
苦しみは人間を強くするか、
それとも打ち砕くかである。
その人が自分の内に持っている
素質に応じて、どちらかになる。
「『幸福論』第3部p136」
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしは病気や家庭内の不幸によって「苦しみ」なるものを学んだ。
ヒルティーの言っているように強くなっただろうか?
答えは残念ながら「いいえ」である。
いくら苦しみに出会っても、けっしてわたしは強い人間にはなれなかった。
しかしどのような「苦しみ」に出会っても打ち砕かれ絶望しなかったのは、ひとえに主イエス・キリストの御力(みちから)による。
この真実は単に洗礼を受けて主イエス・キリストの信者としていただいたからというのではない。
大切なことは、いつもわたしは「弱い人間」だという自覚を主イエス・キリストによって与えられていたからだ。自分が「弱い人間」という自覚はひとえに主イエス・キリストに祈ることから生まれる。そしてこの自覚は昨今の流行りの「負け犬」根性ではない。「負け組」とは違う。人間としてクリスチャンとしてごく当たり前のことだ。
だからわたしは新約聖書の特に福音書に書かれている主イエス・キリストの次のみ言葉が痛いほどわたしの魂を剣のように刺すのを覚える。
「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。
わたしが来たのは義人を招くためではなく
罪人を招くためである」。
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↓:まねく。
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それとも打ち砕くかである。
その人が自分の内に持っている
素質に応じて、どちらかになる。
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ヒルティーの言っているように強くなっただろうか?
答えは残念ながら「いいえ」である。
いくら苦しみに出会っても、けっしてわたしは強い人間にはなれなかった。
しかしどのような「苦しみ」に出会っても打ち砕かれ絶望しなかったのは、ひとえに主イエス・キリストの御力(みちから)による。
この真実は単に洗礼を受けて主イエス・キリストの信者としていただいたからというのではない。
大切なことは、いつもわたしは「弱い人間」だという自覚を主イエス・キリストによって与えられていたからだ。自分が「弱い人間」という自覚はひとえに主イエス・キリストに祈ることから生まれる。そしてこの自覚は昨今の流行りの「負け犬」根性ではない。「負け組」とは違う。人間としてクリスチャンとしてごく当たり前のことだ。
だからわたしは新約聖書の特に福音書に書かれている主イエス・キリストの次のみ言葉が痛いほどわたしの魂を剣のように刺すのを覚える。
「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。
わたしが来たのは義人を招くためではなく
罪人を招くためである」。
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