公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

もののあはれ《もののあわれ 》という特質 世界が恐れた日本人の心の源流

2021-01-04 08:26:00 | 日本人
二年前の正月の投稿に手を入れてもう一度公開する。

顔で笑って心で泣いて。

本居宣長は日本人が喜びも悲しみも心で泣き留める、もののあわれこそ、純粋な日本人の仏教や儒学者や道教の影響を受けていない奥底の日本人のこころ、古代人のこころの底流であると主張したと私は解釈している。本居宣長は日本人にとって仏教も儒教も道教も精神的に異物でしかないと明言した。この道はヘブル人の心で泣く有名な赤子モーゼの旧約聖書逸話につながるように見える。日本人は偉大な『はじめにいた人々』の歴史を忘れた。しかしそこを源泉とする国の成り立ちの中の無意識と形式に織り込まれ、しばしば個人を上回る何者かに動かされるかのように もののあわれ は発揚した。今国民は国難を克服してきたこうした天然の一致団結心、本居宣長の国風精神をただの古いもの、戦争の過ちの遠い原因として打ち捨てている。

参考 昔の投稿「ゴイムの叫び」より引用
日本人がいかに古代ユダヤ人、より正確にはヘブル人、古代ヘブル語を話した人々の文化的生き写しであるかを物語るエピソードがトーラー(虎の巻と同じ意味だよ)の中に語られているので紹介しましょう。時はモーゼが生まれたばかりの頃

エジプトの王パロの娘が籠を川の瀬の葦の間に見つけた。開けてみると、「彼女は幼な子──男の子であった──が泣いているのを見た。彼女はかわいそうに思って言った、『これはヘブル人の子供です』」(出エ2・6)

パロの娘は、泣き声を聞かれないよう自制しつつ泣いていたのを見て、すぐにこれは「ヘブル人の子供の一人にちがいない」と思った。ヘブル人の子供だけが、部外者に泣き声を聞かせることなく、心の内側で泣くことができるのだから。ヨセフも知っていたように、ヘブル人の子供は、一方で外なる世界に対しては世間体をつくろいながらも、泣く時には同族の中で泣かなければならないということを知っていた。』

特に下線部の記述どうですか?日本人なら心当たりはあるんじゃないですか?幼な子モーゼが死の淵に流された泣くのパロの娘は聞いたのではなく、見たのです。旧約聖書に伝承された事実。これでも古代ユダヤ人ヘブル人は日本人に近くないと言いえますか?

直感に従える心をお持ちならNOでしょう。

英訳
I interpret Motoori Norinaga to have argued that the compassion of things, in which Japanese people cry out with their hearts in both joy and sorrow, is the heart of the pure Japanese people, the heart of the ancients, which has not been influenced by Buddhism, Confucianism or Taoism. Motoori Norinaga made it clear that Buddhism, Confucianism, and Taoism are all spiritually foreign to the Japanese. This path appears to lead to the famous Old Testament anecdote of the baby Moses crying in the heart of the Hebrews. The Japanese have forgotten the history of the great "people who were in the beginning. The Japanese have forgotten the history of the great "people who were there in the beginning," but they have woven it into the unconscious and formality of the nation's origins, and the compassion has been exalted, often as if driven by something more than the individual. Today, the people of Japan dismiss this natural unity of mind that has overcome national difficulties, the national spirit of Hon'i Nobunaga, as just something old and a distant cause of the mistakes of war.

Reference Quoted from an old post, "The Cry of the Goyim
Let me introduce an episode told in the Torah (which means the same thing as the Torah scroll) that illustrates how the Japanese are cultural replicas of the ancient Jews, or more precisely, the Hebrews, the people who spoke the ancient Hebrew language. The time was when Moses had just been born.

The daughter of Pharaoh, king of Egypt, found a basket among the reeds at the river's edge. When she opened it, "she saw a little child - a boy - crying. She felt sorry for him and said, 'This is a Hebrew child'" (Ex. 2.6).

(Ex. 2.6) "When Pharaoh's daughter saw that he was crying, restraining himself from being heard, she immediately thought, 'This must be one of the Hebrew children. For only a Hebrew child can cry inside without outsiders hearing his cries. As Joseph knew, the Hebrew child knew that when he wept, he must weep within his own people, while at the same time being worldly to the outside world.

What do you think of the underlined part in particular? If you are Japanese, you must have some idea of this, right? Pharaoh's daughter did not hear, but saw, the young son Moses being swept away to his death. A fact handed down in the Old Testament. Can you still say that the ancient Jewish Hebrews were not close to the Japanese?


