ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

救われた者として。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2024年05月21日 00時05分21秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド


   今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
   力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから。
   その御名は尊く、その憐れみは代代に限りなく、
   主を畏れる者に及びます。

    (ルカによる福音書第1章46節から50節 )

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 主イエス・キリストを胎の中に宿したマリアの賛歌である。
 わたしはプロテスタント教会に所属する者なので、カトリックのように殊更にマリアをいわゆる「聖母」扱いはしない。
主イエス・キリストがわれらのひとりとしてお生まれになったからである。だからわれわれフツーのクリスチャンはマリアを「神の母」などという呼称で崇めたり祈りをささげたりは絶対にしない。
 このようなことはわれわれフツーのクリスチャンの立場から見れば、むしろ多神教徒のすることである。 
 あるプロテスタントの神学者が言っている。「マリアはあくまでも信仰深いひとりのフツーの人間にすぎない」。
 上記引用でマリア自身が讃美しているこの「マリアの讃歌」は、クリスチャンならばみんなが主の御前で告白できる言葉である。自分が救われた者として、救われた体験を持つものとして、わたしたちは自分を「幸いな者」と言いうるのである。
 クリスチャンであるということは、誰にでもこれらのことを告白できる者たちである、と言っていいのである。



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