安倍総理は「長年手つかずだった日本社会の構造的課題である少子高齢化の問題に真正面から挑戦したい」と意気込みを示し、新たな3本の矢、すなわち (1)希望を生み出す強い経済(2)夢を紡ぐ子育て支援(3)安心につながる社会保障――の3項目を掲げた。安倍首相の頭の中にある少子高齢社会のイメージとは「活気が衰え、生産性は低下し、支出が嵩んで衰退の一途を辿るような暗い将来」ではなかろうか。このような時代錯誤の固定観念では、成熟したわが国の社会を正しい方向に導くことはできないのである。
少子高齢社会とはそれほど惨めな社会であろうか。アメリカ老年医学界のカリスマ的存在であるロバート・バトラー博士は、その著書『長寿革命:長寿がもたらす恩恵と課題』において、「長寿革命の課題への取り組みを成功させるには、いくつかの保守的な考えを問い直すことが必要である」と述べている。高齢化が進んだ社会を悲観的に考える要素を例にあげると、「出生率が低下すると被扶養者と扶養者の比率が増加して扶養者負担が増加する、福祉国家 (Welfare-state)のモデルを使った社会福祉は維持できない、人口高齢化は医療支出増大の原因となる、高齢労働者は生産性が低い」などである。
こういった極度に高齢化した社会に対する危惧に対して、バトラー博士は明確にその対策を提示している。バトラー博士の究極のメッセージは、「高齢期が悲劇である必要はないということ、米国人が豊かな高齢期を迎える社会を創ることは可能である」ということであった。博士はまた、「責任あるエイジング」についての概念を展開させ、次のように述べている。「私たちが真に長寿を享受するには、当然ながら、高齢者の自立と活力を支え、ひいては社会貢献を促す良好な健康状態が必要である。そのためには、良き遺伝子、財源、優れた医療以上のもの、つまり個々人がより良く幸せに生きるために責任を負うことが求められる」。少子高齢社会が不幸な社会とならないために、私たちがなすべきこととは何かをバトラー博士は訴えている。
文明や医学の進歩により寿命が延びた結果として少子化がもたらされた。必然的に現代の若者は、少ないマンパワーで多くの高齢者を支えていかなければならない。いずれは自分たちも高齢者の仲間入りをして支えてもらう立場になるとはいえ、限られた社会保障費を高齢者が優先的に使うという理不尽な構造は改めなければならない。少子高齢社会は、選りすぐりの子どもたちを社会全体が育てていく義務を負っている。高齢者はこれまで以上に、健康を維持し、できる限り介護に頼らない老後を送ることが求められているのである。
これまでは若年の生産年齢層が高齢者を支える社会であったが、これからは高齢者も若年者を支える新たな世代間支援の社会である。高齢者は、次世代を担う若者のために自立し、彼らが満足のいく教育を受け、結婚して子育てに十分なゆとりが持てるよう支援する責任がある。
1960~1970年代の高度経済成長期は非生産年齢者を4人以上の生産年齢者で支える「おみこし型」の構造で、若者の負担も軽く抑えられていた。現在の人口構造は、まだ一人の非生産年齢者を2~3人の生産年齢者で支えている「騎馬戦型」 の構造であるが、少子高齢化が一層進行する2055年には、一人の非生産年齢者を 一人の生産年齢者で支える「肩車型」の構造になると想定されている。重たい人(お金がかかる高齢者)を軽い人が一人でかつぐことになれば、共倒れすることは目に見えている。若年生産年齢者層と高齢者層の比率が一対一になれば、「肩車」ではなく「二人三脚」でお互いを支え合うというパラダイムシフト(価値観の変容)が求められる。健康さえ維持できれば、高齢者が積み上げてきた経験や知恵が生かされる時代が必ずやってくるのである。
近い将来、わが国の人口が8,000万人に減少する時代が来るであろう。しかし、人口の減少を悲観する必要はない。国土の狭い日本はむしろ人口の減少を歓迎すべきである。もし、8,000万人の人口で現在のGDPを維持できれば、国民一人当たりの暮らしは1.5倍豊かになる。1.5倍広い家に住めるようになるのである。私たちは無理をしてGDPを600兆円にする必要などはない。少子高齢時代の成長戦略とは国民一人一人が付加価値を高め、一人当たりの生産性を向上させることにある。ちょうど高齢者が運動によってミトコンドリア機能を改善し、細胞のエネルギー効率を高めることができるように。
このブログは風詠社出版の拙著『長生きしたければミトコンドリアの声を聞け』の一部を抜粋、編集したものです。小著では少子高齢化社会を生き抜く真のサクセスフル・エイジングとは何かをテーマに、健康長寿を目指す「人」と「社会」に向けてミトコンドリアの立場と視点からメッセージを送っています。私たちはミトコンドリアの声に真摯に耳を傾け、幸福な少子高齢社会への道を歩んでいかなければなりません。それこそが、ミトコンドリアがリードした生命進化の頂点に君臨する人類の責務であると思う。
少子高齢社会とはそれほど惨めな社会であろうか。アメリカ老年医学界のカリスマ的存在であるロバート・バトラー博士は、その著書『長寿革命:長寿がもたらす恩恵と課題』において、「長寿革命の課題への取り組みを成功させるには、いくつかの保守的な考えを問い直すことが必要である」と述べている。高齢化が進んだ社会を悲観的に考える要素を例にあげると、「出生率が低下すると被扶養者と扶養者の比率が増加して扶養者負担が増加する、福祉国家 (Welfare-state)のモデルを使った社会福祉は維持できない、人口高齢化は医療支出増大の原因となる、高齢労働者は生産性が低い」などである。
こういった極度に高齢化した社会に対する危惧に対して、バトラー博士は明確にその対策を提示している。バトラー博士の究極のメッセージは、「高齢期が悲劇である必要はないということ、米国人が豊かな高齢期を迎える社会を創ることは可能である」ということであった。博士はまた、「責任あるエイジング」についての概念を展開させ、次のように述べている。「私たちが真に長寿を享受するには、当然ながら、高齢者の自立と活力を支え、ひいては社会貢献を促す良好な健康状態が必要である。そのためには、良き遺伝子、財源、優れた医療以上のもの、つまり個々人がより良く幸せに生きるために責任を負うことが求められる」。少子高齢社会が不幸な社会とならないために、私たちがなすべきこととは何かをバトラー博士は訴えている。
文明や医学の進歩により寿命が延びた結果として少子化がもたらされた。必然的に現代の若者は、少ないマンパワーで多くの高齢者を支えていかなければならない。いずれは自分たちも高齢者の仲間入りをして支えてもらう立場になるとはいえ、限られた社会保障費を高齢者が優先的に使うという理不尽な構造は改めなければならない。少子高齢社会は、選りすぐりの子どもたちを社会全体が育てていく義務を負っている。高齢者はこれまで以上に、健康を維持し、できる限り介護に頼らない老後を送ることが求められているのである。
これまでは若年の生産年齢層が高齢者を支える社会であったが、これからは高齢者も若年者を支える新たな世代間支援の社会である。高齢者は、次世代を担う若者のために自立し、彼らが満足のいく教育を受け、結婚して子育てに十分なゆとりが持てるよう支援する責任がある。
1960~1970年代の高度経済成長期は非生産年齢者を4人以上の生産年齢者で支える「おみこし型」の構造で、若者の負担も軽く抑えられていた。現在の人口構造は、まだ一人の非生産年齢者を2~3人の生産年齢者で支えている「騎馬戦型」 の構造であるが、少子高齢化が一層進行する2055年には、一人の非生産年齢者を 一人の生産年齢者で支える「肩車型」の構造になると想定されている。重たい人(お金がかかる高齢者)を軽い人が一人でかつぐことになれば、共倒れすることは目に見えている。若年生産年齢者層と高齢者層の比率が一対一になれば、「肩車」ではなく「二人三脚」でお互いを支え合うというパラダイムシフト(価値観の変容)が求められる。健康さえ維持できれば、高齢者が積み上げてきた経験や知恵が生かされる時代が必ずやってくるのである。
近い将来、わが国の人口が8,000万人に減少する時代が来るであろう。しかし、人口の減少を悲観する必要はない。国土の狭い日本はむしろ人口の減少を歓迎すべきである。もし、8,000万人の人口で現在のGDPを維持できれば、国民一人当たりの暮らしは1.5倍豊かになる。1.5倍広い家に住めるようになるのである。私たちは無理をしてGDPを600兆円にする必要などはない。少子高齢時代の成長戦略とは国民一人一人が付加価値を高め、一人当たりの生産性を向上させることにある。ちょうど高齢者が運動によってミトコンドリア機能を改善し、細胞のエネルギー効率を高めることができるように。
このブログは風詠社出版の拙著『長生きしたければミトコンドリアの声を聞け』の一部を抜粋、編集したものです。小著では少子高齢化社会を生き抜く真のサクセスフル・エイジングとは何かをテーマに、健康長寿を目指す「人」と「社会」に向けてミトコンドリアの立場と視点からメッセージを送っています。私たちはミトコンドリアの声に真摯に耳を傾け、幸福な少子高齢社会への道を歩んでいかなければなりません。それこそが、ミトコンドリアがリードした生命進化の頂点に君臨する人類の責務であると思う。
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