2023年7月15日 13:39 貝塚市中町 感田(かんだ)神社前
貝塚の夏祭り 太鼓台祭りをご紹介します。
旧貝塚寺内町 感田(かんだ)神社 ちょうど茅の輪めぐりが行なわれていました。
創建は不詳。天文年間頃に本格化する貝塚寺内町の成立と関連しているようです。地元農村からの移住者が多かったことから、海塚村の牛頭天王社と堀村の天満宮を寺内町に勧請し、天照皇大神を中心に三神を祀ったのが始まりと云われます。
中町通りで休憩中の近木町と堀之町の太鼓台
貝塚は10月に行なわれる地車祭が有名ですが、南海 貝塚駅西側で7月に行なわれる「太鼓台」も見ごたえがあります。旧貝塚寺内町の感田神社の祭礼として、江戸中期から続く7町の太鼓台がみごとです。
西町交差点の太鼓台。海岸に向かってなだらかな坂道になっています。
今より約430年前の天正十一年(1583)に浄土真宗 顕如上人が本願寺を紀州鷺森より貝塚に移しました。これを祝して貝塚の住民は三日三晩踊り明かし、当初は感田瓦明神と称し、その氏子たちもハシゴらしきものの上に太鼓を乗せ、竹笹を立て、担いで回ったのが太鼓台の始まりと云われています。(「貝塚お祭りマップ」より)
太鼓台として担がれたのは、江戸中期今から280余り前の寛保元年(1741)のお祭りからで、泉州地域において最も古い太鼓台祭りと云われています。(諸説あり)(「貝塚お祭りマップ」より)
重さが1.5tもあり、相当重そうです。30人で担いでひとり50kgの計算になります。
何度も交替しながら、長い距離を力が続く限り太鼓台を担いで、じないまちを練り歩きます。
休憩中の子供たち。
休憩中の若い衆。
貝塚寺内町の中心寺院 貝塚御坊 願泉寺。
貝塚寺内町には願泉寺のほかにも、浄土真宗の尊光寺、満泉寺、正福寺、泉光寺、要眼寺、浄土宗の上善寺、日蓮宗の妙泉寺が所在します。また、感田神社はまちの産土神をお祀りしています。
「和泉名所図会 巻之三 願泉寺」
「和泉名所図会」は秋里籬島 [著] ; 竹原信繁 画で寛政八年(1796)に刊行されています。
北町の古い町並み。
祭礼には中北町、近木町、大北町、西町、中町、堀之町、南町の7町、7基の太鼓台が担ぎ出されます。
交番のある「貝塚駅下り」交差点の陸橋より
7月15日が宵宮運行で、16日が本宮運行になります。16日午後1時半頃に感田神社前の祭礼本部で式典と全町の太鼓台が出て担ぎ比べをする「練り合い」が行なわれたそうです。
貝塚寺内町は大阪湾を北西に望み、貝塚御坊願泉寺を中心に発達しました。元の集落は紀州街道沿いの低地にあったと推定されており、室町時代末期に寺内町として成立しました。
天文十四年(1545)に無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎(ぼくはんさい)了珍が迎えられ、一向宗の町づくりが始められたことが寺内町建設の起源で、天文十九年(1550)、本願寺第 10 代証如が「麻生郷堀海塚」の地に、本願寺の直轄寺院である海塚坊(のちの願泉寺)を建設しました。
旧近木之町筋の廣海家住宅前を通過。
廣海家住宅は、文久元年(1861年)の建築で、国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。
天正五年(1577)には和泉国の一揆勢の拠点として織田信長の攻撃を受けましたが焦土と化しました。
天正十一年(1583)から顕如が本願寺を紀州鷺森より貝塚に移し、2年間浄土真宗の本山である本願寺がおかれました。本願寺の移転にともない、願泉寺卜半家初代の卜半斎了珍が海塚坊の留守居の地位を得ました。
江戸時代には卜半家を領主とする諸役免許の地「貝塚卜半寺内」として都市的発展を遂げ、さまざまな商工業が発達しました。
古い町家と太鼓台がマッチします。
廣海家では慶応年間(1865年~68年)には4隻の大型和船を所有し、北陸地方、東北日本海岸、北海道産の米穀や肥料を扱っていました。
貝塚寺内町には、江戸時代後期から明治、大正、昭和の伝統的様式の町家が数多く残されています。国の登録文化財に登録された民家が十軒以上もあり、その多くは現在もお住まいされています。
子供たちもがんばって綱を曳きます。
旧近木之町筋のゆるい坂道を貝塚駅方面に行く西町太鼓台。
伝統とお祭りと地域の方々の生活がよく感じられる貝塚の寺内町です。
関連記事:貝塚寺内町 感田神社 太鼓台2023後編 2023.7.28
百舌鳥八幡宮 月見祭2019 2019.9.17
だんじり・祭り(26)
撮影:2023年7月15日
2023年7月26日 HN:アブラコウモリH
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます