
神は我々のたどたどしい片言を我慢して聴きとり
我々が無思慮な言葉を発するごとにその無知を
赦したもう。この寛容なしでは、確かに、祈る
自由はどこにもない。
(「祈りについて」カルヴァン著
I・ジョン・ヘッセリンク編・解説
新教出版社 )
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主はわたしたちのたどたどしいカタカトのお祈りが大好きである。
だからと言って無理やり「たどたどしくお祈りしよう」とか、「何も勉強せずに、無思慮のままでいよう」などと言うことはできない。
主イエス・キリストはただわたしたちのお祈りが主ご自身の御前で「ありのままで飾らないものであって欲しい」、「自由な態度で、ありのままの自分でいてほしい」ということを望んでおられる。
これはカルヴァンの言葉を持ち出すまでもなく、「お祈り」がいかに大切であるかを主ご自身が示し、「さあ、わたしと一緒に父なる神にお祈りしよう」と言って下さっている。
少なくともフツーのクリスチャンはこのように主ご自身から「お祈りのたびごと」に「自覚」させていただいている。
フツーのクリスチャンのわたしたちには文字通り音声ではないが、主の主王の王主イエス・キリストが、全宇宙のすべてのクリスチャンと一緒にお祈りしてくださっている「御声」が聴こえる。
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↓:御声。
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赦したもう。この寛容なしでは、確かに、祈る
自由はどこにもない。
(「祈りについて」カルヴァン著
I・ジョン・ヘッセリンク編・解説
新教出版社 )
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主はわたしたちのたどたどしいカタカトのお祈りが大好きである。
だからと言って無理やり「たどたどしくお祈りしよう」とか、「何も勉強せずに、無思慮のままでいよう」などと言うことはできない。
主イエス・キリストはただわたしたちのお祈りが主ご自身の御前で「ありのままで飾らないものであって欲しい」、「自由な態度で、ありのままの自分でいてほしい」ということを望んでおられる。
これはカルヴァンの言葉を持ち出すまでもなく、「お祈り」がいかに大切であるかを主ご自身が示し、「さあ、わたしと一緒に父なる神にお祈りしよう」と言って下さっている。
少なくともフツーのクリスチャンはこのように主ご自身から「お祈りのたびごと」に「自覚」させていただいている。
フツーのクリスチャンのわたしたちには文字通り音声ではないが、主の主王の王主イエス・キリストが、全宇宙のすべてのクリスチャンと一緒にお祈りしてくださっている「御声」が聴こえる。
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