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親父がテンカウントを聴いた日・・・父、山田明逝去

2022年10月26日 05時46分01秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
親父の長期入院先の病院から、容体が下降しつつあるからと、2人限定で5分間だけで面会許可がでて。来るべきものが来たと覚悟。
お袋を連れて一年半ぶりに会った親父は、呼びかけに微かな反応をするものの、肉がそげ、白く、小さくなっていた。
 
昭和9年生まれ、昭和32年度の社会人ボクシング選手権ライト級チャンピョンの親父が、人生のテンカウントを迎えようとしている。
親父は中卒で工員になったが、喧嘩にあけくれ、ナイフで胸を刺されたこともあるくらいの荒んだ十代であったようだ。
 
しかし人生の転機は突然やってきた。
それは本屋で売られていたグラビア雑誌の表紙を飾る、史上最高のボクサーと称されるシュガー・レイ・ロビンソンのノックアウト写真を目にした刹那、「かっちょええ!」と思った時。
親父はシュガー・レイに憧れ、それまでの無頼な生活から足を洗い、家の前の樹に手製のサンドバッグをぶら下げ、まったくの我流でボクシングを始めた。
昭和20年代後半だからボクシングの教本もなく、ロードワーク・縄跳び・サンドバック打ちのたった独りだけのトレーニング。
 
周囲からボクシング馬鹿と笑われたが、噂を聞いた人から富山県高岡市のアマチュアジムを紹介してもらい、休日のたびに鈍行列車で富山通いをして本格的にボクシングを習った。
最初は富山県の選手として試合に出ていた。
 
親父の糸魚川デビュー戦が4月10日の「けんか祭り」の当日。
親父は欲得のない、開けっぴろげで天真爛漫な性格だから、早い段階で後援者がたくさんいて、明治と早稲田のボクシング部の交流戦を糸魚川に招致して、祭りでにぎわう神社のすぐ横の、糸魚川小学校体育館に特設リングをすえての大会だった。
晴れの舞台で親父はノックアウト勝利。
後援者が大手製造業を紹介してくれて、保安課に職を得た。
 
弟子入り志願者で出てきたこともあり、糸魚川警察署の柔剣道場を間借りして、「糸魚川アマチュアボクシングクラブ」を設立。
この時の若い巡査たちも出世した後に後援会に加わわり、普段は強面の刑事や署長が拙宅で酔っぱらっては珍芸を披露していた。
 
現役を引退した後は兄の経営する建設会社の倉庫を改装して、アマチュアでは珍しいフルサイズのリングと設備が揃った立派なジムを作った。
チャンピョンも誕生したし、プロボクサーになった練習生もいた。
もちろん私もボクシングを習ったし、いつしか同級生たちも通い始めたのは、映画「ロッキー」や漫画「がんばれ元気」がヒットして、具志堅用高さんが防衛記録を伸ばしていたころだ。
 
ガッツ石松など6人の世界チャンプを育てた名伯楽、エデイ・タウンゼントが特別コーチに来てくれたり、駒澤大学のボクシング部が夏の合宿にも来て、我が家はいつも選手と関係者でにぎわっていたので、一族総出で親父を支えたし、広いジムは近所の子供の遊び場にもなっていた。
 
高校の学園祭の時は、今は中堅漫画家として活躍している美術部仲間が、大林宣彦監督作品「転校生」のオマージュとして、ボクサーが主人公の8㎜映画を撮るからと協力を頼まれ、私はレフリー役兼ボクシング場面のアドバイザーとしてジムで撮影した。
あのフィルム、まだ残っているのか?今はもう無いジムを観たいもんだ。
 
ボクシング馬鹿の親父の遺した数々の思い出。
 
短気ですぐに手が出る厳しい親父だったが、チーム糸魚川と合同合宿していた大学のボクシング部員がシゴキに耐えかねて倒れ、先輩がバケツの水をぶっかけて起こそうとした刹那、親父は「かわいそうなことするな!休ませてやれ!ダボやぁ!」と激怒した。
ガチガチの体育会ノリは大嫌いで、「愉しんでボクシングせんきゃいけん」が口癖だった。
 
シュガー・レイ・ロビンソンの現役時代はまだテレビが普及しておらず、親父は映画館のニュース映像で試合を観て、かっちょええ!とボクシングの手本にしたようだが、いまYouTube動画で観ると確かにかっちょええ。
 
