ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

なくした一枚の銀貨のたとえ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2020年10月22日 00時00分22秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
     また、ある女が銀貨十枚を持っていて、
     もしその一枚をなくしたとすれば、
     彼女はあかりをつけて家中を掃き、
     それを見つけるまでは注意深く
     捜さないであろうか。

       (ルカによる福音書 第15章 第8節 )




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 あなたはお金をなくしたことがあるだろうか?
 こんな時ほど人間が「あら、どうしましょう」と困ることはないのではないだろうか?
 わたしにも経験がある。財布ごとお金もカード類も丸ごとなくしたのである。
 頭から冷水をあびせかけられた状態になった。幸いにも「心ある人」がわたしの部屋の郵便受けに財布を何も言わずに届けて入れておいてくれた。このときほど全身の力が抜けてそれこそ主イエス・キリストに対する感謝の祈りの言葉も出なくなったことはない。それほど「お金」は人間にとって衣食住を支える最も大切なものの一つだ。
 上記のたとえ話はまことに適切なものであり、分かりやすいたとえ話だと思う。
 「なくした一枚」はズバリ主イエス・キリストのことであり、主イエス・キリストにとってのわたしたち一人一人のことでもある。
 わたしは洗礼を受けて正式に(?)クリスチャンとなっているが、それこそ七の七十倍の回数、主イエス・キリストを「なくした一枚の銀貨」にしてしまった経験がある。
 でもひとえに主イエス・キリストの愛により、「主ご自身をなくしてしまった自分」という「自覚」を与えられて、それこそ七の七十回ころんでつまずいて、そのたびに起き上がる力をいただけた。
 主イエス・キリストが上記の引用聖句のように「なくした一枚の銀貨」のように、まるで自分自身のようにひとえにわたしを愛していつも見守り捜し続けてくれているからだ、と感謝する。
 本当に感謝するばかりである。



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