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origenesの日記

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スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)

2008-01-13 18:47:34 | Weblog
スピヴァクは1942年、インド生まれの英文学者・批評家。コーネル大学でポール・ド・マンに師事し、イェイツで修士論文を書いたと言う。彼女のイェイツ論はフェミニズム理論を踏まえつつイェイツの「アニマ」を分析した刺激的なものだが、一般的にはポストコロニアル理論の代表的な論者としての論文の方が有名だ。"Can the Subaltern speak?"はCary NelsonとLawrence Grossbergの編集によるMarxism and the Interpretation of Culture (University of Illinois Press, 1988)に収められた論考である。『オリエンタリズム』から10年後に出版されたものだが、スピヴァクはサイードに対しては高く評価をしている。
『マルクス主義と文化の解釈』という論文集の名前に沿ってスピヴァク自身もマルクス主義について触れているのだが、彼女は「知識人と権力」というミシェル・フーコーとジル・ドュルーズの対談を通して、ポスト構造主義的なマルクス主義批判を批判する。フーコーとドゥルーズによるとフランスのポスト構造主義理論の2つの貢献とは第1に「権力・欲望・利害のネットワークは異種混交的(heterogeneous)で、一貫したネットワークに還元することはできない」ことを明らかにしたこと、第2に「知識人は社会の他者の言説を明るみに出すべきだ」との見識を広めたことにあるという。しかしこのような「貢献」こそがカール・マルクスの読みの中で権力的な主体を構築してしまったとしてスピヴァクは厳しく糾弾する。両者ともにアジアを見えないものとして等閑に付しており(毛沢東主義の明らかな誤用がそれを裏付ける)特に、ドゥルーズのマルクス解釈は「労働者たちの闘争への結びつきは、いとも単純に、欲望のうちに位置づけ」「欲望の特殊的な諸審級あるいは欲望する機械の生産には欲望する主体が付着している」ものとして、彼女はその内に見られる主体の構築を指摘する。スピヴァクによると、ある階級についての記述的定義は示唆的であるとマルクスは指摘しており、さらにマルクスは否定的なものの作用に注目し、具体的なものの脱物神化を目指した。それゆえにドゥルーズやフーコーのマルクスのおける階級の固定性、被抑圧者の沈黙といったものに対する批判は的を外している、という。
また、エドワード・サイードはフーコーの権力概念を批判して「階級の役割、経済の役割、蜂起と反乱の役割を隠蔽する」と指摘しているが、スピヴァクはそれを敷衍してフーコーをすべてのテクストをヨーロッパとしての主体の構成を支持・批判しつつ当の他者を生産する論争の内部にとらわれている思想家として批判する。一方で、サイードは「デリダはテクストのうちへと連れて行くが、フーコーはテクストの内へ外へと連れて行く」とも発言しているが、スピヴァクはこの発言を引用しつつ、サバルタンの問題を考えるにあたって、フーコーの考古学・系譜学ではなくひたすらテクストの内を目指したジャック・デリダの脱構築・グラマトロジーを用いることの有用性を説く。デリダは、他者に語らすことをせずに「まったき他者へと呼びかけ、自身の中の他者のうわ言を聞く」。それは自己を主体として客体とした他者を語らすことへの拒否であり、ただ自己の中にある他者のうわ言をテクストの内部で聴くことができないという意識に基づいている。スピヴァクはデリダの理論を基に、サバルタンにまつわるイギリスのテクストのポストコロニアル的な批判を試みる。それは具体的にはインド人の女性が、夫の死後、後を追って自らの身体を炎で燃やすというサティー(寡婦殉死)という習慣と、イギリスによるその習慣の廃止(1829年、ベンティンクによる禁止法)をテーマとし、イギリス人やインドのエリート階級の男性がどのようにインドの殉死する女性を客体として位置づけてきたか、についての考察となる。フーコーの犯罪に対する緻密な研究をスピヴァクはヨーロッパの内部のみを対象として行われたもの(他のより重要な何かを隠蔽するもの)として一蹴するが「エピステーメーとは、真と偽ではなくて、科学的であると規定してよいものとそうとは規定されないものを分かつことを可能にする『装置』だ」という彼の言葉には賛同を示し、このエピステーメーによって「非科学的」なサティーは、理解不可能なものではなく「理解しきった」(エドワード・トムソン)ようなものとして「違法なもの」へと押しやられたと言う。あるイギリス人は「インド人の蛮行からインドの女性を救わなければならない」と言い女性を「善き社会」のシニフィアン化し、あるインド人のエリート男性は「インドの女性は死ぬことを望んでいた」と抗弁をする。これらの対立する意見は女性の声をかき消していると言うことでは一致している。それらの意見はねじれることで女性の「自由意志」というものを作り出し、さらにそのような自由意志の強調は、「女性の身体をもっているということは女性に特有の不幸な運命なのだ、という観念を確立することとなる」。サティを行う女性は「憐れむべき存在か、または自身から望んで夫に尽くす存在」なのであり、「第三世界の女性」の転位態に他ならない。
現在においても、表象=代象の作用はいまだに衰えておらず、サバルタンが主体的に語ることは不可能な状態にある。この短い論考の中でそうスピヴァクは結論付ける。ではサバルタンの声をどうすれば聞くことができるのか、ということについてはこの論文の中では触れられていない。テクストを脱構築し、自身の内にある他者のうわ言を聞くことしか、私にできることはないのか。

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