長身痩躯のシュガー・レイは、アップライトに構えてリズミカルなフットワーク、左のリードパンチから急接近して強打を打ち込むボクサーファイタータイプ。
力強くもスタイリッシュな近代ボクシングの創始者の一人であり、若き日のモハメド・アリも手本にしたボクサーだ。
 
シュガー・レイのシュガーは、砂糖のようにスイート(格好いいを意味するアメリカのスラング)なボクサーと評されて以来のニックネーム。
 
手先は不器用だし、並の運動神経の持ち主だった親父でも、コツコツと努力を積み重ねてチャンプになれたが、仕事でもその道のプロフェッショナルとして評価されるようになった。
 
親父が勤務する保安課は、緊急事態がなければ閑職で、特別な知識も必要とされなかったが、中年期に安全衛生管理部門へと配置換えとなった。
安全衛生とは、製造業や建設業などで義務化された、法規に基づく安全管理のことだ。
前述のとおり、親父は喧嘩は強くても勉強は苦手だったし、貧乏ゆえの中卒だったから、難しい漢字は駄目。だから法規の解釈に必要な素養は無かった。
 
最初はチンプンカンプンで仕事にならず、職場の人間関係にも悩んで、退職について母と話し合っていたようだ。
夜中に母とボソボソと深刻そうな話しをしていたのを覚えているが、この時ではないか思う。
しかし今度は家族のため、親父は持ち前の負けじ魂を発揮した。
 
まず近所のインテリを家庭教師に雇い、夜毎に法令集の解読を助けてもらったり、休日は仕事で知り合った法務局の若手職員の自宅で法解釈のレクチャーをしてもらっていた。
 
数年後には安全衛生の生き字引と評価されるようになり、中卒で一部上場企業に中途採用されたにしては異例の出世をした。
社内の管理職からは「山田さん、かなり法規にお詳しいですが、どちらの法学部を出られたのですか?」とたびたび聞かれ、中途採用の中卒と答えて、びっくりさせるのが面白かったようだ。
そんな親父だから、部課長クラスが中心となり「山田の会」というファンクラブのようなものができ、若い頃からの付き合いの警察関係者、法務局関係者らと一緒にジムのサポーターになっていった。
 
こんな親父を幸せな人だと言う人もいるが、地道にコツコツと努力を重ねる「継続は力なり」を地で行くド根性の人だったし、純粋無垢で陽気な性格だったから、多くの人が助けてくれたのだ。
 
定年を迎えるまでの毎晩9時までは、晩めしの後の茶の間で、ボロボロになった法令集を開いては翌日の仕事の要点を書き出し、母にワープロで清書させていた。
 
親父の幸運といえば、献身的このうえもない母と結婚したことだろう。
 
経営者を集めた大規模な安全衛生大会で講師を務めた親父が、最後に「こんにちあるのは家内のお陰」と感極まって、ボクシングジムの開設から今日に至るまでの母の献身を語り、満場の聴衆がもらい泣きして拍手喝采で終わった、と参加した人から聞いたことがある。
 
糸魚川ボクシングクラブの選手たちのトランクスとハイソックスは、選手に金銭的な負担をかけては可哀そうだと、お袋が手作りしていた。
選手たちや来客の食事や宿泊の世話に追われるお袋は、いったいいつ寝ているのか?と心配になって、お袋が酔いつぶれた宿泊者の介抱をしている間に、小学生の私は流し台に積み上げられた汚れた食器を深夜に洗っていた。
だから面倒なことはお袋におしつけて、呑気に酔っぱらってイビキをかいて寝ている親父を憎らしく思っていたし、今でもその思いはある。
それでもだ・・・。
 
親父のアイドルだったシュガー・レイのボクシングスタイルのようにスタイリッシュとはいえなくても、泥臭く懸命に生き、多くの人に愛され、支えられたスイートな人生だったと思う。
お袋への思いやりの無さは別として、我が人生に悔いはなし、と本人も思っていると思う。
 
お袋も「自分は好き放題なことやって、面倒は全部わたしに押し付けた」と、最近になってから苦労話しをするようになったが、「でも普通じゃ体験できない面白いことをいっぱい体験できたのはお父さんのお陰」とフォローしている。
 
それは私も同じ想い。
 
ここ数日、お袋と家の片づけをしながら心の準備をしていた。
そして今朝はやくに旅だった。享年88歳の大往生だった。
これから病院に迎えに行くが、しばらくは連絡つきにくいです。

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