公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

下野薬師寺跡 日高見国(ひたかみのくに):知られざる東北の歴史

2024-07-15 13:00:03 | 皇室関連
藤原一族の支配は一日にして成し得たものではない。
光仁天皇在位期間770年10月23日 - 781年4月30日以降の政権でやっと安定してくる。

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こんな状態の時、藤原不比等の孫の藤原永手(房前の子)の意を汲んだと思われる三十七歳の若き官僚、和気清麻呂が宇佐八幡宮に神の意志を確かめに行き、 「わが国は開闢以来君臣の分定まれり。天日嗣は必ず皇統を立てよ……」(わが国の天皇は万世一系である。天皇家の血を引いている者を立て、そうでない者に譲ってはならない) との藤原氏の喜ぶ御神託を持って帰りました。すると道鏡は和気清麻呂を大隅(鹿児島)に流しました。藤原永手は、道鏡が皇位に就けばまた後継者でもめる、それより、今まで通り皇統を立てることが混乱を呼ばないし、外戚となり権力を掌中し続けることが一家の繁栄につながると、天皇家の血筋を守るように動いたのです。
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以下過去の記事『ちょっとだけ足を伸ばしてご近所歴史探訪ここは下野薬師寺跡 今でこそ何もない所だが770年(宝亀元年)弓削道鏡が左遷された東の飛鳥の地として有名。その大事件のわりには資料館の動画には和気清麻呂の活躍により国体が護られたという言及はなし。その後同じく三大(朝敵)悪人の足利尊氏が安国寺に改名再建している。道鏡が流されて800年後(元亀元年)戦乱に焼失。どっちも亀がつくのが後の世の道鏡の川柳をイメージさせる。写真は借りもの。ひとけはまるでなく絶頂に寒いが一部梅がほころび始めていた。満開ならばかなりの梅園であろう。平将門を含めこれで関東三大(朝敵)悪人ゆかりの地を制覇。』以上過去の記事




日高見国(ひたかみのくに):知られざる東北の歴史

「称徳天皇亡き後、光仁天皇の擁立には藤原永手の働きがあったと記録されています。日高見国との話し合いを進めた藤原氏は日高見国の富が中央政府にもたらされ、しかも両国が親しく睦む在り方の実現に成功しました。藤原氏の外交が巧みだったこともあるのでしょうが、それだけでは説明しきれないものを感じます。
紀伊国(和歌山県)に、口伝で古くから伝承されたものを書き留めた『道成寺宮子姫伝記』があります。「文武帝(在位六九七—七〇七)の御代、紀伊国日高郡に八幡山のにし(西)の麓のかたほとりに兄弟九人海士有ける……その中に一人の乙女あり。名を宮といふ……」という文で始まり、髪の長い美しい宮は海底に光る淡い虹の光の正体を突き止めようと海に潜り、黄金の千手観音を見つけて持ち帰り、祠に祀ってお参りしていました。その宮を粟田真人(藤原不比等の参謀役で大宝律令の制定に協力し、遣唐使でもあった)が見つけ、九人の兄弟の承認を得て、不比等のもとへ連れて行きます(この九人の海士はその昔、神功皇后に随行して来、日高の水門に残していかれた兵士の子孫で、八幡宮は兵士らの氏神です。この伝承にも日高見国との関わりを感じさせるものがあります)。宮は不比等の養女・宮姫になり、文武帝の妃になって聖武天皇を産みます。宮姫が故郷の千手観音が忘れられないでいると知った帝は粟田真人に一宇の建立を命じました。」


Nakatsu Yuko. 消えた王国ーー日高見国(ひたかみのくに):知られざる東北の歴史(22世紀アート) (pp.129-130). 22nd CENTURY ART. Kindle 版.


白河の関に中央政府の勢力が確かに入ったのは八—九世紀ですから白河の関よりずっと奥の多賀柵に天平九年(七三七)にやって来た大野東人が、到着したその年のうちに多賀から秋田までの道を造れるはずはありません。  承和二年(八三五)の太政官符には白河と菊多の両関は既に四百年経過していると書かれていますが、その根拠は大化の「改新の詔」に関を設置すると書かれていることから、大化の改新時に既に関があったと考えての記述で、現地を知っての記述ではないと思われます。全く同じで大野東人が五柵に兵士を置こうと計画したことと五柵を勢力下に置いたこととは違います。藤原麻呂の奏上文をよく読めば矛盾点が散在し、東人が道を通したのでなく日高見国側の手になったものであることが分かります。 

多賀城の碑  

宮城県多賀城市にある「多賀城碑」に、 「此城神亀元年(七二四)歳次甲子按察使兼鎮守府将軍四位勲四等大野朝臣東人之処置也」 とありますが、このことは正史『続日本紀』に記録されていません。が碑文に、「この城」と彫られています。「この城は神亀元年……大野東人の処置なり」とありますが、神亀元年は大野東人が陸奥と関わる十年も前です。また柵でなく城となっています。当時の土地政策と多賀城の碑が建立されたとされる頃までの動きは次の通りです。 
養老三年(七一九) 按察使創立 
養老五年(七二一) この年以降、出羽は陸奥按察使に従うと定められる 
養老六年(七二二) 新田百万町歩の開墾計画 
養老七年(七二三) 三世一身法 
神亀元年(七二四) 新田百万町歩の開墾命令、多賀城の碑に大野東人の記名(東人が陸奥と関わる十年前) 
天平九年(七三七) 『続日本紀』に多賀柵の記録。大野東人、続いて藤原麻呂を陸奥に送る、多賀柵から秋田まで道が通る 
天平十四年(七四二) 大野東人没


元慶の乱より約六十年後の関東では平将門が立ち上がりました。平将門は桓武平氏、高望王の孫で父は良将、母はアイヌとの伝承があり夷俘の流れを汲む人です。将門は都に出て時の摂政関白太政大臣藤原忠平に仕えていましたが下総に帰り、父の遺領のことで父の兄弟など同族間と争いました。そのため、将門の争いは私闘であるとされていますが、実は関東の独立を謀ったもので、関東一円の人々は心から将門に賛同したのです。その背景には、過酷な税の取り立てを行う中央政府に対する人々の反発がありました。


Nakatsu Yuko. 消えた王国ーー日高見国(ひたかみのくに):知られざる東北の歴史(22世紀アート) (pp.175-176). 22nd CENTURY ART. Kindle 版.

元慶の乱は朝廷側の蝦夷に対する懐柔政策が功を奏して、蝦夷は降伏したとするが、田牧久穂は『元慶の乱・私記』でこれに異を唱えている。


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