人はなぜ戦争をするのか

循環器と抗加齢医学の専門医が健康長寿を目指す「人」と「社会」に送るメッセージ

一億ミトコンドリア総活躍社会はやってくるのか (第三話)

2015年10月21日 16時57分48秒 | 社会
安倍総理は「長年手つかずだった日本社会の構造的課題である少子高齢化の問題に真正面から挑戦したい」と意気込みを示し、新たな3本の矢、すなわち (1)希望を生み出す強い経済(2)夢を紡ぐ子育て支援(3)安心につながる社会保障――の3項目を掲げた。安倍首相の頭の中にある少子高齢社会のイメージとは「活気が衰え、生産性は低下し、支出が嵩んで衰退の一途を辿るような暗い将来」ではなかろうか。このような時代錯誤の固定観念では、成熟したわが国の社会を正しい方向に導くことはできないのである。

少子高齢社会とはそれほど惨めな社会であろうか。アメリカ老年医学界のカリスマ的存在であるロバート・バトラー博士は、その著書『長寿革命:長寿がもたらす恩恵と課題』において、「長寿革命の課題への取り組みを成功させるには、いくつかの保守的な考えを問い直すことが必要である」と述べている。高齢化が進んだ社会を悲観的に考える要素を例にあげると、「出生率が低下すると被扶養者と扶養者の比率が増加して扶養者負担が増加する、福祉国家 (Welfare-state)のモデルを使った社会福祉は維持できない、人口高齢化は医療支出増大の原因となる、高齢労働者は生産性が低い」などである。

こういった極度に高齢化した社会に対する危惧に対して、バトラー博士は明確にその対策を提示している。バトラー博士の究極のメッセージは、「高齢期が悲劇である必要はないということ、米国人が豊かな高齢期を迎える社会を創ることは可能である」ということであった。博士はまた、「責任あるエイジング」についての概念を展開させ、次のように述べている。「私たちが真に長寿を享受するには、当然ながら、高齢者の自立と活力を支え、ひいては社会貢献を促す良好な健康状態が必要である。そのためには、良き遺伝子、財源、優れた医療以上のもの、つまり個々人がより良く幸せに生きるために責任を負うことが求められる」。少子高齢社会が不幸な社会とならないために、私たちがなすべきこととは何かをバトラー博士は訴えている。

文明や医学の進歩により寿命が延びた結果として少子化がもたらされた。必然的に現代の若者は、少ないマンパワーで多くの高齢者を支えていかなければならない。いずれは自分たちも高齢者の仲間入りをして支えてもらう立場になるとはいえ、限られた社会保障費を高齢者が優先的に使うという理不尽な構造は改めなければならない。少子高齢社会は、選りすぐりの子どもたちを社会全体が育てていく義務を負っている。高齢者はこれまで以上に、健康を維持し、できる限り介護に頼らない老後を送ることが求められているのである。

これまでは若年の生産年齢層が高齢者を支える社会であったが、これからは高齢者も若年者を支える新たな世代間支援の社会である。高齢者は、次世代を担う若者のために自立し、彼らが満足のいく教育を受け、結婚して子育てに十分なゆとりが持てるよう支援する責任がある。

1960~1970年代の高度経済成長期は非生産年齢者を4人以上の生産年齢者で支える「おみこし型」の構造で、若者の負担も軽く抑えられていた。現在の人口構造は、まだ一人の非生産年齢者を2~3人の生産年齢者で支えている「騎馬戦型」 の構造であるが、少子高齢化が一層進行する2055年には、一人の非生産年齢者を 一人の生産年齢者で支える「肩車型」の構造になると想定されている。重たい人(お金がかかる高齢者)を軽い人が一人でかつぐことになれば、共倒れすることは目に見えている。若年生産年齢者層と高齢者層の比率が一対一になれば、「肩車」ではなく「二人三脚」でお互いを支え合うというパラダイムシフト(価値観の変容)が求められる。健康さえ維持できれば、高齢者が積み上げてきた経験や知恵が生かされる時代が必ずやってくるのである。