参考終わり


この図が示すのは、朝鮮半島に住む人々が大陸の男達に婦女子蹂躙されてきたという事実。

この長浜浩明先生の言ってる事の中で残念なことが一つある。それはイスラエル人の遺伝子をユダヤ人と解釈していることです。すなわち日本人とユダヤ人は全く関係のない民族と結論を出してるいうこと。彼はアシュケナージと言うハザール国の改宗ユダヤ人が現代のイスラエル人の主流であると言う歴史常識を知らなかったようです。専門家なればこそ、教養というものがなぜ大切かということを知る契機となれば幸いです。


本当は神の道、古代ユダヤ教の影響を受けた縄文の心が仏教以前の日本人の心だったのではと思う。その証拠にいわゆるお盆の祖先霊祀りは仏教ではない。古代イスラエルの風習を遺したユダヤ教や景教の影響は数次にわたって日本に文化的漂着、流れ着いていると思う。この片鱗が山伏山岳信仰に遺されている。





魏志倭人伝に語られる邪馬台国(邪馬壹国)も実は二〜三世紀ごろに大乱があったと記録される時代を経て確立した古代イスラエル人の末裔の国ではないかと思う。当時の支那語でシェ(ァ)マイ国と呼ぶべきその名邪馬一(旧字体)国は、ユダヤ人特にシオニスト、イスラエル国の人々なら誰でも知る『イスラエルよ、聞け:シェマー・イスラエル、Shema Yisrael』を短縮した名乗りであろう。当時の支那は三国に分かれ十分に遠く強国ではなかった。古代の日本に支那と属国外交を結ぶ動機など存在しなかった。その動機がありとするなら移民の通行許可ぐらいだ。山伏山岳コミュニティはヤマト王権によって日本が統一される過程で山岳に逃げ込み、邪馬壹国の直接の影響を受けたものが形を残し名目を変えて残留していたとしても無理がない。呪術的なその姿は魏志倭人伝の記述に近い。

ちなみに清水文雄の以下のような世間の言う普通のもののあわれ解釈は本居宣長の考えと無縁である上に間違っている。現代的に言えば縄文1万数千年の日本人の心のベース、同族平和概念のエッセンスが『もののあはわれ』と私は解釈している。尚武の精神と和の精神の対立内在化である。すなわち平時の戦意、戦時の平静を求める平衡感覚の虎の巻である。 清水氏曰く、

『もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であるとされている。日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想である。』
1 ^ 清水文雄『日本人の心』(比治山大学、1969年2月)

 

しかし美に限定されない、真と善の平衡感覚思想がもののあわれである。 

話は変わる

長谷川町子は加藤芳朗との対談で50過ぎると何を見ても哀れを感じるので漫画にならないと言っていた。日本人が自然にそのありのままの方向で完成されるのがありのままの無常観があるが、それは仏教に依らず、生まれる。現役で活躍する日本人は常に自分を襲う哀愁と戦っている。流れ消える雲は時に人である。

3510 み空行く雲にもがもな今日行きて妹(いも)に言問(ことど)ひ明日(あす)帰り来(こ)む
 ※「もがも」願望。~であればなあ。
 ※「言問ふ」ものを言う。訪問する。

    空を流れていく雲で
    あったらいいのに 今日にでも
    行ってあの娘(こ)と語り合い
    明日には帰って来れるのに


もののあわれ とは女性的心情ではなく、心情の双極で物事を捉える精神作用である。すなわち受動的で現世的な和の精神と積極的で純粋な道と名誉名分を好む猛々しい尚武の精神(『喧嘩両成敗の誕生』清水克行 講談社2006年に詳しい)敵討ちの風俗との硬軟一体を以って文化として継承する様をいう。岡本太郎の芸術概念もその根本はもののあわれでできている。抽象と具象、美と醜、無機と有機、吸引と反発。進歩を否定する刀でその裏返しにすぎない伝統は切って捨てる。日本人にしかないものを岡本太郎は自覚していた。

また話は変わる


小泉八雲の『草雲雀』などは、西洋人からのアプローチとして 良い小品になっている。私たちはあたかも西洋人が日本人を発見するかのように観察努力しなければ、もののあわれは再確認できないくらい現代の日常から情緒が抜け落ちている。

日本独自のニヒリズムかも知れないが、意志も善も極めると、最善の意志は死なのである。故に日本人には意志も善も、正義も決してやりすぎないという知恵がある。喧嘩両成敗などもその一種。近代的考え方では喧嘩両成敗などナンセンスであろう。無論大和心には散り際の美しさと死が似合う。それ故に近代化に疑問を持つ日本人は自然美にも似た美しい大和心を知らなければならない。

美しすぐるものは死の匂いがする。それが光源氏として結晶化した作品が下世話な女御話である反面、愛の極限事例を因果と運命の物語に昇華してゆく最も古く開花した文学事例が源氏物語である。

