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<四国八十八箇所> 第43番札所 明石寺

2024-05-13 07:38:51 | 巡礼

 「明石寺」

 明石寺(めいせきじ)は、愛媛県西予市にある天台寺門宗の寺院。源光山(げんこうざん)、円手院(えんしゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第四十三番札所。

 本尊真言:おん ばざらたらま きりく そわか
 ご詠歌:聞くならく千手(せんじゅ)の誓いふしぎには 大盤石(だいばんじゃく)もかろくあげ石
 当寺は本関所寺であり、証・四国八十八ヶ所「結願」の証書(賞状)を有料で書いてもらうことができる。(後程郵送になる)

 概要
 古墳時代に造られた小円墳(明石寺古墳1号から3号)が入口横の山裾にあり、古くから開けた文明の進歩した地区であった。当寺の背後にある御篠山(標高388m)山頂には南予にある篠山権現が勧請されており、その東斜面の標高約270m(本堂の位置で)辺りに境内が広がっている。観音が乙女に化身し大岩を運んでいたが夜明けが来たので置いて消えたという伝説のある霊地(その後も白王権現として崇拝される)である。中世に宇和郡が西園寺氏の荘園となってから周辺に松葉城や黒瀬城が築かれ同氏との結びつきが強かった。同氏が滅亡したのちも世襲にて存続された為、多くの書類や仏像や書画など文化財が散逸することなく現存している。

 歴史
 『由緒覚書(1783年記)』によれば、6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建し、天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として、その後、荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとあるが、『明石寺尊像再興勧進状(1689年記)』では観音像安置と熊野権現勧請は天平6年(734年)十二坊成立は弘仁13年(822年)となり、『宇和旧記(1681年記)』では熊野十二社権現の勧請は承和3年(836年)となっている。しかし、現存の本尊千手観音は平安末期の作であることから、十二社権現の勧請も同時期で本地仏として造られた可能性もある。

 その後、建久5年(1194年)には、源頼朝が命の恩人[1]である池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀堂を建立し経塚を築きさらに堂宇の修繕をして再興し、山号を現光山から源光山に改めたという。その後も武士からの信仰が篤く、室町時代は伊予西園寺氏の祈願所となるが1578年豊臣直臣戸田勝隆が南予の大名になるや西園寺氏は滅亡する。それとともに当寺も断絶の危機を迎えるが、別当十二坊のうちの上之坊が明石寺38世となり断絶を防ぎ、1665年には正式に上之坊が相続を認められ修験者による世襲により現代に続くこととなる。 1638年に空性親王が邊路で当寺に滞在した折に上之坊門前の桜を「時雨桜」と命名する。1653年に京都の僧澄禅が遍路で来訪した時には本堂は朽ちて傾き本尊は薬師堂に移されという状態であったが、寛文12年(1672年)に宇和島藩主伊達宗利が仁王門と観音堂を建立そのほかの堂宇も再興した。

 明治初年、当寺と一体であった熊野十二社権現は神仏分離により切り離され本堂との間に柵が設けられる。昭和5年にはその下に続くように熊野神社の拝殿と祝詞殿が建立される。

 寺号
 本来の名称は「あげいしじ」だが、現在は「めいせきじ」と呼ぶ。『宇和旧記(1681年記)』に「詠歌に「〜やすく上げ石」とあり、然らば上石寺と書くべきか」とある。なお、当寺の持住の名は37世「海澄」38世「快澄」~42世「真澄」と〇澄という名前が現在まで続き、明石別当〇澄と呼ばれ姓は無かったが明治期以降に姓が付けられて現在まで姓は「明石(あかし)」氏である。(ちなみに、47番八坂寺の持住も「八坂」氏である。)

