昨日書きましたように、我が家の墓は、夫の好みであれよあれよという間に建ってしまいました。
これはこれで安心なのでしょうか。
本籍地には・・・山口県の片田舎ですが・・・急坂の細い道を、息を切らせて登ったところに先祖代々の墓がありました。舅姑が無くなった時点で、いわゆる「墓じまい」をし、本籍地も今住んでいるところに変更しました。
ですから、末っ子のわが家は仏になった両親の仏事をすることもなく、初代は夫ということになり、建てたままで、まだ空の墓です。
その墓を建てる前の家族の話。特に私の考え。
お墓、お墓というけれど、今、夫とともに入るのはいや、私は私で建てるという考えの人が多いと言います。これでは狭い国土がお墓だらけになりませんか。世話をする人がいなくなった時そのお墓はどうなるの?当時私はそんなことを考えていました。
平々凡々に暮らしてきた私です。不幸だったとは思いません。でも特に幸せだったとも。一生を振り返れば、これと言った事件もなく、争いごとも、ありませんでした。きっとこの先も・・・
平凡な私は私らしく、すっと、周りを巻き込むような大事ではなくあの世に旅立つのが望みです。お墓も用意されましたから、入りますよ。躊躇なく入れてください。わがままは言いません。
でも、心の隅では、私は墓などなくていいと思うのです。幸いわが家には、小さい庭があります。ハクモクレンや、モクセイの大ぶりな樹も育っています。その根元に小さな穴を掘って、火葬した骨を砕きその穴に埋めてくれればそれでいいと思っていました。
子供たち、孫たち、なにがしかの思い出を持ってくれているでしょう。花が咲くたび、何年か、記憶がよみがえる範囲の年月、「ああ、怖いばあさんがいたな、でも小遣いは忘れずくれてたな」と思い出すだけで私はいいと思うんだけど。
賛成の声は上がりませんでした。やはり思い出すよすがとして墓は大事なのかな。