おせっちゃんの今日2

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子供の金銭感覚

2024-03-06 13:37:29 | ニュースから

びっくりするというより、あきれてしまったというか、表現する言葉を失ってしまいました。
中学生が、90万を超える額のお金をやり取りしていたと。

時の流れの中で、もはやおとぎ話に属するかもしれませんが、我が家の・・おせっちゃんが子どものころのこと、わが子に私たち夫婦が教えたこと、などを書いてみようと思います。すでにブログで細切れに書いたことはあったかと思いますが。

日本の敗戦の昭和20年は国民学校1年生の夏休みでした。今の時代に生きる人たちには想像もできない、貧しい日本の戦後でした。父は軍人でしたから、敗戦の日からは、追放され、職業も奪われ、小さい地主として、コメは小作の人が納めてくれていた生活は、農地改革で取り上げられたのです。8人の子供と父母・10人が食べるものも不自由する状態に激変したのです。
というと、まことにあわれな。。。と思われるかもしれませんが、親は困ったかもしれませんが、幼い私とらい太は、空襲が亡くなった環境で遊び暮らしていたのです。自分がみじめだとは思いませんでした。みんな貧しかったのです。

戦後日本は徐々に立ち上がっていました。3・4年経った頃でしたでしょうか、雨の日に履く、ゴム長の改良スタイルの、「雨靴(あまぐつ)」というものが出回りました。みんな飛びついたものでした。わが家にはお金はありません。親にねだることは子ども心にいけないことと思い知っていました。私とらい太はお金を得る仕事をすることにしました。

その頃実家のN村には朝、市場が建ちました。今イメージするような観光客を相手にする朝市ではありません。村の住人が、自分の畑で採った野菜を、持ち寄るのです。同じ村内の八百屋やよろず屋の店主が買い取るのです。値段はセリ方式でした。世話役がせり上げていく司会者です。

「おお、上げの(山の上の)Iさんちからラッキョウがでちょるでよ。もう綺麗にシゴがしてあるでよ。すぐ漬けられるでよ~」。そうです、私とらい太はミカンの木の間の少し日当たりのある小さな畑にラッキョウを作っていたのです。遊びたいのを我慢して、目に沁みるのを我慢してきれいに見場を良くしたのでした。この方が高く売れると思ったのです。

売れました。でも雨靴には届きませんでした。がっかりはしましたが、大人の言葉で言うなら、達成感はありました。雨の日に履く高下駄を買ってもらいました。赤い鼻緒がついていました。雨の日には、雨靴の友達に混じって誇らしくからころと履いたのでした。

古い時代のおせっちゃんは、小学生に、持ち金を増やす手段を教えるより、必要なお金は、自分の労働で手に入れるという感覚をまず教えることが大事と思うのですが。

続きはまた明日。



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