ダンテの研究といえば、E・R・クルティウスにエーリッヒ・アウエルバッハ。20世紀にはダンテをロマン主義的な幻視者としてではなく、言語芸術に長けた詩人として評価する向きが現れた。そのような20世紀の研究動向を踏まえた論文集……ではない。
著者は比較文学者であり、最近の研究動向など知るか、とばかりに独自の形でダンテの地獄編を論じ尽している。著者は何度も源信『往生要集』と『地獄編』を比較して論じている。キリスト教と仏教という違いはあれども、双方の地獄は意外なほどに似通っている。地獄の永遠性も同じだ。しかし、『往生要集』に源信本人の姿はない。自らを主人公としたところにダンテのエゴがある。
もし日本で『神曲』のようなものが書かれたとしたら、ウェルギリウスは誰になるか。矢内原忠雄は柿本人麻呂ではないかと冗談交じりに語っていたらしいが、著者は白楽天ではないかと言っている。白楽天は『源氏物語』を始めとする日本文学に多大な影響を与えたからだ。確かに日本人が日本語で『神曲』を書くのならば、言語の源流たる存在は中国の詩人になるのかなと思った。
著者は『神曲』の中の「お世辞」に注目してみせる。ウェルギリウスを「言語の大河の源流」として思い切り褒め称えるダンテ。カトーを褒めようとするもかえって心を害してしまうウェルギリウス。ダンテは外交官としても活躍した人物だったが、『神曲』は「お世辞」に溢れている。『神曲』を宗教的な聖なる書物としてではなく、極めて世俗的な文学として追求していく様は興味深い。
ダンテのキリスト教の独善的なところに対する批判も面白かった。源信は仏教を信じていないからといって地獄に落とすようなことはしなかった。しかしダンテは、どのような善人であっても、クリスチャンでなければ辺獄にしか行けないと考えた。そしてムハンマドを地獄の最下層に落としたのである。
著者は比較文学者であり、最近の研究動向など知るか、とばかりに独自の形でダンテの地獄編を論じ尽している。著者は何度も源信『往生要集』と『地獄編』を比較して論じている。キリスト教と仏教という違いはあれども、双方の地獄は意外なほどに似通っている。地獄の永遠性も同じだ。しかし、『往生要集』に源信本人の姿はない。自らを主人公としたところにダンテのエゴがある。
もし日本で『神曲』のようなものが書かれたとしたら、ウェルギリウスは誰になるか。矢内原忠雄は柿本人麻呂ではないかと冗談交じりに語っていたらしいが、著者は白楽天ではないかと言っている。白楽天は『源氏物語』を始めとする日本文学に多大な影響を与えたからだ。確かに日本人が日本語で『神曲』を書くのならば、言語の源流たる存在は中国の詩人になるのかなと思った。
著者は『神曲』の中の「お世辞」に注目してみせる。ウェルギリウスを「言語の大河の源流」として思い切り褒め称えるダンテ。カトーを褒めようとするもかえって心を害してしまうウェルギリウス。ダンテは外交官としても活躍した人物だったが、『神曲』は「お世辞」に溢れている。『神曲』を宗教的な聖なる書物としてではなく、極めて世俗的な文学として追求していく様は興味深い。
ダンテのキリスト教の独善的なところに対する批判も面白かった。源信は仏教を信じていないからといって地獄に落とすようなことはしなかった。しかしダンテは、どのような善人であっても、クリスチャンでなければ辺獄にしか行けないと考えた。そしてムハンマドを地獄の最下層に落としたのである。