縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

勾玉を通して過去の自分と対話する・・・後輩と先輩ふたつ我にあり

2021年12月07日 08時26分37秒 | ぬなかわヒスイ工房

超小型の勾玉を作り始めた頃に沢山買ってくれた方が個展に来てくれて、父親の遺品のメノウ原石でなにか作ってほしいと頼まれた。

初期の超小型の勾玉は今みるとカタチと研磨に迷いが看てとれ、恥ずかしいので作り直しはサービスとして、古代風の勾玉首飾りとメノウ原石の荒れた表面を活かしたペンダントを作った。
 
過去の超小型の勾玉は白ヒスイだったのだが、研磨し直したら淡い浅黄色がほんわりと浮き出てきて、あの当時はこれを目指していたんだよねぇ・・・と過去の自分と対話。当時の自分が現在の勾玉をみたら師匠と呼んでいただろうなぁ。
 
だから10年後には現在の勾玉をみて「一生懸命さは感じるけど、まだ青いナ」とおもうに違いない( ´艸`)
 
勾玉とはなんぞや?という質問に不易流行理論で説明してはいるが、後輩と先輩が同時に存在する自分自身が不易流行でしたネ。しかし後輩は先輩の言葉を聞けないのが人生ですな。
 
デリケートな石英系の石材は、ヒスイでは目立たない研磨傷や研磨ムラが如実になるので勾玉つくりの勉強に最適。
また楕円形のペンダントトップや丸玉のアウトラインは中学で習う関数で数値化できるだろうが、変化しつづける放物線だけで構成された勾玉となるとそうはいかず、ほんとうはとても難しい立体造形。
本来のメノウ表面はがさがさ・・・
研磨するとこんなに違うのですわ。
 
勉強させていただいております。個展の注文品の発送はすべて終了。
 
今日から「令和の大首飾り大改修プロジェクト」始動だ。
 
 

 


還ってきた「平成の大首飾り」・・・装身具の価値は不易流行

2021年12月05日 11時56分43秒 | ぬなかわヒスイ工房

2年前に松阪市立「松浦武四郎記念館」納品した「平成の大首飾り」が還ってきた。

納品時より丁寧な梱包に、松浦武四郎記念においての大首飾りの扱いに感激した。すべての梱包をほどく所要時間30分弱(笑)
 
 
記念館が老朽化のためにリニューアル工事となる機会に、展示をこれまでの平置きから誰でも見やすく立てて展示して、記念館の目玉として強調したいのだそうだ。
 
そこで問題が発生したのデス。
来館者が首にかけて記念写真を撮るイベントに備えて、玉類243点を繋げた絹糸を引っ張り強度にすぐれたPEラインに代替したのだが、繰り返し首に掛けているときつく結んでもポリエステルの糸では自重で滑って抜け落ちることが判明したのだ。
 
そこで常時たてて展示するので、糸が抜け落ちない工夫を依頼されたのですネ。色々と検討したが、やはり実物と同じ極太の絹糸で結束すべきだろうと結論した。
 
2年前は極太の絹糸をいくら探しても見つからなかったが、今回は西陣織り業者のサイトであっさり見つかったのが不思議。
 
それと実物は滑石の勾玉が20点ほど混ざっているのだけど、柔らかい素材ゆえに紐孔が自重で広がって勾玉が壊れかけていたので頑丈な蛇紋岩に代替したら、全体的に黒っぽい印象が強くなったのが心残りだった。
 
納品数か月後に滑石と色合いが似た石灰岩で作ればよかったナと気付き、いつか手元に還ってきたら石灰岩で作り変えたいものと考えていたのだ。その「いつか」が突然やってきた。
 
絹糸に交換する工賃はちゃんともらえる。蛇紋岩の勾玉20点を石灰岩で作り変えるのは、製作者の自尊心の問題だからサービス。
 
ざっと2週間の無給の仕事になるが、ここでやらないと一生後悔するから、やる。
 
これで「ヒトと大首飾りの物語」に新たな一項が加わる。装身具の価値は素材のみにあらず、目に見えないヒトとの物語にもあるのだ。私はこれを「装身具の不易流行」という。不易流行(ふえきりゅうこう)は松尾芭蕉の造語で、不変と変動は二つで一つという意味。わかるかなぁ???
 