儒家朱子学この座標にあって陰と陽の文化を同時不可分に伝える日本(大和心)とは対照的だ。いたずらに“理(功利)を主張して自ずから名義を得んとする貴族的陰の精神”と、“とにかく行動に移して手当たり次第に義(利)を立てる卑俗的陽の精神”との両極軸からなる朱子学の大和的解釈では、儒家朱子学的座標は現世執着的表裏の使い分けで見苦しい。
このような儒家とは文化軸が混じりあえないと本居宣長は考えたと推量する。大和的残滓を認める日本人ではあるが、功利的座標軸しかない現代の日本人の相互作用しない世間にはちょっと贅沢な設問だが、いずれ日本に風が吹かなくなった時に思い出すのは陰陽根源的同一性の歴史である。やや予言的であるがいずれの日にか世界大戦争が巻き起こる。(追補:それは今年かもしれない2019/3/3)その時日本はすべての後ろ盾を失って、自力でシナに対抗せざる得なくなる。そのとき短期戦を好んで臨んでは負ける。必ず長期的不干渉の歴史をはさまなければ̪中共支那の繁栄を許すことになる。そのときに立ち還るべきは、《もののあわれ 》尚武の精神と和の精神の対立内在化である。

旧約聖書の中に描かれる赤子モーゼとは心で泣くヘブル人とは《もののあわれ 》を生まれながらにして持つ日本人のことです。
自己主張一つとっても封建的抑制だけでは説明のつかない昭和11年の阿部定事件。これを映画芸術にしようと考えた大島渚などは制作意図の反日本に反して大和心を映像に込めてしまっている。彼の作家性質が歴史的事件のもののあわれを、まさに彼が憎む日本を根底から表出させている。北野武映画にもそういう淡々とした日々と突然の暴力が愛として纏め上げられた作品がある。日本人の血と言えるものが静謐と爆発とを愛が芸術作として繋いでいる。任侠ヤクザ映画が受けたのも民衆に潜在していた大和心のマーケット性の発見にある。理気が整然と静謐に整っている状態から一気に祓い切る、生命を爆発させる。それが世界が恐れた理解できない縄文的日本人である。欧米人には遠慮や辞譲は卑屈にしか見ていないが、日本人にはそれが美徳だった。この背景には国土 臣民 と皇統という隠れた分祀が日本人の心の仕組みにあるからなのだ。日本人と皇統の秘密を知る牧師は靖国神社の破壊に強く反対した。ビッテルが述べるところによると、この文書の中で司祭たちは、靖国神社の破壊を提案 した計画に対して反対の意を表明し、全ての国民には祖国のために死んだ者たちを悼み、 回想するための場所が必要である、とマッカーサーに訴えたという。

神道指令 昭和20年12月15日、GHQが政府に対して発した指令「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」の略称。ポツダム宣言で認められた「信教の自由」を前提に、政教分離を目的として出された。神社を国が管理する「国家神道」を廃止し、神社は宗教法人として存続することになった。

なるほど日本人は日頃は神に無関心と思えるほどに日常は神や信心を忘れて現世に和合しながらも、【祭り】となれば、突然に神仙の頂点と大義に向かって狂喜突撃する。かつての戦争もお蔭参りも、まず【祭り】、現世に突如登場した非日常だった。古くは敵討ち、切腹という復讐方法も中世日本にあった。それらは死を以て清算される現世の難問の解決方法だった。故に戦国期に来日した宣教師が日本人の笑みが不気味な復讐心を隠していると恐れられた。そのように他国に類例を見ない愛と暴走の渾然一体が過去の日本の現世のなかで使いこなされていた。江戸時代の民衆的心中演劇の隆盛も、日本独自の文化である。現世と来世という極性を持った純粋な心情が誘うもののあわれであろう。

他方で貴族的世界とそれにへつらう文化もある。こういう腐った文化は都と王権および天皇の周りである。つまり現代において善とされる官僚の腐った思想である。 こういう序列形成に穢れを感じて猟官に熱心になれないのが本来の大和心であろう。それが明治維新で急変した。古来日本人には官僚の猟官の便法という腐った思想の代わりに忠信と寛容 すなわち間に立つものの忠恕がある。

死について、吉田兼好 徒然草 第百五十五段 にはとても大事なことが書かれている。よく生きるためには死を知らねばならない。その死というものが、遠い潮が迫り来るのではなく、磯の足元からやってくるのだ と語っている。自然を観察して、己を観照することで自覚される心眼の働きである。古の人々は医学知識に依らずとも生死の必然をこの肝に納めておくことができる。現代人には科学知識があっても尚これができない。ますます分裂的、分解的自己理解に窮しているありさまだ。もう少し古い時代の日本人の心を研究して世間と和合し生業を守ると同時にオリジナリティをもって世間を爆変させる場の隙間を空けておく古他人の祭りを吸収すべきだろう。