近い将来、わが国の人口が8,000万人に減少する時代が来るであろう。しかし、人口の減少を悲観する必要はない。国土の狭い日本はむしろ人口の減少を歓迎すべきである。もし、8,000万人の人口で現在のGDPを維持できれば、国民一人当たりの暮らしは1.5倍豊かになる。1.5倍広い家に住めるようになるのである。私たちは無理をしてGDPを600兆円にする必要などはない。少子高齢時代の成長戦略とは国民一人一人が付加価値を高め、一人当たりの生産性を向上させることにある。ちょうど高齢者が運動によってミトコンドリア機能を改善し、細胞のエネルギー効率を高めることができるように。

このブログは風詠社出版の拙著『長生きしたければミトコンドリアの声を聞け』の一部を抜粋、編集したものです。小著では少子高齢化社会を生き抜く真のサクセスフル・エイジングとは何かをテーマに、健康長寿を目指す「人」と「社会」に向けてミトコンドリアの立場と視点からメッセージを送っています。私たちはミトコンドリアの声に真摯に耳を傾け、幸福な少子高齢社会への道を歩んでいかなければなりません。それこそが、ミトコンドリアがリードした生命進化の頂点に君臨する人類の責務であると思う。

一億ミトコンドリア総活躍社会はやってくるのか (第一話)

2015年10月15日 08時21分14秒 | 社会
昨日このブログで「一億ミトコンドリア総活躍社会はやってくるのか (第二話)」をご紹介しました。第一話は以前に別のジャンルに掲載してしまいました。申し訳ありません。そこで、第一話はもう一度このジャンルで紹介させていただきます。

第3次安倍内閣は新成長戦略の目玉として一億総活躍社会構想を打ち出しました。「強い日本を取り戻す」というキャッチフレーズの下、強靭な国造りを目指すという安倍総理の政治姿勢の表れだと思います。しかし、残念ながらこの政策は時代錯誤の感をぬぐえません。それは、なぜか。人の成長過程に当てはめ、ミトコンドリアの立場から説明したいと思います。

わが国は明治維新以後第二次大戦に至るまで富国強兵を国是としてきました。私が傾倒する司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」は日本という黎明期の国民国家が一丸となって世界の列強国の仲間入りを目指す姿を描いています。明治はわが国にとって最も輝ける時代、まさに日本の青春時代でした。太平洋戦争は、さらに強靭な肉体(軍事力)を希求した結果起きた不幸な出来事、つまり「若気の至り」と解釈することもできます。そのつらい経験から、私たちは、青春時代を過ぎたわが国にとって大切なのは肉体ではなく、精神であることを学びました。戦後、私たちは平和を守り続け、ひたすら科学技術を磨くことで発展を遂げたのです。しかし、経済の沈滞などから、もう一度青春時代に戻りたいという欲望が国家権力者の心に芽生えつつあります。

未開な国家が近代化を進める姿は人の肉体が成長する様子に似ています。肉体の成長期にはどんなに食べても太ることはありません。栄養は全て血となり肉となります。それは、細胞に暮らすミトコンドリアは数が豊富で、若々しく、生き生きとしているからです。しかし、加齢と共にミトコンドリアの数は減り、機能も減退します。その結果、代謝が低下して太りやすく、糖尿病、高血圧、脂質異常症になりやすい体質に変化していくのです。そういった体質の変化を理解せずに若い時と同じように強靭な肉体を目指せば、健康を損なうのは当然です。アメリカでは高齢者の若返りを目的とした成長ホルモン療法が一般化しています。確かに成長ホルモンの注射は一時的に筋力を増強させ、人を若返らせるかに見せる作用があります。しかし、その副作用は細胞の異常増殖、すなわちがん化を引きおこし、かえって寿命を縮めることに繋がるのです。国家のかじ取りも同じで、成熟した国家にとって無理な成長戦略は必ずひずみを生じます。国内では貧困や格差が進み、それを補うため海外に覇権を求めるというがん細胞の挙動にも似た振る舞いは、国民を再び戦争の悲劇へと導く危険性を孕んでいます。

狐狸庵先生こと遠藤周作の座右の銘、「20代は肉体の季節、40代は心の季節、60代は霊の季節」という言葉を借りれば、わが国はすでに心の季節を過ぎ、霊の季節を迎えつつあるのではないでしょうか。成熟した国家が歩むべき道とは国家権力を強化することではなく、国民であるミトコンドリアを元気にし、幸福にすることです。それが結果的に国家の繁栄を持続させる賢明な方策ではないかと思います。

一億ミトコンドリア総活躍社会はやってくるのか (第二話)

