『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださった』
という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。
わたしは、その罪人のかしらなのである。
(テモテへの第一の手紙第一章12~17節 )
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いったい主なる神の御前で「わたしは罪人ではありません」と言い切ることのできる人間は存在するだろうか?
主なる神の御前に出れば、たいてい「自分の罪」を「自覚」させていただけるのが「人間」である。だから少女ジーザス的に言わせていただけば「わたしは罪人ではありません」と言えるのはもはや「人間」ではない。そして「生命体」「生物」ですらない。
よくキリスト教は「罪だ、罪だ」と言って「自分自身を卑下したがる」と言われる。しかし主なるキリスト・イエスの御前に出ればイヤでも「自分の罪を自覚せざるを得ない」。
ではあなたは「自分を卑下するのはどうしてもイヤだから主イエス・キリストなどという神は信じたくない。そんなものは避けて生きる」と言えるか! ほんとうに自分の魂の奥底からそのように言いきることができるか?
出来る人はいまい。
しかし、「信教、思想の自由」ということがある。
それでそこから自由に「無神論」を主張するがよろしい。
主イエス・キリストはそのあなたの「自由」を尊重してくださり、理解してくださる御方である。
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