―『排芦小船』より―
「人情に通じ、物のこころをわきまへ、恕心を生じ、心ばせをやはらぐるに、歌よりよきはなし」。
「此の道は風雅を本とすることなれば、随分つねづね、心よりはじめすべてのふるまひ、温雅をむねとすべし。野鄙なること、麁相(そさう)なること、せはせはしきことなどは、きらひて、心(こころ)(ことば)行儀まで、いかにもおだやかに、和をむねとし、やすらかなるをよしとす。(中略)さればとてむりにつとめて向上ぶり、優形(やさがた)めかんとするは、なほなほうるさくにくきもの也。ただ何となくやすらかに、温和なるべし」。
「姦邪の心にてよまば、姦邪の歌をよむべし。好色の心にてよまば、好色の歌をよむべし。仁義の心にてよまば、仁義の歌をよむべし。ただただ歌は一偏にかたよれるものにてはなきなり。実情をあらはさんとおもはば、実情をよむべし。いつはりをいはむとおもはば、いつはりをよむべし。詞(ことば)をかざり面白くよまんとおもはば、面白くかざりよむべし只意にまかすべし。これすなはち実情也。秘すべし秘すべし」。
「和歌は言辞の道也。心におもふことを、ほどよくいひつづくる道也。心におもふことを、ありのままにおもふとほりにいへば、歌をなさず。歌をなすといへども、とるにたらざるあしき歌也。さればずいぶん辞(ことば)をととのふべき也。ことばさへうるはしければ、意(こころ)はさのみふかからねども、自然とことばの美しさにしたがうて、意もふかくなる也。ふかき情もことばあしければ、反つて浅くきこゆる也」。


桜花三百首より

まちつけて初花見たるうれしさは物言はまほし物言はずとも(枕の山)

例えば、この和歌はどうだろう。「物言はまほし物言はずとも」という心の出口(あるいは答え、あるいは幻視)があるから上の句がある。今の言葉でいうと実にかわいい動機で句が生まれている。この原理は難しくないのです。本居宣長はそう言っているようだ。

次の句は有名だろう

咲きにほふ春のさくらの花見ては荒らぶる神もあらじとぞ思ふ(枕の山)

この場合出口はビジョンであり答えである。

最も有名な句は

敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(石上稿)

この場合出口は桜花のみずみずしい具体的イメージの普遍性=答えであり、答えがあるから人は問う。設問に答えが先行するという普遍原理がよく現れている。この句は寛政二年、六十一歳の肖像画に書き付けた自賛。自撰家集『鈴屋集』『自撰歌』には採られていない。宣長の代表的名歌として尊ばれる。


この本居宣長の感受性原理の発見はどんな体験からきたのだろうか?まだ見えない。小林秀雄でも読んで探ろうと思うが小林の無知性に絶望視している。時代の限界が横たわっている。


老いぞ憂きうかりける世の秋とても涙のひまはありし月夜を(鈴屋集)

教範「新後撰集」今宵とて涙のひまはなきものをいかなる人の月をみるらむ

「涙のひまはありし月夜(涙の止まるほどはっとする月夜)を」ということだが、この句は《今宵とて涙のひまはなきものをいかなる人の月をみるらむ》に取材している。本居宣長の歌の中では私はこの句が一番好きだ。

 

本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家[10]の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす[11]延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。[12]

寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。

宝暦2年、22歳のとき、義兄[13]が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。

宝暦7年(1758年京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[14]に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、宝暦13年(34歳)5月25日、宣長は江戸の国学者・賀茂真淵と対面(松坂の一夜)する。古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[15]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[16]

宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[17]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に、天明年間 (1781〜1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。

60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[18]

死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方[19]、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。

その墓は近世以後、1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。


死没
享和元年9月29日(1801年11月5日)
伊勢国松坂

死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。
その墓は近世以後、1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。


『新唐書』には天皇の姓が書かれている!阿每(なんと読むかはわからない)アハイか?何故姓が隠されるようになったのか、興味深い。『隋書』にも「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見え安帝紀に「倭国王帥升等」とあるが、帥升の系統が阿每かどうかは不明。本来古代人に姓はなく《倭王の信仰する天の思想から「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎない》と考えられる。という説があるが発音が合わない俗説である。毎はバイ、マイ、カイ、ハイが相当するがiで終わることがあってもメ、eで終わることはない。アマイということはあるかも天?


其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極 — 新唐書卷220 列傳第145 東夷


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