前回は「平成の大首飾りプロジェクト」だったが、年号がかわった大改修で生まれ変わるのだから「令和の大首飾りプロジェクト」だ。
納期は来年1月中。
 
松浦武四郎記念館は5月連休前にリニューアルオープン予定。明日から「令和の大首飾りプロジェクト」スタート。
 
 
 

 


がんばれ~浅草ビューホテル!・・・浅草賛歌

2021年12月04日 10時53分36秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
西浅草のランドマークは、国際通りにある浅草ビューホテル。
ビューホテルができる前は倍賞千恵子・美津子姉妹が活躍していたSKD(松竹歌劇団)の国際劇場があった場所で、それが国際通りの名の由来だから昔から西浅草のランドマークだった訳だ。
 
ビューさんは外国人観光客が多くても、観光と地域密着のバランスが好ましい。
地元の柴崎中町会の町会神輿が老朽化した際に、ロビーで常時展示する条件でポンとお金を出して新調したので、浅草の町会神輿のなかでも際立って立派。今では宿泊客ではなさそうな人も写真撮影をする観光スポットになっている。
 
神輿は祭りの時以外は神輿庫にしまっておくものという建前論より現実論が優先するのが、卑賤の者を江戸城の東端に集めて開発させた街の「らしさ」でもある。古さと新しさが入り混じって人間臭いのが浅草のいい所で、これがざっくばらんというヤツ。
 
三社祭りの宵宮では、西浅草中の町会神輿がビューホテルの玄関前に結集してものすごい熱気で、日頃は高級ホテルに縁のなさそな担ぎ手たちが、半纏に褌姿でトイレを利用させてもらっている。騒がしい担ぎ手もビューホテルのトイレを使わせてもらう際には、お上品なたち振舞いになるのが微笑ましい。
私の浅草ガイドでは、「文字家」でモンジャ焼きのあとにビューホテル・浅草寺・浅草神社の三社祭コースが定番。
 
ビューホテルの窓の明かりが半分も灯っていないのは淋しい風景。がんばれ~浅草ビューホテル。

根津の景観・・・立川談志師匠を偲ぶ

2021年12月02日 08時33分59秒 | ぬなかわヒスイ工房

根津で個展があったお陰でじっくり探訪することができ、暮らしやすそうな街なみに感激した。

幹線道路の言問い通りのマンションに立川談志さんが住んでいた縁で、その1階にある「八重垣煎餅」の包装紙は談志さんの図案だそうだ。

煎餅屋のすぐ横に風呂桶を生産・修理する昔ながらの風呂屋(桶屋)が残っていた。
 
バス路線とメトロ駅のあるにぎやかな幹線道路を一歩路地にはいると、昔ながらの下町の落ち着きが残っていた。
路地裏の飲食店に前に鷹がいたし、去勢されてエサをもらっている「地域ネコ」がいたるところで昼寝していた。
車が滅多にはいってこない根津の路地裏はネコの天国。ほっとする風景ですな。
 
がで古今亭志ん生は日暮里、林家三平は根岸、そして立川談志が根津に住んでいた理由に納得。
根津神社ちかくの表具屋さん。
 
寄席の多かった上野・浅草方面にはバスで20分弱、タクシーで1,000円ちょっとの料金だし、寄席にでることのできない立川流の若手の修行の場は、根津から歩いていける距離の日暮里のサニーホールなのだ。
言問い通りには由緒ありそうな料亭があった。
 
JR線や地下鉄ではなく、バスと自転車で移動すると地形がわかって面白いことも知った。谷中は谷の中間にあるから谷中なのネ。
個展会場のHOPIギャラリー近くにある路地裏の児童公園のトイレがすごい設備。
言問い通りから谷中側に一本はいっただけで雑多な商店街があり、安くて旨く、ボリュームもある定食屋がたくさんあったので助かった。
 
どうでぇ根津は・・・安くてうまい飯屋、料亭、煎餅屋に饅頭屋、なんだって揃ってらい。これが人の住む街ってぇもんだ。
 
亡くなってから10年になるそうだが、江戸好みだった談志さんの自慢が聞きたかったナ。