かわせることである。この「自分の意志」がほんとうにあるかどうかは特に大切である。まさかあなたは他の人に勧められて神の方を向いたのではあるまい。人間なら「自分の意志」を持ってフツーである。
この「自分の意志」を打ち消しながら生きているのだとしたら、あなたは「今日はカレーライスを食べよう」などということも「自分で」決められないことになる。
しかしこの「自分の意志」をブチコワソーとするヘンチクリンな力があるものである。
この世はこのヘンな力があるからみんな神の方へ向けないのである。「回心」がなかなかできないのである。どうしたらよいのだろうか?
しかしこのことに気付いたあなたはもはや「回心」しかかっていることを自覚させていただいているのである。
どうか目を上げて十字架上の主を見つめていただきたい。
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