とあるスナックで
小林
どうですか、この本の感想は。
コー
そうだね、いろんなところが気になるね。これは香港のイギリス部隊を攻略した時の話だ。(Ⅵ)世界最終戦の勝利と敗北 P-81
島の西半部に布陣していた英軍部隊と民間の志願兵は、日本軍の高地占領後本隊と切断され孤立されていたため、島の残りの部分が降伏したことを信じようとせず、抗戦を続けた。彼らは島の南東の隅にある極めて守りの堅い半島上のスタンレー要塞に強力な拠点を維持していた。日本軍の海陸からの猛攻撃によっても要塞の砲台を沈黙させることはできず、逆に同砲台の砲弾によって日本側に多数の死傷者が続出する状態であった。日本軍は要塞の降伏を早めるべく、クリスマスの一昼夜を通じて、報復行動を一段とエスカレートし、残虐な見せしめのための作戦を行った。同日の早朝、日本軍はスタンレー要塞の防壁の外側にあるセント・ステファン単科大学を占拠し、その構内に野戦病院が設営されているのを発見した。酒井司令官の命令に忠実に従って、部隊は野戦病院の占拠の手始めに九十名余りの傷病兵のうちの約六十名を銃剣で刺し殺した。
これより後、英軍司令官降伏の報告が入った時にもなおスタンレー要塞がもちこたえていたため、日本軍は四人の中国人看護婦と七人の英人看護婦を一室に、また、病院付添人、医師、担架運搬手など約百名を別の一室に押し込んだ。その日の午後いっぱいかけて、日本軍は男の捕虜を一度に二、三人ずつ部屋から連れ出し、次々にその手足を切断した。彼らは捕虜を殺す前にその指を落とし、耳をそぎ、舌を抜き、眼をえぐった。犠牲者のうちの数人が、なにが起こっているかをスタンレー要塞に知らせるために逃亡を許された。もう一つの部屋では看護婦が恐怖の悲鳴をあげた。彼女らは死体を積みあげたうえに載せられ、縛り上げられて強姦された。
その日の夕刻、四人の中国人看護婦と英人看護婦のうちでも最も若くて美人の三人が銃剣によって殺された。ちょうどそのころ、スタンレー要塞守備隊との交渉が開始され、最後に四人の年上の英人看護婦が一室に閉じ込められて隔離された。同夜のうちに要塞は降伏し、翌朝、英軍捕虜は同病院に連行され、死体処理を命ぜられた。彼らは生き残った四人の、わけの分からないことを口走っている看護婦を救出した。彼らは死体を処刑室から埋葬地へ運ぶさいに、文字通り血の海の中を歩んだ。また彼らは凌辱されたうえで銃剣で殺された三人の英人看護婦の一人の夫で、錯乱状態に陥っている英人中尉を連れて行った。連合軍の最初の戦争捕虜にとっての、数年間にわたる収容所生活が始まったのである。
ルソン
12月22日、フイリピンでは、約四万の将兵からなる日本軍侵略部隊の主力が、・・・・・・・。
小林
香港でそういう歴史があったという事ですね。そしてシンガポールでは P-119
シンガポールとマレーシアでは約六万の日本軍第一線部隊が、十三万人以上のイギリス軍兵士を捕虜にした。この内一万五千人はオーストラリア人、二万五千人はスコットランド人とイングランド人、六万五千人がインド人、一万五千人はマラヤを主体にした現地徴募の兵士だった。捕虜は収容所や監獄に収容され、三年以上もの間、侮蔑されながら、酷使、獣性、飢餓という環境の中で生き続けることになったのである。彼らが有刺鉄線の後ろに押し込められるやいなや、閻錫山(えんしゃくさん)作戦の仕上げが実施された。日本憲兵隊は、シンガポール在住の全華僑人口の洗い出しを行った。大がかりでははあったがぞんざいな一か月にわたる調査を行った後、五千人から七千人におよぶ不良分子を選び出し、他の華僑に対するみせしめとして利用した。人質のうち重要人物は、憲兵隊が自ら手をくだし、およそ人の知りうる限りの凌辱、テロル、拷問を使って殺害した。より重要でない人質は陸軍の処刑班に送られ、銃剣での刺殺訓練、日本刀の試し切り、兵隊のなぶり者にされたのである。
コー
日本軍は作戦としてわざと残虐なことをしたということだと思う。降伏しない相手に対して、見せしめとしてわざと残虐なことをしたんだな。相手を脅すため、見せしめとして。
そして捕虜の銃剣での刺殺訓練、日本刀の試し切り、これは日常的に行われていたんじゃないだろうか。
おれは若いころ友達の家に遊びに行ったとき、青森県だったけど、その友達のお父さんが話していたんだ。
自分は若いころ中国に戦争に行っていて、捕虜が刺殺訓練のために縛られているのをかわいそうと思って助けたんだが、それがあだになっちゃってね、と。
当時の日本軍は捕虜を殺すことを何とも思っていなかったんではないんだろうか。
外交問題になりさえしなければ。
小林
これは日本人自身が覚えておかなければならない、歴史ですね。
とてつもなくつらいですね。
コー
ただそれは、けっして自虐的になるということではないと思うけどね。
またまた気になるところが、P-129
オランダ降伏とラングーン陥落の翌日の三月九日の午前中、裕仁は四十八時間の間文官顧問たちに会っていないことに気がついた。そこで彼は直ちに外宮にある宮内省の執務室にいた木戸内大臣に電話して、皇居の森にある御文庫まで話にくるよう言った。木戸は直ちに御召しに応じ、そのあとで日記にこう書いた。
天皇は小児のごとくご満悦の態。天皇は仰せられた。
「戦争の果実が我々の口に転げ込んでくるのが早すぎたくらいだ。七日にはジャワ戦線のバンドンの敵は降伏を宣言した。そしていまや我が軍はオランダ領東インドの全勢力の降伏の和議に入っている。敵はスラバヤではすでに降伏した。またビルマ戦線ではラングーンが放棄された。」
陛下は大変なお喜びようだったので、私はお祝いの言葉も言う間もないほであった。
裕仁が満足するのは当然であった。予定より一か月以上も早く、彼のミルミドン〈手下)は約束したことをすべて果たし、できると思っていたこと以上のことを果たしたからである。四十二歳の誕生日の一か月前に、彼は青年時代の目標が突然実現したことに気がついた。彼が再び冷静になり、皇祖皇宗がもっと多くのことを彼に求めていることを覚知するまでには、快適な疲労と幸福感の数週間が必要であった。
・・・・・・。
小林
うーん、ここのところの「・・・、皇祖皇宗がもっと多くのことを彼に求めているいることを覚知するまでには、・・・・・・。」
がいまいち分からないですね。
具体的に何を求めていたんでしょう。