 境内
 山門(仁王門):仁王像(江戸時代作・木造玉眼古色・増高阿形178cmと吽形178.5cm)
 本堂:本尊千手観音坐像(平安時代末期作・素木仕上げ・彫眼・増高82.0cm)、脇陣に不動明王立像と毘沙門天立像(ともに鎌倉時代作・木造玉眼彩色・像高100.1cmと99.5cm)、二十八部衆像(風神雷神を加えると27体現存・鎌倉時代作・増高57.8cm~69.9cm)。毎年、8月9日(午前10時から午後8時まで)本尊千手観音が開帳され堂内の諸仏を拝観でき、午後6時より護摩法要がある。外陣の天井は信徒によって奉納された絵馬が天井絵として飾られている。また、屋根には耐寒性の良い赤褐色の石州瓦が使われている。
 大師堂:弘法大師像(京仏師赤尾右京が正徳2年(1712年)製作・像高44.5cm)。ときどき厨子が開いていて運が良ければ拝観できる。当寺に大師堂が初めて建立されたのは『前古堂棟札之写(1636年記)』による16世紀後半説、1636年建立説とあるが明確なのは1712年である。
 鐘楼
 地蔵堂:延命地蔵菩薩立像(江戸時代作・増高162.8cm・木造玉眼漆箔)が拝顔できる。
 弘法井戸
 夫婦杉
 しあわせ観音石像と大型五輪塔:石像は1960年建立。塔は源頼朝が立てたと伝わる命の恩人「池禅尼」の供養塔で総高155.3cm。
 宇和西国三十三所:客殿奥からしあわせ観音へとU字形に並ぶ。
 坪ヶ谷新四国(地四国八十八):後述
 歌碑句碑:しあわせ観音の右後ろにあり、また、その手前約20 mの右の丘の中に一つある。また、寺への進入車道の左の丘の中に「お遍路に昨日も今日も南風」がある。
 参道から石段を上ると右手に本坊・納経所が、左に手水場があり山門をくぐる。右手に地蔵堂があり、さらに石段を数段上がり、合計79段で正面の本堂に達する。その右側に鐘楼と大師堂がある。山門手前を左に行くとトイレがあり、その先奥に弘法井戸がある。また、本坊前を通り奥の山に入っていくと宇和西国三十三所があり最奥に、しあわせ観音が立つ。

 宿坊:定員30名(団体専用)
 駐車場 20台。普通車以下は無料、バスは1,000円、マイクロバスは500円。
 行事:「明石寺修験 採燈大護摩供」2月3日節分・本堂への石段下と地蔵堂の間の空間で護摩供が修験者たちにより行われ信者達が火渡りをする。

 文化財

 国の史跡
 伊予遍路道 明石寺境内:28.36591 ha。2019年10月16日指定
 伊予遍路道 大宝寺道:当寺より大寶寺までの67.3 kmのうち当寺より755 mで、当寺より峠を経て宇和文化の里(特別支援学校への道をさらに上がった辺り)に至る道。2019年10月16日指定
 国の登録有形文化財
 仁王門:明治34 (1901) 年頃建築、以下9件が2007年10月登録
 本堂:明治23年 (1890年) 頃建築
 大師堂:明治13年 (1880年) 建築
 地蔵堂:明治42年 (1909年) 建築
 鐘楼堂:江戸時代末期建築
 客殿:大正期建築、昭和42年 (1967年) 頃改造
 手水舎:昭和12年 (1937年) 建築
 石段および石垣(仁王門前):大正5年 (1916年) ・大正期建設、昭和初期増設
 石段および塀(本堂前):昭和5年 (1930年) ・昭和19年 (1944年) 建設
 愛媛県指定有形文化財
 絹本著色熊野曼荼羅図 1幅:縦98.5 ㎝、横38.5 cmの掛け軸、室町時代作、昭和40年 (1965年) 4月2日指定
 ふるさと文化財の森
 檜皮(ひわだ) 西予市明石寺ヒノキ材:平成26年3月24日文化庁設定、第58号、面積3.93 ha
 無指定の文化財
 役行者椅像:1784年作、像高61.0cm、一木造、木造玉眼彩色。
 伝増長天立像・伝持国天立像:平安時代中期作、木造彫眼素地。
 絹本著色天台大師画像:室町時代作、94.8×36.0cm。

 明石寺  愛媛県西予市宇和町明石201

*Wikipedia より


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