富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉「河州酒造家」の石灯籠―松尾大社

2017年01月20日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2021.11.8.~11.22.

原本:2017年1月20日

松尾橋(京都市西京区嵐山朝日町)より愛宕山を望む。流れは桂川。

 

 松尾大社の大鳥居

 

 鳥居前のモニュメント

 

保津川下りの川舟でしょうか、奉納されているようです。

 

 松尾大社 京都市西京区嵐山宮町3 式内社

元来は松尾山(標高223m)に残る磐座での祭祀に始まるとされています。

五世紀の頃、秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。

大宝元年(701)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれています。(京都最古の神社といわれているそうです。)

その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられました。

中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社です。

 

 神輿庫にある菰樽の山

お酒の神様としての信仰の大きさがうかがえます。秦氏に酒造りの技能者が多く見られたことから、室町時代末期頃から「酒造第一祖神」として崇拝されるようになりました。

 

 奉納された菰樽

大神神社(奈良)・梅宮神社(京都)ととに、日本三大酒神神社といわれているそうです。

 

 楼門の手前左側に、「お酒の資料館」(無料)があります。

 

 「松尾大神 酒造業 繁栄御守護」の木札(左)

 

 でっかい御神酒(おみき) 二升五合瓶

 

 「二升五合瓶」(左)と「角(つの)樽」

でっかい二升五合瓶 一升瓶で1.8リットル入りますから、二升五合瓶なら4.5リットル入ることになりますね。

「二升五合瓶」=『二升は升(ます)が2つで「升升(ますます)」、五合は一升の半分なので「半升(はんじょう)」、合わせて「ますますはんじょう(益益繁盛)と読ませて、縁起が良い。」 *お酒の資料館の展示より

ゲン担ぎですね。

 

 参道から楼門の周りは奉献された石灯籠がいっぱい。

 

酒造家や酒屋の奉献が多いようです。 

 

「上野國(群馬県)」の酒屋仲間の石灯籠

 

 「摂津國菟原郡(うばらぐん)」の酒造仲間

菟原郡は、芦屋市の全域・神戸市東灘区の全域・灘区の大部分・中央区の一部(生田川以東)に当たるので、灘の酒造仲間でしょうか。

 

 「勢洲 酒屋中」と銘があります。伊勢の酒屋仲間ですね。

 

 「江州日野出店 願主 酒屋中」 滋賀県蒲生郡日野町

 日野町は近江日野商人で有名な土地柄、また薬や日野菜、戦国大名 蒲生氏郷(秀吉の時代、会津92万石領有)の故郷でも有名。

 

 一対の石灯籠に「献燈 大坂 天満酒造」と彫られています。

 

 手水鉢にも「奉献 願主 京造酒屋中」と記銘されています。

このように全国の酒造家や酒屋仲間からの奉献が絶えないようです。

 

 このようないろいろな奉献された酒造仲間の灯籠の中で、楼門に至る参道の一番最後の一対の大きい立派な石灯籠が「河州酒造家」の石灯籠です。(河州=河内) 一対のうち、向かって右側の灯籠。

 

 基礎の部分に「河州酒造家」と彫られています。

 

 竿の部分は「献燈」「東館 執次」と彫られています。

 

 建之は「明治二年己巳九月建」(1869)とあります。

 

【右側 基礎2段目 左】 すこし見にくいですが基礎の部分に、「大行司 仲村 徳兵衛」とあります。

仲村 徳兵衛さんは、富田林に代々続く造り酒屋です。

大行司とは、采配を振る意味から総組合長のような役職と考えられます。

 

 【右側 基礎2段目】よく読めませんが、「発起 河内一國 大行司 仲村 徳兵衛 ・・・」と彫られているようです。

 

 【右側 基礎下段】村名と名前が彫られているようですが、読めません。

 村名と氏名が彫られているようです。断片的には、...小松、富宅、森田、南 徳左衛門、井上などの苗字が見えます。

 

 こちらは、左側の灯籠

正面の基礎1段目にも、小さい字で彫られています。

 

 びっしりと彫られていますが、よくわかりませんね。

 

 この面は比較的読みやすいようです。読める字は、「大和田 政次郎、富井 政右ヱ門、平井 藤十郎、向村 中井 儀三郎、掃部 清右ヱ門、大久保村 清水 荘蔵、 増田 清兵衛、三宅 嘉兵衛...」

 

【左側 基礎2段目】「発起 河内一國 大行司 仲村 徳兵衛 肝煎 杉山 長左衛門」と彫られているようです。(肝煎=世話役)

 「杉山 長左衛門」はもちろん富田林市の国重要文化財 「旧杉山家住宅」の当時の当主です。

 【左側 基礎1段目】石工の名前が彫られています。「大坂☐☐ 石☐正兵衛」

 

明治2年(1869)の河内地方の酒造家の組合の、組合長と世話役が富田林の仲村家と杉山家が任命されていたということです。これは、名誉なことかと思います。 


 

富田林市富田林町 旧杉山家住宅

明治元年(1868)における富田林村酒造業は、5件の造り酒屋があり、酒造米高が4381石。

前記の大行司 仲村徳兵衛が1200石、杉山長左衛門が1103石でその半分以上を占めていました。

灯籠が奉献される19年前の、嘉永三年(1850)の河内国の酒の生産は酒造米高が19923石で、その内富田林村を含む石川郡の酒造米高は4983石でトップ、4分の1を占めていました。そしてその大部分を富田林村が占めていたと思われます。

富田林村の酒造りはすでに、江戸前期の元禄期のは始まっており、その様は史料に散見されます。

 

仲村家住宅 後の雛祭り 2016.10.8.

元禄七年(1694)井原西鶴の「織留」において富田林村は「軒を並べて、今のはんじょう...」と紹介され、享和元年(1801)の「河内名所図会」においても、「水勝れて善れバ、酒造る業の家数の軒をならぶ。」と記されています。

 

「河内名所図会」 享和元年(1801) 富田林

また、幕末の俗謡にも、「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金の水がわく...」と謡われました。

 

撮影:016.12.23.

すこしだけ関連記事:じないまち雛めぐり 2016  2016.3.13.

             後の雛祭り 2016.10.9.

2017.1月20日 (HN:アブラコウモリH )

 


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