2015年10月14日 17時41分19秒 | 社会
政府は新成長戦略として合計特殊出生率を1.8に引き上げることを目標に、子育て支援などを推進すると発表した。若年人口を底上げし、生産年齢人口を増やして経済を成長させようというもくろみだ。しかし、出生率は増加するだろうか。

出生率の低下が社会問題となって久しい。これまで、歴代の政府は出生率の改善に向けてそれなりの努力をしてきた。しかし、過去20年間、合計特殊出生率が1.5を超えたことは一度もない。

出生率を改善するために施された数々の政策が功を奏さなかったのはなぜなのか。それは、出生率の低下には政策などよりも生物学的な要素が深く関わっていると考えられるからである

人類誕生以来、ほんの数十年前まで人間の平均寿命が五十歳に満たない時代が続いた。生まれてきた子どもの多くは、感染症などで命を落とし、性成熟期まで生き延びることが困難だったのである。その時代に人間が社会生活を営むためには、多産によって人口を維持していくことが必要であった。

人口問題は、地球環境問題と深く結びついている。人類が現在の資源消費パターンを続ければ地球は早晩破局を迎えることが定量的なシミュレーションで予測されている。国連の長期予測推計では、世界人口は現在の約70億から2100年に112億前後に達して以降安定するとされているが、現在のパターンでは2040年頃、世界人口が約95億人に達した時点で環境汚染、食糧枯渇などにより人類は破局を迎えることになるそうだ。

平均寿命が短い時代、すなわち多くの人間が若くして亡くなる時代であれば多産であっても食糧問題はおきない。しかし、現代の日本のような超高齢社会では、人口が増加すれば、食糧問題やエネルギー問題は避けられない課題である。地球上には限られた資源しかない。平均寿命が延び、個々のエネルギー消費が増えれば、必然的に人口増加は抑制される。動物は本能的に個体数が増えることの危険性を感じるからである。

少子化が進むもう一つの原因として、若者が結婚しなくなり、子どもを産まなくなったことが挙げられている。結婚・出産適齢期の人たちの間で、「結婚し、子どもを育てるより、自分の好みの生き方や暮らしを優先する」という選択の増加傾向がみられる。働く女性が増え、女性が生活の上で自立したことが結婚離れに繋がっているという指摘もある。つまり、現代の女性は物質的に満たされているのだ。酵母は栄養が潤沢にあるときには、繁殖するのに有性生殖という面倒なことはしない。コストのかからない無性生殖という道を選ぶ。しかし、子孫を残すために有性生殖という道を選択して進化した多細胞生物は、どんなに食糧が満ち足りていても一人で勝手に増えていくことはできない。「おひとり様」と「草食系男子」ばかりが増えれば、どんどん人口が減っていくのは当然である。豊かな物質文明は、子孫を残す必要性を薄れさせているのである。

医学や公衆衛生の進歩による寿命の延長も、少子化に拍車をかけている。動物でも寿命と出産数との間には負の相関が見られる。長寿の動物は成熟するのが比較的ゆっくりで、産む子どもの数が少ない。これは、生命を脅かす天敵が存在しない動物において顕著にみられる現象である。人間はその代表的な動物だ。医学や公衆衛生の進歩は、疾病という人類最大の天敵をも克服しようとしている。若くして死ぬ恐れがなくなれば、急いで子どもを作る必要はないので、子どもを産む年齢が上方にシフトするのは自然の成り行きである。

平均寿命が延びると少子化が進む理由の一つに、高齢化は若者、特に男子の生殖能力の低下によって代償されることが挙げられる。寿命が延びると若い雄の生殖能力が低下することを裏付ける研究結果がある。アメリカ、カリフォルニア大学の生物学者、マイケル・ローズ博士が著書『老化の進化論』で紹介しているショウジョウバエを用いた有名な老化の研究である。ショウジョウバエは普通、孵化後二週間で成虫となり繁殖を開始するが、繁殖時期を5週間後に遅らせると世代を重ねるごとに寿命が延長することがわかった。また、ショウジョウバエは高齢期の生存率が増えるとともに、高齢期の繁殖力も増えることもわかった。高齢者にとっては朗報である。しかし、喜んでばかりはいられない。老化を先送りすることに成功した彼らの子孫は、若年期の性的競争力と繁殖力が劇的に低下したのである。こういった事実は、寿命延長の代償として若い人たちの生殖能力が低下していくのは生物学的に避けられないことを意味している。若年男子の生殖能力の低下は、一時世間を騒がせたダイオキシンなどの環境ホルモンの影響だけではないのである。

