Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

「ボクは猫よ」

2006-05-05 16:26:28 | ねこちゃん

吾輩は猫である。Io sono il gatto. Mi chiamo Neko.
「ボク」の名前が「ネコ」だからだ。 もっといい名前くれてもよさそうだが、あるだけでもよしとしよう。
飼い主の曽野綾子さんだって、どう自己紹介するの?
Io sono Sono. Piacere. 「わたしはSonoよ。はじめまして」こんなのあるかにゃあ?

さて、ホンの題名は、「ボクは猫よ」。
明治38年1月「ホトトギス」巻頭をかざった夏目漱石「吾輩は猫である」に遅れること何ン十年、「飼い猫ボタ子の生活と意見」に先立つこと十年、現代の女流文豪の佳作「ボクは猫よ」は、昭和54年9月から「秋田魁新報」に連載された。
「元祖・猫」のほうは読み直すと大変だから、のり坊氏、道草食ってるんだね。でもいい遠回り。彼は、曽野さんのきれいな単行本を大量に見つけため、千円ほども使って買い占めたなかの一冊に、105円の「ボク」がいたわけなのだ。

ところが、これならうちにあるじゃない!と、「ねこ」キーワードなら数百冊お持ちの愛妻のバ声がきこえた。
ムム、いま二階の納戸のあたりの本箱はどうなっておるのか?なあに、猫も二匹いる事だし二冊あっても...「海の見える芝生で」1961新潮社なんてのも家にあった!

この前の掘り出し物、読んだ気配もない「狂王ヘロデ」。岩波やみすずのを出してくれる人いればいいのだが、殆どないのだな~。ホントに読んでれば、もったいなくて捨てられないよね。

「ボク」といえば、苦沙弥先生のとこの後輩みたいなもの。あちらも読書家だったし、耳もよかったなあ。あやかって「ボク」も小説家の「裏見おばさん」の家と、ご近所を科学的観察眼と哲学的な思索をもてあそびながら歩き、さまざまな場面に出くわす。
おばさんのお知り合いも続々登場、誰だろう・誰かしら?
吉来淳太郎、熱川弘文、大松右京、蚕太、堺大一郎、豊村穣、近田芸太郎、白根耕一郎...
しかして、聖職者と呼ばれる修道女や神父たちが、なぜおばさんの心を捉えるか?
昔から彼女は、それらの人々の中に、「捨て身」なものを見てきたからであった。山谷のシスターたちの夕の祈りに感動する。インスタントラーメンの袋でヨダレかけを作る母親の貧しい国にも行く。

開いてある本の上で昼寝をし、ショーペンハウエルなども拾い読みをするので、なかなか哲学的となるよ。ときにバタンと閉じて、読みかけのページを判らなくする。難しくなりすぎてもね。
「ボク」がちょっと話題にしたものだけでも、こんな具合だ。

「エウデモス倫理学:アリストテレス」で、風変わりな人とは何か?
「エネルギー:アーサーへイリー」にて、物語の構成力ということについて。
「ローマ人への手紙 4章7、8節:聖パウロ」が、カトリックとプロテスタントの違いの鍵。
「時代精神の病理学:フランクル」で、断念に馴れる。
「エミール:ルソー」は、死へ向かってまっしぐら。
「随想録 フランシスベーコン」には、燻製塩豚氏の書くローマ皇帝最期の言葉。
「新約聖書」ギリシャ語勉強すれば、愛することは、アガパーオー、フィレーオー、エピポセーオー。
「二都物語 ディケンズA Tale of Two Cities ; Charles John Huffam Dickens」少女時代に夢中になるべき本なのか。
「?? ピエール・ジョゼフ・プルードン」統治される、される、される、女々しい被害者意識だ。

さて、ボタ子のほうは、少しは時が新しい二匹目の...だったかなあ。
でも、もう「ボク」いないよ~。「ボタ子」はどうかな~。三浦おじさん・曽野おばさんは、大いに元気みたいで、いいねえ~
おっと、画像はうちのハクちゃんの「伸びー」芸でした。


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