「沼名河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも・・・」と、元祖ヒスイ拾いを物語ったような万葉集に詠まれたヌなす川、すなわちヒスイを産するヌナカワはどこにあるのか?ヒスイが拾えるのは姫川水系と青海川水系だが、ヌナカワとはそれら河川の昔の名前?
現在は地元の人からも忘れ去られているが、じつは奴奈川(ヌナカワ)は姫川左岸の田海区に、今も用水路として流れている。水源は糸魚川のランドマークといえる黒姫山だ。
糸魚川の郷土史家の青木重孝氏は「青海町史」のなかで、奴奈川姫が実在したなら、東西を姫川と奴奈川に挟まれた大角地遺跡(おがくちいせき)に居住した可能性が高いのではないかと推理している。
写真は国道8号線沿いに西を向いて建っている奴奈川姫の銅像。何度でも書くけど、わたしの子供のころは東の市街地に向いていたが、平成の大合併の時に向きを180度かえられて、このころから「奴奈川姫は西の彼方におわす八千鉾神を偲んでおられる」といった類いの宣伝文句がでてきたのですネ。
脱線になるが、おそらくこのタイミングあたりで「奴奈川姫と八千鉾神の古代のラブロマンス」が観光資源として本格化したのではないだろうか。また聞きだけど、当時の市議会では「国道8号線を通るドライバーに銅像が尻を向けるのは無礼である」と銅像の向きを180度変えると議決されたらしい。市民に尻を向けて無礼ではないのかw・・・本当の話しかどうかは不明。
ちなみに大角地遺跡は、国内最古級のヒスイが出土した縄文~古墳時代の玉つくり遺跡。もっとも出土品は装身具ではなく、石器つくりのハンマーと考えられる原石だが、位置的には姫川と寺地遺跡の中間くらいにある。今なら産業道路沿いのコンビニ付近ですナ。
糸魚川市長者ヶ原遺跡考古館の展示品。友人のオランダ人考古学者のイローナ博士は、アルプス山麓に硬玉ヒスイ製の長大な磨製石器を威信材にした文化が7,000年前にあったとレポートしている。老婆心ながら威信材や装身具ではなく未加工の道具としての前期初頭の使用例だから「国内最古級のヒスイの使用例」と表記した方が無難かなぁ・・・これも何度も書くけどw
姫川を西に渡った左岸から黒姫山を望む。現在は山頂に多賀明神が祀られているが、口碑には奴奈川姫命・奴奈川彦命・黒姫命の三柱を祀るとあり、黒姫は奴奈川姫の母神とも、黒姫は奴奈川姫ともあるので、奴奈川姫は皇后で黒姫は上皇后のような世襲制の女系家族であったことを伺わせる・・・かなぁ。
青木氏の論拠は、大角地遺跡の西に奴奈川が流れる沿岸に黒姫山を遥拝する西向きに奴奈川姫を祀る山添神社が鎮座し、ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴(黒姫山)の状況証拠が揃っているというもの。
奴奈川左岸の山添神社。多くの神社は南面しているのは「天子南面す」という中国思想の影響によるものらしく、それ以前は祭祀の対象を遥拝する向きに建立されていたと聞く。現在の山添神社は西向きで黒姫山は見えるものの、正確には南南西に黒姫山が見えるのでちょっとだけズレている。建て替えの際に西方浄土思想をうけたものか?今は新幹線の高架が邪魔して見えにくいけどw
ご祀神は奴奈川姫命・菊理媛命・建御名方神とあるが、氏子は黒姫権現と呼び奴奈川姫命と同義としているようだ。菊理媛命は中世の白山信仰の流入以降だろうし、建御名方神は奴奈川姫の息子とされてはいるが、糸魚川地域には建御名方神に関連する伝説は皆無といってよく、これまた中世の諏訪信仰の流入からではないだろうか。
残念ながら奴奈川ではヒスイは拾えないし、不思議なことにこの地域には黒姫山にまつわるヌナカワ姫伝説はあっても、イズモに関する伝説が皆無なのだ。つまりはイズモ勢力の侵攻をうける以前の古代ヌナカワ祭祀圏の中心地であったものか?
ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴という条件なら、姫川右岸の拙宅周辺の糸魚川市街地も負けてはおらず、むしろ豊富にそろっている。ヌナカワ姫に懸想したイズモの八千鉾神から逃亡して、拙宅南2キロの岡のうえにある稚児ケ池に追い詰められて「お隠れになった」といった生臭い口碑まである。
現在の糸魚川市の範囲に数あるヌナカワ姫伝説のなかで、イズモ絡みの伝説は姫川左岸には見当たらず、右岸にのみ語り継がれてきたのは何故だろうか?信州には姫川右岸沿いの県境付近に、ヌナカワ姫がイズモから逃亡してきたといった類いの伝説は残っている。
そんなことから、「古代越後・奴奈川姫の謎」の著者の渡辺義一郎氏は、伝説を時系列に並べる試みをして、黒姫山のある青海区がヌナカワ姫伝説の発祥地であり、弥生時代くらいに古代ヌナカワ姫祭祀圏の中心地が姫川右岸の現在の糸魚川市街地に移動したと推理しておられ、この解釈は概ねはわたしも同じ。
ただし神社の由来や伝説は時代によって変容するものだから、伝説そのままを時系列に並べられるとまでは考えてはいない。
大正時代までの奴奈川神社が、ヌナカワ姫とヌナカワ彦を祀った柳形神明神と呼ばれてきた史実に加え、柳形とは稚児ケ池の小字ということがわかっている。そこに加えて、明治末に糸魚川町・柳形村・奴奈川村が合併したという文章をみつけたので、この正月は柳形村と奴奈川村の所在地を探そうと思う。全五巻もある「糸魚川市史」のどこかに書かれているかも。
*文中に奴奈川とヌナカワが混じっていて読みにくいでしょうが、文献や由来などに書かれている固有名詞は「奴奈川」と漢字表記をして、個人的な想いの部分ではヌナカワとカタカナ表記をしております。
なぜなら漢字の奴の由来は「囚われた女奴隷」を意味する象形文字ですので、氏子としてつかうに忍びないからです。
奴の漢字表記は「出雲國風土記」からで、記述者が純粋に発音に当て字しただけなのか、あるいは見下す意識があっての当て字であったのかは不明です。
しかしながら糸魚川に伝わるヌナカワ姫伝説は、イズモ勢力の武力侵攻があったことを伺わせる内容が多いことと、考古学的な物的証拠には山陰方面と友好的な関係を伺わせる資料がまったくなく、むしろ隷属関係であったらしいことが伺えて、悲劇的な伝説と符合がいくのです。
そのことから大正時代くらいの郷土史家たちは、蝦夷のヌナカワに弥生文化のイズモに征服されたのだろうと考えており、昭和に糸魚川市史を編纂した青木重孝氏も同じ見解であったようです。
ヌが玉を意味するなら、瓊瓊杵尊とおなじくヌナカワは瓊奈川とするのが字義通りであると考えております。
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