現在地球上で繁栄している野生動物のうちで、際限なく増え続けるであろうと予想されている種はない。野生動物の生態系は個体数に多少の振動はあるものの、人間による乱獲などがなければ、ほぼ一定に保たれるのが普通である。動物には群れの個体数を判断して産卵、産児制限をする習性が備わっているからである。縄張り争いがあるのはこのためだ。多くの動物集団では縄張りを確保した雄と雌だけが繁殖を許されている。野生動物が爆発的に増えないもう一つの理由は、生命のサイクルが早いことである。野生動物が老衰で死ぬことはまずない。彼らは、老衰がおこるずっと以前に、飢餓や病気、あるいは捕食者に捕えられて死んでいく。これは、産児数を調節することなく、群れの個体数を一定にする効果をもたらしている。人類といえども、与えられた資源には限りがある。平均寿命が延長し個々のエネルギー消費が大きくなれば、子どもの数は減らさざるを得ないのは当然である。現代の若者は超高齢社会において、野生の動物と同様に本能的に産児制限の必要性を感じているのかも知れない。そう考えれば、若者が結婚という縄張りを作りたがらない理由も納得できる。

このように、出生率低下の原因は、女性が子どもを産みにくく、育てにくい社会構造のためだけではない。人類進化の帰結としての少子高齢化は、好むと好まざるとに関わらず加速するのである。だからこそ、一億総ミトコンドリア活躍社会を作るには出生率の増加に頼らない政策が必要なのである。次回、その具体的な方法とは何か、安倍政権が目指す「介護離職ゼロ」の実現は可能なのかに迫りたいと思う。



なぜ「南京大虐殺」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたのか

2015年10月13日 18時13分17秒 | 社会
先日、南京大虐殺が世界記憶遺産に登録された。日本人として不名誉で嘆かわしいニュースである。しかしその背景を作ったのは日本の政府であり、われわれ日本人である。

第二次大戦中、南京で中国人に対する虐殺があったことは否めない事実である。何人を殺したのか、数の問題ではない。戦争に名を借りて罪もない一般人を殺したこと自体が大虐殺なのである。それを認めてこなかった政府が、南京事件の世界記憶遺産登録というしっぺ返しを受けたのである。ユネスコに対する援助金を削るなどというのは本末転倒であり、国際感情のさらなる悪化を招きかねない愚行である。

戦後歴代の政府(特に自民党)は先の大戦中にアジアの人々に多大な辛苦を与えたことに対する謝罪を自虐史観として敬遠してきた。今年の安倍総理の戦後70年談話には「先の世代に謝罪を背負わせてはならない」というくだりがあった。近隣のアジア諸国から「戦争によってアジアの人々に背負わせた不幸はもう忘れようと宣言した」と受け取られても仕方がない。これでは近隣アジア諸国が黙っているわけがない。被害国は何としても世界中の次世代の人々に戦争の恐ろしさや悲惨さを伝えようとするであろう。

私たち日本人は南京大虐殺を永遠に謝罪し続ける宿命を背負ったのである。その事実から逃れ、あるいは覆い隠すことは日本の国益を損なうことである。謝罪し続けることによってのみ近隣諸国からの信頼が得られ、アジアの盟主になれるのである。

歌手のさだまさしさんのアルバムに『償い』という詩がある。優しく真面目な心の持ち主である交通事故の加害者「ゆうちゃん」は、犯した罪を償うために毎月謝罪の手紙と送金を続け、ついに遺族からの許しを得るという内容である。
「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました
 だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に
 主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど
 それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」

わが国が南京事件に対する謝罪を続けても、中国が許すという保証はない。しかし、わが国のその姿勢はアジア近隣諸国から好意的に受け入れられ、中国が南京大虐殺を外交カードとして切ることはもはやできなくなるであろう。南京大虐殺が世界記憶遺産に登録されたことは取り返しがつかないことかも知れない。しかし、ポジティブに考えれば、南京大虐殺の世界記憶遺産登録は戦争の悲惨さを後世に伝えることであり、世界平和につながる道である。次世代の人々にはわが国の国益を守るためにも謝罪を続けてもらいたいと思う。そうすれば、いつかわが国の名誉が回復する日が来るのではないかと思う。