〈リバイバル・アーカイブス〉2022.11.28~12.12
原本:2019年7月8日
今回は「天文・天正の古いお地蔵さん」、「お寺の中に天皇の御陵」、「観心寺前の石見川の渓流」について、お伝えします。
【お寺の中に天皇の御陵】
2019.5.14.河内長野市寺元 観心寺 「後邨上天皇御舊趾(後村上天皇御旧趾)」
後村上天皇は正平14年(1359)12月、それまで天野山金剛寺にあった行宮を観心寺に移された。そして、翌正平15年(1360)9月まで、10か月ほどの間、後村上天皇の行宮(あんぐう)となった観心寺。かつて「惣持院」という塔頭があり、そこに入られたそうです。その後、住吉に行宮を移し正平23年(1368)に崩御されました。享年41歳。後村上天皇は南北朝時代の第97代天皇で、建武の新政の後醍醐天皇の子息にあたり、南朝側として第2代の天皇に当たります。南朝側の天皇として最後まで京都には帰れませんでした。
当時は南北朝時代で南朝と北朝のの対立はそれを補佐する武士団の対立もあり、混迷を極めていた時代でした。南朝の行宮は吉野、賀名生、金剛寺と転々と替わりました。
後村上天皇のお父さんは建武新政で有名な後醍醐天皇です。
後村上天皇檜尾陵
天皇陵がお寺にある数少ない例です。ボランティアさんのお話では日本に数例しかないそうです。
調べてみると、
・泉涌寺 京都市東山区今熊野泉山町 (86代後掘河天皇陵、87代四條天皇陵、108代後水尾天皇陵~121代孝明天皇陵)
・竜安寺 京都市右京区竜安寺朱山 (66代一條天皇陵、69代後朱雀天皇陵、70代後冷泉天皇陵、71代後三條天皇陵、73代堀河天皇陵)
・天竜寺 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 (88代後嵯峨天皇陵、90代亀山天皇陵
・如意輪寺 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾 (96代後醍醐天皇陵)
・常照皇寺 京都市右京区京北井戸町丸山 (102代後花園天皇陵)
ほとんど京都市内が多かったです。河内長野の観心寺にあるというのは異例の存在かもしれません。
檜林の間の階段を150m近く登っていくと...
第97代 後村上天皇 檜尾陵があります。
実は後村上天皇陵のほかに、もう一つ陵墓参考地として、後村上天皇のお母さんのお墓があります。
新待賢門院と院号宣下を受けた阿野廉子(あの やすこ/れんし)です。つまり後醍醐天皇の奥様です。
正平14年(1359)4月ここでで亡くなられました。享年59歳。
「コウボ坂陵墓参考地」となっているのは、阿野廉子のお墓ではないかとされる場所はここ以外に、境外の檜尾塚陵墓参考地(河内長野市寺元)や川上陵墓参考地(奈良県吉野郡川上村高原)があるからです。
すこしこんもりした墳丘とおもわれる円丘が見えました。
山門左の駐車場脇にある大楠公像
観心寺の今も残る塔頭の中院は、楠木氏の菩提寺でした。
正成は8~15歳の頃ここで、龍覚に仏道修行について学び、また加賀田に居を構えていた大江時親に兵法を学んだとされています。大江時親は平安時代の歌人、大江匡房(まさふさ)の子孫で安芸毛利氏の祖となった人物。
延元元年(1336)神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られてます。
かわちながの観光ボランティア倶楽部の方の解説を聞き入る百景のメンバー
後醍醐天皇は当寺を厚く信任し、建武新政後(1334年頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができたそうです。国宝。後村上天皇は後醍醐天皇の第七皇子に当たります。
正成自身も報恩のため三重塔の建立を計画しましたが、途中延元元年(1336)神戸の湊川で戦死したため途中で中断し、建掛の塔として今に伝わっています。
【天文・天正の古いお地蔵さん】
境内の西の端、楠公首塚と新待賢門院墓の間の小道を登ったところにある4体の地蔵さま。
いつも花を添えられて、同じ方向(南西)を向いておられます。
すこしほほえんでおられるようににも見える、中央前のいちばん小さいお地蔵さま。
なんと、天正八年(1580)の銘が記されています。「天正八年庚辰四月五日」
今から439年前の戦国時代真っ只中のお地蔵さんです。
荒れた世の中、このお地蔵さまはほほえみの中で、しっかりと世を見据えているような気がします。
観心寺も多くの所領を織田信長に取り上げられました。翌年4月には槇尾山施福寺が焼打ちに遭います。
信長が本能寺で亡くなる2年前のお地蔵さまです。
右端のお地蔵さまです。
さきほどの地蔵さまとよく似た、同じく錫杖と宝珠をお持ちのお地蔵さま。
これも同じく天正八年の製作です。
左端のお地蔵さま
先ほどの2体とは、作りが違うようですが、年号は入っていないようです。
中央のいちばん大きな地蔵さま
微笑んでおられるように見えますが、先ほどの3体とは、感じが違うようです。
なんと「天文十二年」と読めます。天文十二年は1543年、ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した年ですね。(諸説あり)
となりに多くの一石五輪塔群
これは大和地方南部で見かける石造物ですが、宝珠でしょうか?
花崗岩でなく、和歌山産の、三波川変成帯緑泥片岩のようです。
葛城古道をゆく6 一言主神社と九品寺 九品寺周辺にも似たような石造物があります。
【観心寺前の石見川の渓流】
石見川渓谷
あまり知られていないかもしれませんが、観心寺の横を流れる石見川が観心寺のバス停付近で岩盤を通過し、幾重の滝や渓流になっています。
特に渓流の名前は付いていないようですが、あまりにきれいなので、「石見川渓谷」としておきましょう。
瀬になっていて、清流が岩盤を流れます。
清流は国道310号の下の脇に設けられた小道より眺めることができます。深い谷でガードロープは一部しか付いていませんので、転落しないよう注意が必要です。
国道から降りたところの橋
一見、人専用の橋と思われますが、実は...
水路橋でもあります。ここで分岐し両岸の田んぼを潤します。
ここよりさらに上流部、350m程先まで井路(農業水路)が続いています。
そしてこの井堰より取水しています。
道路の下にある大きな自然石には梵字が刻まれています。なにか信仰の対象になっているようです。
あまりみかけないカワトンボ。
滝の橋のすぐ上流部、季節になるとゲンジボタルが優雅に飛び交います。
当日の館外学習資料
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撮影日:2019年5月7日、14日
2019年7月8日 ( HN:アブラコウモリH )
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