「自らの、あるいは他の人々の功績によって
神に償いを果たすことが可能であって、
そのような償いで罪の赦しが買い取られ、
また支払われる」などと安心している者は
価なしの恵みの贈与に決して与ることはない。
(「祈りについて」カルヴァン著I.ジョン・ヘッセリンク編・解説
新教出版社 )
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上記引用文の「価なしの恵みの贈与」とは何だろう?
フツーのクリスチャンにとっては、主の十字架とそこからの復活のいのちに与ることである。主の十字架を信じ、主の復活を信じ(もちろんこれらが自分のためであったと魂の底から信じるのである。これが神の呼びかけに対するハイの返答である)、主イエス・キリストの復活のいのちをいただき復活のいのちに生かされることである。
上記引用文にあるようにこれは自らの功績ではないし、また他の人の功績でもない。ただまっすぐに主の救いを信じること。ただまっすぐに主イエス・キリストを「自分の救い主」として信じることである。
復活のいのちは「○×の良いことをしたからいただける」といったものではない。
主イエス・キリストの十字架と復活を自分のためのものと信じることによって、主よりの恵みとして与えられるものなのである。
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↓:♥。✝。信じる者。
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そのような償いで罪の赦しが買い取られ、
また支払われる」などと安心している者は
価なしの恵みの贈与に決して与ることはない。
(「祈りについて」カルヴァン著I.ジョン・ヘッセリンク編・解説
新教出版社 )
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上記引用文の「価なしの恵みの贈与」とは何だろう?
フツーのクリスチャンにとっては、主の十字架とそこからの復活のいのちに与ることである。主の十字架を信じ、主の復活を信じ(もちろんこれらが自分のためであったと魂の底から信じるのである。これが神の呼びかけに対するハイの返答である)、主イエス・キリストの復活のいのちをいただき復活のいのちに生かされることである。
上記引用文にあるようにこれは自らの功績ではないし、また他の人の功績でもない。ただまっすぐに主の救いを信じること。ただまっすぐに主イエス・キリストを「自分の救い主」として信じることである。
復活のいのちは「○×の良いことをしたからいただける」といったものではない。
主イエス・キリストの十字架と復活を自分のためのものと信じることによって、主よりの恵みとして与えられるものなのである。
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