その1からのつづき
アメリカ商業会議所の経済政策委員会が発行している<マネーサプライの経済学>という文書にこう書かれている。
預金通貨(貨幣)が発明されるまでは、きん・金(あるいはその他の金属)が交換手段として受け入れられていた。文明史上つい最近までは、商取引にたずさわる者は、一定量の金貨もしくは金塊を手元に置いてく必要があった。これは不便であるとともに危険でもあった。そこで中世末期には、きん・金を所有する者は、それを地元の金細工商に預けて保管してもらうのが一般的となった。金細工商は、金を預けた者にその分の預り証をわたした。
しばらくすると預けたほうは、支払いが生ずるたびに、きん・金を引き出す必要はないことに気がついた。買い手も売り手も、(きん)金の預かり証を<きん・金と同じ価値がある>と考えるようになり、この受取証が 紙幣 の原型となった。時代が進むうちに金細工商は、通常は、(きん)金の所有者による引き出しに備える場合、預かった(きん)金の総量のごく一部があれば十分だということを発見した。<<一度に全員が引き出す事はないからーーー小林の意見>> そうなれば金細工商は、預かった(きん)金を貸し出して利子を取ることができる。手元には必要なだけの<準備>分を残して、(きん)金の所有者が通常引き出すと予想される分だけをカバーしておけばそれでよい。こうして、< 部分準備 >に基づいた貨幣制度が登場した。この制度では、(きん)金の準備高は、それに基づいて発行される紙幣総額のごく一部でしかない。
パターソン本人は、自分は新たな制度を発見したとおもっていたかもしれないが、そんなことはない。紀元前600年のネブカドネザル王の<金本位制>もこの方法に基づいたもので、部分準備にあたる魔法の公式は、10%に固定されていた。
コー
アメリカ商業会議所の経済政策委員会が発行している<マネーサプライの経済学>という文書にこう書かれている。
預金通貨(貨幣)が発明されるまでは、きん・金(あるいはその他の金属)が交換手段として受け入れられていた。文明史上つい最近までは、商取引にたずさわる者は、一定量の金貨もしくは金塊を手元に置いてく必要があった。これは不便であるとともに危険でもあった。そこで中世末期には、きん・金を所有する者は、それを地元の金細工商に預けて保管してもらうのが一般的となった。金細工商は、金を預けた者にその分の預り証をわたした。
しばらくすると預けたほうは、支払いが生ずるたびに、きん・金を引き出す必要はないことに気がついた。買い手も売り手も、(きん)金の預かり証を<きん・金と同じ価値がある>と考えるようになり、この受取証が 紙幣 の原型となった。時代が進むうちに金細工商は、通常は、(きん)金の所有者による引き出しに備える場合、預かった(きん)金の総量のごく一部があれば十分だということを発見した。<<一度に全員が引き出す事はないからーーー小林の意見>> そうなれば金細工商は、預かった(きん)金を貸し出して利子を取ることができる。手元には必要なだけの<準備>分を残して、(きん)金の所有者が通常引き出すと予想される分だけをカバーしておけばそれでよい。こうして、< 部分準備 >に基づいた貨幣制度が登場した。この制度では、(きん)金の準備高は、それに基づいて発行される紙幣総額のごく一部でしかない。
パターソン本人は、自分は新たな制度を発見したとおもっていたかもしれないが、そんなことはない。紀元前600年のネブカドネザル王の<金本位制>もこの方法に基づいたもので、部分準備にあたる魔法の公式は、10%に固定されていた。
コー
部分準備銀行制度とは、そういう意味だったんだね。ここに分かりやすい動画があるよ。
小林ここにも、動画がありますね。銀行のシステムを詐欺と考えるかは、意見が分かれるでしょうけど。でも< 300人委員会>のことを考えると、この金融のことを考えない訳にはいかないと思うんですよ。