ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

海を越えた電気釜

2002-12-07 | 香港生活
カイタック空港は市場のように混み合っていました。低い天井が人いきれを倍増させるように、上から圧迫してきます。引きも切らない英語と広東語の早口のアナウンス。大きなトランシーバーを持ち、真っ赤な制服にハイヒールで駆け回る航空会社の地上職員。長い民族衣装に身を包んだ中東系の一団がいるかと思えば、ブランドショップの紙袋を幾重にも腕にかけ、帽子を被った日本人観光客の団体も行き交います。活気と雑踏がないまぜになった、とてつもないエネルギーを秘めた空間が、長く長く横たわっていました。

そんな空港の一角、出発ロビーでよく見かけた光景。遠目にも人だかりがはっきりとわかり、近づいて行くと5~6人の家族と思しき人を囲んで20~30人の人垣ができています。周りには普通よりもはるかにたくさんの荷物があります。まるでチェックイン前のようですが、よく見るとどれも小振りでスーツケースなど大きな物が見当たらないことから、全部手荷物として機内に持ち込むようです。もっと近くまで来ると、大人たちが抱き合ったままじっとうつむいていたり、ワーワー大声を上げて泣いていたりします。ここに来てやっと、彼らが旅行に出るのではないことがわかります。

「移民かぁ~」
1987年当時、広告代理店に勤務していた私は頻繁に海外出張がありました。独身の身軽さもあって海外旅行にもよく出かけていたので、今の比ではないほど空港に行く機会がありました。
「飛行機を降りた瞬間から香港だった」
と、日本から来た友人が形容した当時のカイタック空港では、そんな海外移民の姿が珍しくありませんでした。1997年の中国返還まで10年を切り、返還を嫌って香港を発つ人がピークを迎えていた頃だったのです。

あまりに見慣れた光景だった上、世間知らずの若輩者だったこともあり、その頃の私は政治的な理由から海外へ移住して行くことが、どういうことなのかを突き詰めて考えてみるほどの想像力もないまま、
「大変そうだなぁ~。どの国に行くんだろう?まだアメリカって受け入れてくれてたっけ?」
と思う程度の、通りすがりの者でしかありませんでした。大の大人が公衆の面前で身も蓋もなく泣いている姿は異様だったはずですが、当時の香港はそれを一つの風景として完全に取り込んでしまっていました。

そんな中で、1人だけ今でも心に残っている人がいます。年の頃は70歳前後の痩せた老人で、家族の中の"おじいさん"に当たる人です。女子どもが抱き合っては泣き、見つめ合っては泣きと、終わることのない別れを惜しんでいる脇で、1人四角い箱を提げたまま、荷物を床に置くことさえ思いつかない呆然自失の様子で立っていました。深い皺が刻まれた顔には、荒野を流れる川のように涙の筋が光っています。声も立てず、真っ直ぐに前を見つめたまま、まるで目だけが涙を押し出しているかのようでした。

その老人が提げていたものは電気釜でした。段ボールの箱に写真がある、封を切っていない新品でした。西洋のどこかの国で暮らしていくために、どうしても欠かせないものだったのでしょう。人生の晩年で、それまで得たほとんどの物をここに残していかなくてはならない彼が、あえて預け荷物にせず自らの手でかの地まで持って行くことにしたのが、電気釜だったのです。それは彼にとって決して失うことのできない、今の生活の最後のよすがだったのかもしれません。

それを見て、私も初めて涙がこみ上げてきました。
「この人たち、本当は行きたくないんだ!」
そんな当たり前のことが、その時やっと理解できたのです。それでも香港を出て行くという辛い選択を下したのは自分たちのためではなく、限りなく次世代のためだったはずです。この時期に移住していったほとんどの友人が口を揃えて言っていたのは、
「私たちはどうでもいいの。でも子どもたちには未来があるから。」
と、いう言葉でした。あの老人もまた孫のために海を越える決心をしたのかもしれません。

あれから15年。通りすがりの傍観者だった私は結婚して家を成し、NZ移住を目指す毎日を送っています。私たちは100%自分の意思で、子どもだけではなく自分たちのためにも、住み慣れた香港を離れ、新天地に向かおうとしています。新しくなったチェクラプコック空港から旅立つ日には、不安よりも、たくさんの夢と希望をバッグに詰めて飛び立って行くことでしょう。でも私も新品の電気釜を持って行くつもりです。諸先輩の生活の知恵として、私の心の中での移民の原形として、そしてあの日見た老人への、遥かなオマージュとして・・・・・
                

(新しくなったチェクラプコック空港)


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編集後記「マヨネーズ」  
私が独身時代を過ごした80年代最後の香港は、移民のほとんどがカナダを目指していました。もうアメリカは入れなくなっており、家族などつてのある人以外、行ける可能性がほとんどなくなっていたのです。行き先は気候が温暖で華人社会も大きく、風光明媚なバンクーバーが人気でしたが、条件がかなり厳しくなってきており、トロントやフランス系勢力が強いケベックなどにも人が分散し始めていた頃でした。

マイナス何十度にもなるこうした場所での暮らしは、亜熱帯の香港から行った身にはさぞや辛かったことでしょう。当時、オーストラリアやNZも移住先の一つでしたが、オーストラリアは今よりもっと白豪主義のイメージが強く、「仕事もないし、行っても苦労する」という認識が強かったように思います。

後で知りましたが電気釜は移住する人へのプレゼントの筆頭だったそうで、「現地でも買えるものの、高くていいものがない」ということで、香港から持って行く必需品だったようです。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年8月)
かれこれ40年にもならんとする昔の話。電気釜はまさにアルミの蓋と本体が別々になる釜で、炊飯器ではありませんでした。

今の香港はまた、当時と同じ現実に直面しています。中国の統制強化を嫌う移住の急増で、過去3年間で人口が21万人も減少したとか。香港に14年も育ててもらった身。「いざとなったらすべてを捨ててでも海外に出る」というのは学んだ事の一つ。そして自分も実現したことの一つ。



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